#24 悪魔に見初められたように(アネモネ)
世の中には夥しい数の憑きものが存在している。
それらは明瞭と存在しているのだ。
だが、その事実をほとんどの人間が知り得ない。
それはいわずもがな、“見えない人間”が大多数を占めているからだ。
たとえ、“見えている者”たちが口をそろえて真実を語っても――つまりは、我々には憑きものが見えていると主張しても――大体の人間はその話を受けつけない。
更には、面白がった人々に囃し立てられ、半信半疑に支持されて、流言飛語が飛び交うこととなり、余計に錯乱する。
真相とは、情報量が多ければ多いほど、雲隠れしてしまうのである。
一般の人々は悪逆非道な憑きものがたくさんいることも知らない。だから、足をすくわれることとなる。
人は生きる。現に年に二千人以上の人間が、憑きものによって殺されている事実さえ知らぬまま――。
憑きものが人間を殺すことなど日常的にあることだ。
その殺しが主の指示であれば、“よほどのこと”がない限り、目を瞑られる。
公式の殺しであれば、文字通り、正当化されるのだ。
だが、時として憑きものの独断で人を殺す場合もある。
姿が見えないのをいいことに、取り憑いて人々を恐怖のどん底に陥れたり、直接、人を葬ったりと――。憑きものの中には様々な手法を使って、人を殺して回る殺人狂だっている。
もちろん、そういう憑きものは世にはばかることを許されない。
また、“よほどのこと”が起こった場合も例外とされる。
例えば、一人の主の指示で、あまりに多くの人間を殺した場合、環境を汚染するような場合、世界を揺るがすような独裁的な行為をした場合、“生きていてはいけない憑きものが生きている”場合――等々。
そんな憑きものを討伐するため――。
だから彼らが存在している。
憑きものを殺すことを目的としている集団。
それを――“憑きもの殺し”という。
また、“憑きもの落とし”という職業も別の系統として出来している。世間で出回っている言葉で置き換えれば、いわゆる陰陽師という奴だ。――が、奴らのすることはほとんど児戯に等しい。
憑きものに取り憑かれた人間から“憑きものを落とす”ことまでしかしない。ようするに、殺さずに、『もう二度と悪さするなよ』といい聞かせて逃がすのだ。これを幼子の真似事といわずしてなんといえよう。
別に奴らは憑きものに情けをかけているわけではない。そうでもしなければ、その憑きものの主との間に軋轢が生まれ、商売が難しくなるという利己的な理由からだ。意趣返しなどされたらたまらない。
しかしながら、それでは駄目だ。結局は悪逆な憑きものは野放しにしておくべきではなく、駆逐しなければ意味がないのだ。いや、駆逐しなければ、人が人として生きていく上で安心できない。
しかも、“憑きもの落とし”の連中はそれを生業であるなどと、平然と名乗っているのだから厄介だった。民衆からありがたがられ、依頼もくる――つまり、商売として成り立っている。その“成り立っている”というところが問題だ。
儲けが生まれてしまえば、胡散臭さだけではなく、営利的な一面までもが生まれてしまう。『憑きものがいるからそういう商売が成り立っている』のではなく、『“彼らが金を稼ぎたい”から“憑きものなどというありもしないものが誕生した”』というように、生まれてはならない合理性のとれた見解まで生じてしまうのだ。
これも、憑きものという生物が世の中で認められなくなった、一つの要因であるといえる。
憑きもの殺しは、その点、とても頭がいい。目に余る憑きものは容赦なく殺す。見た目がなんであれ、たとえ、目標が幼子の恰好をしていても、たとえ、目標が愛嬌たっぷりの容姿をしていても――――殺すのだ。
もし、“憑きもの殺し”という職業がなく、悪逆な憑きものが傍若無人に暴れることとなれば、人類は簡単に滅亡の一途をたどることとなるだろう。
人類が滅亡する。
となれば、いずれは憑きものも絶滅する。
なぜなら、いくら悪名高く、狡知で強靭な肉体を持った憑きものであれど、自らの身体だけでは妖力を生成することができないからだ。
妖力は人間しか持っていない。だから憑きものが人間を皆殺しするわけにもいかない。人間としても利益をもたらしてくれる憑きものをみすみす殺すわけにはいかない。どうせならば利用したいと考える。
したがって、この二種の生物は共存共栄を強いられる。
世の摂理というのは、中々どうして上手く回っているものか――。
それにしても――。
日本の憑きもの殺しは呆気なさを覚えてしまうほど弱かった。
俺は向こう《アメリカ》ではメジャーな憑きものであるが、こちら《日本》ではあまり知られていない。関心がないのか、一人一人の危機感が足りないのか、それとも、よほど国民が暢気なのか、とにかく、俺のような存在でもほったらかしにされる。否、受け入れられる。
こんなのんびりとした昼下がりは久しぶりだ。向こうでは味わえない。
更には、憑きもの殺しの連中もアメリカの広大な大陸で育った者たちよりも生ぬるい。日本人は動きが窮屈なのだ。小ぢんまりとした島国で育ってきたためか、土地を利用しない。
