#1 新生活に身構えろ(敦彦)
思わず身悶えしてしまいそうなほど冷え切った室内は、春であることを連想させないぐらいの冷気が立ち込めていた。通り過ぎたはずの冬がなんらかの力で弾き返され、日本列島に舞い戻ってきた――ようにさえ思えた。
それでも春であることは変わりなく、気象庁によれば、すでに春は到来しているはずで、そろそろ暖かくなってもおかしくない――らしい。
そんな春先――。
暦でいうところの四月上旬――。
春眠、暁を覚えず、というように、いつにもまして布団の中が心地よく感じ、今朝はなかなか起きられなかった。春休みという休暇が終わりを告げるためか、周りの景色が慌ただしくなってきたというのにだ。
新学期、新学年、新社会人、新入生――。
ピカピカの言葉が騒ぎ立てられ、街から静寂をかっさらっていく。春というのはそういう季節だ。街を歩けば、「春休みが終わるぞ!」という哀憐とも憐憫ともつかない叫び声が、四方八方から聞こえてきそうだ。「新生活に身構えろ!」と。
そのようにして町の景色が喧騒に包まれていく中、僕はベッド上、窓に向かってあぐらをかき、修行に励む前の僧侶よろしく、きゅーっと精神を落ち着かせていた。これだけ騒がれている世の中で、冷静沈着である僕だけが泰然自若な態度で、春の到来を待ち構えている。
そうなのか?
いや、そうではない。
僕は僕なりに、新しく始まるであろう新生活、今春から加わる新要素に緊張しているのだ。新要素というべきか、元いた者が元いた場所に帰ってくる、それだけのことに過ぎないのだが、僕にとっては大きな問題であり、その“元いた者が元いた場所に帰ってくる”という些細なことで、生活スタイルが百八十度転換してしまうといっても過言ではないだろう。
そんな憂慮がある。気恥ずかしさもある。
だからこそ、精神統一をして心が乱れるのを抑えているといったところか。
「明日から始まる新たな学年をどのようにして迎えようか」とか、「今日の昼食はなにを食べようか」とか、「カーテンの下が少し汚れているので買い換えようか」とか考える余裕もなく、むしろ、そんな些事はどうでもよし、と感じてならないほどの切実なできごとが、数時間後に僕の身に降りかからんとしている。
急きたてる心臓の動きを意識的に沈静させようと、呼吸を止めたりとしていた。もちろん、そんな行為が実を結ぶわけがなく、酸素不足により逆に心拍数が高まっていく。それでも息を不規則なリズムで吐き出し、頑なに目をつぶる。
ここで、どさと音を立てて、ベッドに誰かが乗っかって来たかと思えば、すぐ隣から声が届いた。そして、母が好きだった花、ルクリアの香りが室内いっぱいに広がっていく。これは“彼女”が放つ香りだ。
「ご主人様! ご主人様ってば!」
僕の肩を揺さぶりながら耳元近くでかしましく騒いでいるのは、黒髪ツインテールにゴスロリ調といった奇抜な格好をしている、見た目、年端もいかない少女。実年齢は僕よりも上らしいのだが、彼女が年上然としている姿を目撃したことは一度たりともない。
彼女の胸元には可憐なリボンが付いており、着用しているノースリーブの肩口から、陶器のように白く滑らかな素肌が覗けている。春を迎えたばかりの服装にしては薄手だ。思えば二月の時からこの格好だった。本人いわく、寒くはないらしい。
