#17 繰り返される悪夢(敦彦)
担任の教師の発表が終わると、僕らは五十音順で教室を追い出された。
今日は二学年で使う教材が配られる日だったのだ。一人一人が一棟一階にある多目的室まで取りに行かなくてはならない。
こういう時にこそ沙夜を使役すべきだろう。決して悪しきことに使役するものか、と心に誓っていたが、荷物持ちぐらいならさせても罰は当たらないはずだ。
というか、ちょっとは働いてほしいと思う。だがそれは、バイトもせずに斉藤家でお世話になっている僕のいえることではない。
多目的室には山積みとなった段ボールが整然と並んでいた。待ち構えていた教師が生徒たちにたばになった教材を配っていく。
『うわー! 凄いですね! これ全部に書物が入っているのですか?』と沙夜が“思い”でいった。
『だろうね。いっておくけど、面白くもなんともない本だからな』
『教科書ってやつですよね、私は好きですよ、はい』
『あー、お前やけに難しい本ばっかり読むからなー』
『ではでは、私が先に読破して、ご主人様に内容を噛み砕いて教えてあげましょうか?』
『はは、それは勘弁してくれ。……いや、わりと本気で』
あまり認めたくないが、沙夜は僕よりも遥かに聡明だ。だから教科書の中身を丸暗記することなど、容易く成しとげてしまいそうだ。もし、沙夜に超高校級の知識がついたとしたならば、僕は主としての威厳や貫禄をなくしてしまう。
「はい、結構、量があるから気をつけてね」
蛙とよく似た顔をした教師から、両手いっぱいの教科書を受けとった。彼女はこの学校で現代国語を教えており、授業で習った松尾芭蕉の『古池や~』という俳句から、生徒たちに影で『かわず』というあだ名をつけられている。
「本当に結構な量、ありますね」
「わたしゃ、それ全部頭に入れなきゃならない、学生たちが悲惨に思えて仕方ないわ」蛙顔の教師はけらっと笑う。
今までに使ったことのない教科書と対面して、僕は若干の高揚を覚えていた。なお、新しい教科書として、物理と化学が導入された。他にも新規参入した科目が多数あるようだ。
この時になってやっと、二年生に進級したのだという実感が胸の内にわきあがってきた。
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教材を両手に抱きかかえながら、ふらふらとした足取りで一棟と二棟をつなぐ渡り廊下を進んで行く。
「あはは! 見てください、ご主人様! とっても綺麗ですよ!」
南から東へと吹く風が廊下を通り抜け、中庭に咲く染井吉野から零れた花びらが渡り廊下を包みこむ。大量の花びらが舞い散るそのさまは、得もいわれぬほどの美景だったので、僕は足を止めて見惚れていた。
それに生暖かい春風を全身で浴びるのは気持ちがいい。うっすら頬に紅をさした沙夜は、桜木の下でくるくる回りながら、満面の笑みを見せつけてくる。桜の影響か知らないが、今日の彼女はいつもより輝いて見えた。
「あはははー、ご主人様、ほらほら、桜吹雪~♪」
桜の花びらと戯れる沙夜を眺めながら、僕は歩みを進めていく。
その道中、前方から声をかけられた。
「ねぇ、あっちゃんくんさ~」
『あっちゃんくん』という独特な呼び名で呼ばれたので、声の主が誰なのか、すぐにわかった。
彼女は人の名を呼ぶ時に、あだ名の上から敬称をつけるくせがある。
前へ向き直れば、予想通り手嶋美代子が教材を抱えながら、こちらに顔だけを振り向けていた。見ただけで清楚だと判断できるその姿。長すぎもせず、短すぎもしない、ぴったり膝丈で切りそろえられたスカートが桜木と共になびいている。のっとりとした喋り方が彼女の特徴だ。
彼女とは前学年も同じクラスだった。生徒会に所属している生真面目な生徒で、生徒会の面々からも信頼を置かれているらしく、後期生徒会長の最有力候補である。まだ生徒会役員選挙の時期は先だが、前期はきっと副会長を務めることになるだろう。
苗字が手嶋であるために、藤堂の姓を持つ僕よりも先に教室を出発していたはずだったが、彼女の動きは僕に追いつかれるほど遅かった。この作業は女子にはしんどそうだ。
「わわ……」
教材の重力に負けて今にも倒れてしまいそうだったので、上の方にある何冊かを持ってあげることにした。