敵対する相手だけを視野いっぱいに入れ、最小限な動きだけで“かた”をつけようとする。人間同士の一対一の闘いでは有効かもしれないが、それでは憑きものとの闘いにおいては、とてもじゃないが、勝利を掴めない。
決して日本人を莫迦にしているつもりはない。
それを恥じる必要はない。むしろ誇るべきことだ。国民一人一人に力がないという事実は、この国が平和だという証明、そのものなのだから。
国民の質は、“慣れ”で形成される。
紛争が至る所で勃発するような国では、国民それぞれが銃を所持することを赦される。殺される前に殺せ、と――。
異端なことではない。異常なことではない。異様なことではない。
それがその国にとっての“普通”なのだ。
つまり、「当たり前じゃないか」と口々にいわれ、そうしているうちに、「当然か」と“慣れてしまう”のだ。
結局のところ、倫理観やら道徳観やらを決めるのは国民だ。国民は一定ではない。状況や置かれた立場が変われば、倫理観やら道徳観やらも変容していく。世は無常なものだ。
それらを統一し決定するのが、法律や教育だ。だから、戦争がなくなり、軍事力をも放棄した日本の民は、穏やかな気質を持った人間が多くなった。平和でいることに“慣れた”のだ。
国民の“慣れ”――。
尚、それは社会とも呼ばれる。
国民が暢気で、凶暴な気質を持たぬ国――日本。
無論、そうであってくれた方がこちらとしては都合がいい。俺のような存在でも気軽に町を歩け、悠然と音楽も聴けるし、寿司も食える。一昨日行った銭湯という場所もなかなか気に入っている。
今現在、俺は家屋の屋根の上から街を眺めていた。向こうに比べつまらない景色だが、それなりに見えるモノだ。気取った建物が少ないところも面白い。
天井を挟んだ下には我が主、藤堂間宵がいる。彼女が家にいる時、たいてい俺はこうしている。
向こうで暮らしていた時から、屋根の上が好きだった。屋根からは街が一望できる。そうして人々を観察するのが、俺のささやかながらの趣味だったりとする。ここは少し低いが――。
国際空港からこの家に来るまでの間に、すれ違う人間をじっくりと観察して気がついたことがある。
この国の民はどこかが変だ。
皆、死んだような目をして電車に乗る。皆が精彩を欠いた面持ちで町を歩いていく。
まるで働くことだけに捕らわれ、それが正しいと信じて疑わない。
そうしなければ生きていけないという理屈を除いたとしても――変だ。
収入のいい者が好かれ、ロマンを語る者は影で笑われる。
いや、それはどこの国でも共通か――。
人生の本質というものをわかっていない。どこかの学者が唱えた、人生は自己実現のためにあるのだ、という倫理説がある。俺はまさしくその通りであると思う。己の人生は、他人を成功させるためにあるのではない。自分を成功させるためにあるのだ。
誰もがそんなことは承知なのかもしれない。承知だが、きっと生きていくうちにわからなくなってしまうのだろう。
行き交う人々の目を晦ませているのは、“金”という概念だ。
確かに金は大切だ。しかし、元々ぶつぶつ交換の代用品として、金というシステムができあがったのであって、帰するところ、金とはそれだけのものに過ぎない。対価であって等価ではないのだ。“もの”ではなく“概念”だ。
紙切れ一枚に何万という価値がつくのは異常であり異端だ。金の前では、希少価値という当たり前の感覚すらも排斥される。元来あるべき法則的な概念をことごとく壊滅させている。
だから、人は自分の命を削ってまで金儲けをするのだろう。
上手く回っているのだ。
上手く回っているのだが――。
利益至上主義であるこの世の仕組みは、頗るわかりやすいが、呆れるぐらいに愚かしい。
そんな考えを抱いてしまうのは、きっと金を使う必要のない憑きものの立場にあるからいえることなのだろう。憑きものは主に迷惑が掛からぬよう食費もいらないし、税金や運賃、払う必要がない。無論、宿なしだって生きていける。必要なのは主だけだ。否、主が持つ妖力だけだ。
人間、金こそが全てだ――。
中でも、この国は著しくその傾向が見受けられる。
住宅街であるここはまだしも、都心で生きる人間はもっと酷い。皆が暗い顔に虚ろな目をして、温い風を切って生きる。
見た限り、子供は無邪気で自由奔放。だが、社会に出た途端、皆同じような顔になる。
所詮、他人の人生なのだから悪くはない――。
悪くはないのだが――。
なぜだ、どうしてだ。なにゆえなのだ?
俺には到底理解が及ばない。
自分の人生が惜しくないのか――?
永遠だとでも思っているのか――?
自分自身を犠牲にしたいのか――?
だとすれば滑稽千万だ。
俺がこうしている今日も、連中は汗水たらして働いているのだろう。
春の温い風を切り、死んだような顔をしているのだろう。
まるで、悪魔に見初められたように――。
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セリフが一切ないですね(笑)
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