大きな眸に、ほんのり赤みが差した頬。
この一見、現実的なものとは思えないデフォルメのかかった顔をした小娘の名は、沙夜という。
では次に、どうしてこんなデフォルメーションキャラクターが僕の部屋に存在しているのか、という話を明記していこう。
一口にいえば、単純な話だ。二か月前より、僕と沙夜は共に生活をしている。共に生活するというのは、同じ部屋で起き、同じ時間を過ごし、同じ部屋で眠る――ということだ。つまり、――同居生活と呼ばれるものである。
だが、同居生活といっても皆に羨ましがられるような、結婚だとか、同棲だとか、そういうことではない。断じてない。
高校二年を迎えたばかりのこの僕が、女の子と同棲しているなど、現実的に考えて、ありえない話である。大体、沙夜という少女は“憑きもの”なのだ。空想的に考えてもありえない話なのだ。
極力、話が飛躍しないよう心掛けるため、ここで一度、補足説明を付しておくことにする。
憑きものとは、一般人が認識できない生き物の総称をさす。極言してしまえば、他の動物と大した違いのない、ただ、“一般の人間に見えない生物”だけだ。
憑きものが一般の生命体と異にするところは、一般人が認識できないことを除き、大きく分析して、三点ある。
まずひとつ、憑きものに食事はいらない。妖力を得て生きていく。
そしてひとつ、憑きものは名の通り、人に憑依することができる。
最後のひとつ、憑きものは道と呼ばれる妖力を使った能力を発揮することができる。
たったその三点だけだ。それら以外は、他の生命体と変わらない。それぞれの詳しい話はひとまず割愛させていただく。
沙夜曰く、霊魂や妖怪などこの世に存在しているはずがなく、巷間、語り継がれてきた怪談話は、蓋を開けてしまえばなんということもなく、目に見えない生き物が跳梁跋扈し、民衆を混乱させているにすぎないのだという。
決すれば、憑きものと幽霊に大差はないではないか、と思う人がいるかもしれないが、それは違う。起こる怪現象のほとんどは、バチが当たったから、怨霊を怒らせたから起こったというような話ではなく、憑きものが生活しているだけで起こってしまった現象というのが適格だ。
憑きものが少し物を動かしただけで、ポルターガイストなる現象は平然と起こるし、憑きものが寝ている人の身体を押さえつけることで金縛りも生じ、憑きものが紙に文字を明記しただけで念写となり得る。
幽霊とは成仏できなかった死者の魂だ。彼女らは生き物だ。普通の動物と同じく、ただ生きているだけに過ぎないのだ。そこが大きく違う。
そんな話を出会った当初してもらったわけだが、どれだけ細かく噛みちぎっても呑み込める話ではないだろう。それは僕だって、始めのうちは、半信半疑だった。いや、確実に信頼していなかった。
それでも、今までの人生の経験、目の前の沙夜の存在、僕の目にだけ見えていた不気味な生き物。それらの厳然たる事実から推測すれば、彼女がいう発言は全て真実であることが計り知れる。
矢継ぎ早に短兵急な話ばかりしてしまい申し訳ないが、妖力という力についても付記しておかなければならないだろう。
僕の眸は、幼い頃から人ならざる者を映してきた。
それらが憑きものだと聞かされたのも二か月前だった。
ならば、どうして僕にだけそんなものが見えたのか?