「へへ、ありがと~」
ぶらさげた三つ編みを揺らしながら、僕の方へ笑顔を向ける。
「……いや、なんのこれぐらい」無垢な笑顔にちょっとだけ照れくさくなった。
「ついでに眼鏡上げてくれないかな?」
「眼鏡?」
なにごとかと彼女を見れば、眼鏡が鼻の位置までたれ下がっていた。自分でどうにかしようとも両手がふさがっているためにどうにもならないらしい。
僕は片手で教科書を支えながら、彼女の眼鏡をくいっとあげてやった。その際、彼女の髪から熟れた桃のような甘い香りがした。
「ありがと~」
「こういう時、大変そうだな、眼鏡っ子は」
「大変だよ~、裸眼のあっちゃんくんにはわからないだろうけどね~」
「目だけは良好だからね」
「え、目だけじゃないよ~。あっちゃんくんには素敵なところいっぱいあると思うな」
どこまでがお世辞なのか取りかね、なにを誤解したのか、僕の心臓が大きく脈打った。照れ隠しに教材を整えるフリをして顔を覆う。
だが、手嶋が恥じらう素振りを見せないところから察するに、特別な意味合いは含まれていなさそうだった。
「それで? さっきなんかいいかけてなかった?」と僕は訊く。
「そうそう、ずっと前に……」
「ずっと前?」
「う~ん、二ヵ月前ぐらいかな~。夜の校舎であっちゃんくんを見かけたんだけど、あれ、なにやってたのかな~って。すっかり聞きそびれちゃってさ~。あの時、声かけたんだよ。どうしてあんな時間に校舎にいたの?」
――ああ、そういえば目撃されていた。
二か月前、大榎悠子から逃げ惑っていた時、彼女に声をかけられていた。
あの時はとにかく必死だったので、手嶋のことを無視してしまったのだった。
そんな事情があったなど、事細かに話すわけにはいかないので、
「い、一身上の都合で……」と曖昧にぼかしておく。
世の中をうまく渡るためには、一つぐらい『逃げの常套句』というものを持っておくべきだ。
「じゃあさ、昨日の始業式はなんで途中でいなくなっちゃったの?」
「んん、まぁ、一身上の都合で……」
『逃げの常套句』は、乱発すると嘘っぽくなるから気をつけた方がいい。
「あんな真っ青な顔して飛び出たんだ、よっぽどのことがあったんじゃねぇのか?」
渡り廊下を横断し終えたところで、階段のわきから泰誠が会話に加わってきた。彼はすでに教材を運び終えており、トイレにでも行っていたのか、徒手空拳の状態で廊下に立っていた。
手嶋は泰誠を一瞥して、にこっと笑った。
「あ、パンチラ王子くん」
「違う。それじゃ、俺がパンチラしているみたいになるだろ。パンチラ愛好王子くんだ」
否定するところがもっとあるだろうに――。
ひょっとして、その蔑称は本人公認なのだろうか。
「パンチラ愛好王子くん? でもちょっと長くない? じゃさ、略してパンくんなんてのはどう?」
「いや、それだと人かどうかさえ危うくなるじゃねぇか!」
「ほら、そんなことはいいから、泰誠も少しだけ手伝ってくれ」
僕は泰誠に運んでいた教材の三分の一ほどを手渡した。
「お、まかせろ」
基本的に青少年である彼はふたつ返事で引き受けてくれる。
その際、機転の利く泰誠は手嶋美代子の持っていた教材の半分をかっさらって、僕のとまとめて持った。その颯爽とした恩着せがましくのない親切さは、イケメンの行いそのものだった。余計なことをいったり、気色の悪いことをしなければ、彼は普通に格好いいのだ。
「あはは、ありがと~。でも、これだと教科書どっちがどっちのか、わからなくなっちゃうね~」
手嶋は眼鏡のフレーム越しに、温かな笑顔をのぞかせた。
「あ、そういえばそうだな」
「ま、後でなんとでもなるだろ」
「そだね~」
僕たち三人は廊下を横一列、スペースいっぱいを陣取るように進んだ。どこへ行くのにも肩身が狭かった一年のころと違って、堂々と廊下を横断できる。このようにして徐々に二年である意識と責任感が芽生えていくのだろうか――。
そしてありがたいことに、いつの間にか、なぜ僕が始業式をさぼったのか、という話題はうやむやになっていた。
階段の踊り場にさしかかった時、なにかを思い至ったかのように手嶋が小さく微笑んだ。
「そうそう、明日から三日間“実力テスト”だよね~。気合い入れなおさなくっちゃね」
「……は?」