それは、僕の身体に人並み外れた莫大な妖力が宿っているからだ。
妖力とはなにか、と聞かれれば、僕も素人に毛が生えた程度の知識しか持ち合わせていないので、少し返答に詰まらざるを得ないが、妖力とは、いわゆる、人が行動を起こす際に使われる力の源のようなものであり、ある人にはあるし、ない人にはない力だ。
かといって妖力皆無な人が短命だということは決してなく、どれだけ妖力が少量であっても、生きる上で支障を来たさない。妖力を使わない暮らしに身体が順応されるのだ。極言してしまえば、力の源であると同時に、あってもなくてもどっちでも構わないもの、ともいえる。
随分と解説が抽象的になってしまい気が引けるが、それらの事象を二か月前に知ったばかりの僕にそれ以上の説明を求めるのは、あまりにも酷な話だと思ってほしい。
妖力の有無は生まれで決定する。トレーニングを積んで妖力が増えることはないし、成長していく過程で憎幅することもない。親から子、子から孫というように、遺伝子の構造で決まる。だから妖力を持った家系(配偶者を除く場合もある)からは妖力を持った人間が輩出される。
とにかく、ある人にはあるし、ない人にはない。
そして、僕はといえば――。
莫大な妖力を身体に秘めている人間のひとりだった。
だから幼いころから憑きものが見える、らしいのだ。
僕のように妖力を多々所持している人間は、“憑きものという生き物”の存在を認知でき、“憑きもの筋”と呼ばれる。
僕は憑きものである沙夜に妖力を供給する。そして、沙夜は感謝の意として僕に尽くす。
だから、僕らの関係は、恋人同士とは呼ばず、世間でいうところの主従関係に値するらしい。
「な……なんだ?」
沙夜の方へ視線をやれば、彼女は首を傾げて、元々大きな眸を皿のように開けていた。
「私、なんだか猛烈にお腹がすきました」
彼女の言葉に噴き出しそうになった。
「憑きものなのに、か?」
なんせ、憑きものが必要とするのは、妖力だけであり、食物など摂取しなくても生きていける、はずだ。以前、味を占めてからというもの、度々自ずから食事を要求してくるようになった。
「憑きものなのに、です」
「僕はまだお腹がすいていないんだ。もう少ししたらな」
「むー、さっきからそればっかりじゃないですか!」
「そればかり?」
「そうですよ、なにをいっても上の空で、私のことをぞんざいに扱わないでくださいよ!」
ぞんざいに扱っているつもりはない。食欲がないのは事実だ。むしろ、緊張のあまり胃の中のものを吐き出しそうなほどである。
「どーしたんです? 今日朝からようすが変ですよ。なにかあったんですか?」
彼女が顔をぐっと接近させ、こちらに寄ってくる。せっかく落ち着かせた心拍数が上昇する気配を感じ、顔がぼうっと熱くなる。
「なにかあったんですか?」というクエスチョンに対する、アンサーとしてはたったひとつ。「なにかがある」。それも、今後の生活が大きく変貌するような、重大なできごとが数時間後に待ち構えていた。
――僕は今現在、ある人物との対面を間近に控え、途轍もなく緊張していた。
だが、それを沙夜に説明するのは面倒くさく、別段、伝える義理のない話なので、言葉を濁すことでこの場を収めようとした。
「ああ、悪い悪い。ちょっとばっか緊張しててさ」
「きんちょー? ご主人様。私といると緊張するとでも?」
なおも身体を密着させてくる彼女の肩を掴んで、ぐっと押しのけた。
「そういうんじゃないよ」
「だったらどうして?」
沙夜の発言を故意的に無視し、僕は話をそらそうと試みる。
「お腹が空いたんだな。わかったよ」
時計はすでに正午を指していた。昼飯時だ。
安穏とした昼下がり。長閑だ。
二か月前の騒動が夢だったかのようにすら感じる――。
時計から視線を外し、部屋に置かれた本棚に視線を投げた。
先の闘いにおいて、無力さを痛感した僕は、知識をつけようと本をよく読むようになった。それは経済関係の本だったり、眉唾物の憑きものの図鑑だったり、毒にも薬にもならないような陳腐な物語だったり――。ようはなんでもよかった。とにかく多種多様な本を手に取って、知識を得ようと躍起になっている。
もちろん、それらの努力が、今後沙夜の身を護るのに役に立つとは思えないが、やらないよりはましだ。後々あれだけ悔いるようなことは、もう二度とあって欲しくない。
あの夜は、奇跡が起きたから助かったのだ、ということを常に念頭に置くようにしている。
「鍋焼きうどんでも食うか?」
憑きものに食い物をちらつかせたって不毛なのではないか、などと考える方がいるかもしれないが――。
「食います、はい」
食い意地の張ったこの憑きものは、食べ物で簡単に釣れる。
ちなみに、鍋焼きうどんは沙夜の大好物だ。