嫌な響きに、耳の裏がぼうっと熱くなった。
例えるならば、鎖国状態の日本に黒船が来航した時のような――、ただえさえ緊張状態にあったところに、そうやすやすと受け入れられないものをぶち込まれたような――そんな心境だった。
「バ、バカなッ! この間、試験があったばかりじゃないかッ!」
気がつけば、嘆きとも願いともつかない声量で叫んでいた。
「おいおい、あっちゃん。なにいってんだよ。学生諸君の春休みボケを叩き直すために、非道な教師たちが試練を与えたんじゃないか」
「そっか、あっちゃんくん、昨日学校途中で帰ったから聞かされてないのか。でも、春休み前に配られたプリントには載ってたよ。知ってるべきだと思うな~」
「事実……なのか?」
わずかな可能性にすがるように問いかけたのだが、
「事実だ」
「事実だよ~!」
などと、二人が口をそろえていうのだから、事実なのだろう。
もし、手元に教材がなかったら、僕は頭を抱えてうずくまっていたに違いない。
がんがんがんと頭痛がした。身体の内面から絶望感が込み上げてきているのだ。
「悪夢の再来だ……」
「あっちゃんくん、こんな言葉知ってる?」
打ち沈んでいる僕の顔を、手嶋が下から覗きこんできた。
眼鏡のフレームの間から見える彼女の長い睫に、どきりとさせられる。品行方正だからこそただよう色気もあるんだな、などと初めて感じていた。
「『成し遂げんとした志を、ただ一回の敗北によって捨ててはならぬ』ってね」
「それ、誰の言葉?」
「シェイクスピア。まぁ、くよくよしてちゃいけないってこと。一度転んでもめげるなよって私はいいたいのだよ~」
「でも、試験は明日からなんだよな……、いくらなんでも時間がなさすぎる。体勢を立て直そうとしていたところに追撃をもらったんだ。さすがにめげたくもなるよ」
「まぁ、確かにそうかもね~。でもあれだよ、『落ち込んだ時にこそ、自身の本領が見えてくるものなのだ』ってね」
「それは誰の言葉?」
「ふふ、私の言葉だよ。バーイ手嶋美代子」
と楽しそうにいいながら階段を踊るようにのぼっていく。
「本領……見えるかぁ……?」
明日から試験が始まるとなれば、今日から猛勉強をし始めなければならない。
今現在、斉藤家は間宵が帰ってきたことによって、多少なりとも落ち着きをなくしている。とても勉強をするのに適した環境であるとはいえない。
だからといって、あの日のように深夜のファミレスで勉強するのは、どう考えても愚策だ。思ったよりも騒がしい深夜のファミレスでは、勉強なんて捗らない。
そもそも、沙夜がいる空間で集中なんてできるのか――?
「まあ、そんな失望することないだろ。ありのままの実力を測るだけなんだからさ。気負うことなんて何一つないって!」
飄々とした口調で泰誠がいった。彼の励ましは、もはや励ましではなく嫌味でしかない。
「ありのままの実力を測られるから問題なんだよ」
「そんなに不安なのか? ならば、お前にいい言葉を授けてやる。『知識量、変態加減に、比例する』だ!」
「はぁ……どういうこと?」
「なんだかんだいって、男の興味はエロへ向けられる。だから、本能に従いエロの世界へ没頭することによって、自然に知識量が増えていくって寸法だ! エロ漫画で得る知識! 官能小説で得る知識! XV●DEOで得る知識! ほら、知らないうちに様々な知識が増えていきそうじゃないか!」
「それ、どう考えたって偏ってるから!」
「とにかく、普段から意識を高めていれば、こんな試験なんて全然平気だろうさ」
ここまで楽観して試験を待ち構えられるのは、この男、坂土泰誠の他にいるのだろうか。ありのままの実力を測るという競技においては、彼は群を抜くこと間違いない。なんせ、授業内容を聞いているだけで、並々ならぬ点数を稼げてしまうのだから。
『みな平等にこのスタートラインから実力を計りましょう! さあ! 位置について、よーいドン!』などと公正に実力を測る試験の場合、泰誠にハンディキャップをつけてくれない学校側に問題があると本気で考えてしまう。
「なぁに絶望してんだよ。頑張ろうぜ、20点くん」
「う、まだそれをいうか」
20点とは、僕が学年末試験でとった数学の点数だ。
その悲惨すぎる点数は人生経験上、最低得点であり、沙夜に騙されてとったものだということを一応ここで補足しておこう。
「20点くんはいいあだ名だね~」と笑っている手嶋。
「20点は忘れてくれ……」
などという会話をくり広げながら、教室に入る。
そして僕は教材を自分の机に置いてから、すぐさま、
「頼む、泰誠! 僕に勉強を教えてくれ!」
泰誠にすがりついた。
僕がこんなことをいい出すのはとても珍しい。
「お、別にいいぜ」
「ありがたいっ!」
この時ばかりは彼の背後に後光が差したような錯覚を抱いていた。
「じゃあ。今日あっちゃん家に行ってやろうか」
「僕の……家?」
「だって、学校の図書室じゃろくに勉強教えてあげられないだろ。つーか、女の子じゃないのに、学校の図書室で勉強を教えるなんてご免だぜ。かといって俺ん家は遠いからムリだもんな」
「だから僕の家なのか?」
「そういうこと。近いからあっちゃん家」
確かに、僕の家から学校までは徒歩十分もかからない。
急な要求に、僕はどぎまぎさせられた。
これまで友達を家に招き入れた経験がなかった。京子さんに遠慮しているわけではないけれど、別段、呼ぶ機会がなかったのだ。
はたして、うちで勉強などできるのだろうか――。
想像を巡らせてみたが――
――ムリだ。
京子さんが云々《うんぬん》というよりも、家には間宵がいる。彼女は今日入学式で早く帰宅するはずなのだ。
そして、僕はどうしてだか、間宵に気を遣ってしまう。
断ろうと口を開きかけた時、机に教材を置いた手嶋がこちらに戻ってきて、見惚れてしまうほど秀麗なフォームで手を上げた。
「え、勉強するの? だったら私も行っていいかな~?」
「おう、ぜひぜひ! 女の子がいると、勉強も捗るってもんだぜ、な、あっちゃん」
勝手に泰誠が了解をしてしまい、
「へ? ああ、はあ……」
いつの間にか断りづらい空気になっていた。
間宵のことを考えれば、断るのが無難だろう。
だが、この期を逸するのは、至極、もったいない気もする。
なんといってもメンツがメンツだ。
勉強をせずにテストに挑み、クラス四位という上々な成績を残した坂土泰誠に、『品行方正の権化』と呼ばれるほど学業、素行ともに善良、テストにおいては、学年一位といった座に君臨している手嶋美代子。
有力な助っ人二名が僕のために、もろ肌を脱いでくれるといっているのだ。RPGでいうなれば、強力な仲間ユニットがいるのにもかかわらず、ダンジョン手前で尻込みしているようなものだ。
手嶋美代子は真面目であり、純真無垢であり、清廉潔白であり、顔立ちだって優れているからして、男子高校生に人気が高い。
クラスが変わったというのに、もう目をつけられているらしく、僕らの会話を耳ざとく聞いていた男子生徒の椅子が一斉にがたりと鳴った――ような気がした。
手嶋ほどの清らかな少女が人の家、よりにもよって男の家にあがらんとしている事態が信じられないのだろう。
思わぬ展開になってきた。
「かー、男2、女2で勉強会か~。俄然やる気になってきたぜ!」
と泰誠が足をほっぽりだし、不穏なことをいった。
「おい待て、カウントがおかしいだろ。もしや、間宵のことも計算に入れているんじゃないだろうな」
だとすれば油断も隙もありはしない。
「え? 間宵って誰? もしかしてあっちゃんくん妹いるの?」
「うん。まあ……」
頬に手を当てて、目を輝かせる手嶋の表情は魅力的なものだった。
視界のすみに、よだれを垂らしてにやついている残念なイケメンが映ってしまったので、彼女の魅力は半減してしまうわけだが――。
「それがさ、すんげえ、可愛いんだぜ」よだれを垂らしながらイケメンがいった。
「へ~、楽しみだな~」
「え? ちょっと待っ……」
「じゃ、学校終わったらそのまま集まってあっちゃん家に向かうってことで」
「りょ~かい」
僕の家での勉強会はとうに決定事項となってしまった――らしい。
どうやら、押しに弱い性格は依然として健在なようだった。
間宵はなんていうだろうか――。
ますます気持ちが重たくなった。
「なんだか楽しげなことになってきましたね、ご主人様」
そして、悩みの種の一つに、沙夜のこともある。
僕らが勉強している間、トラブルメーカーである沙夜の動きをどのように封じておくか、家に着くまでに考えなければならない。




