#14 お兄ちゃんと呼ばれる筋合いはない(敦彦)
僕とアネモネ。更衣室でロッカー一つ分の距離を空け、黙々と脱衣を進めていく。
服を脱ぎながら、アネモネは人目を気にしていた。
それはそうだ。もしここで勝手にロッカーが開き、服が入れ込まれていくところを誰かに見られてしまったら、たちまちパニックとなるだろう。
なんにしても客が少ないところが救いだった。周りにいる客層は年配の人たちばかりで、僕のことなど目もくれず、サウナや冷水、マッサージ機の周りを行き来している。
褐色の肌した憑きもの、アネモネ。
アネモネは厳つそうな見た目のわりに、ひょろっとした体型をしている。貧相とまではいわないが、服を脱げばより一層華奢な身体つきであることがうかがえた。引き締まった筋肉を身につけているものの、全体的に見て細い。これならば、いざとなった時、意外と僕でも勝てるかもしれない。
お互い一言も口を利かず脱衣をしていたが、異様な気まずさをかもし出す沈黙に耐えられなくなった僕は、半憑依状態となって会話することにした。
『なぁ、アネモネ。憑きものって風呂につかるのかよ? 沙夜は一度もつかったことなかったぞ』
斉藤家で暮らし始めてからというものの、沙夜が風呂に入ろうとしたことは一度もない。
だけど、不思議と彼女に対し不潔という印象を抱かない。むしろ清潔すぎるぐらいだ。だから今まで気にしてこなかった。アネモネもしかり、見た目が厳かなのにどこか清廉潔白だ。
アネモネは高級そうな皮のブーツを脱ぎながら答えた。
『憑きものは別に風呂に入らなくたって臭わないし、汚れたりもしない。だから、風呂に入る必要はない』
見た目剽軽そうに見えて、どこか鹿爪らしいこの憑きもの。
初めて相対するタイプだ。なので、対応が難しい。
『へえ』
『だが、趣味で入りたがるやつは結構いる。湯めぐりというんだったか? 人間に影響を受け、ああいう秘境めぐりをしたがるんだ。温泉宿に幽霊が出るなどという話をよく聞くだろう? あれは幽霊の仕業でもなんでもなく、憑きものが無断で宿泊しているだけなんだ』
ああ、なるほど。
また一つ、ちょっとした怪奇現象がなんの変哲もないものに変わってしまった。
『でもさ、寒い日とか入りたくなったりしないのか?』
『ない。温度に対しての感覚が人よりも疎いからな』
だから沙夜は冬場あれだけの薄着をしていても平気でいられたのか――。
彼女が以前に風邪を引いたのは、妖力不足が原因だった。薄着をしていたからという理由ではなかったはずだ。
『そもそも憑きものは極力、主に迷惑をかけないよう進化を遂げたんだ。だから平素、人間が行う面倒なことをしなくてもいい』
『面倒なことって、だったら、飯を食わせるってのも珍しいことなのか?』
『お前たちは変わっているんだ』
アネモネは嘲笑う。こいつの笑い方は気味が悪い。
――『ご主人様は変わっています。なんていうか、愚かです、はい』
沙夜が初期のころに、主が憑きものに食べ物を与えるという行動について、そういっていたが、やはり珍しいのだ。
『悪いかよ……?』
『ふ、滑稽だな。憑きものにそんな扱いをしているのなんて、世界中どこを探したってお前ら兄妹だけだ』
お前ら――か。
そういえば、間宵もアネモネに食事をさせていた。
アネモネは続ける。意外によくしゃべるやつだ。
『そうだな。もっといえば、どれだけ食べても排便する必要はないし、睡眠を取る必要もない』
『え、ええーッ!? そうなのッ!? 寝なくてもいいのかッ!?』
新事実の発覚に僕は腰を抜かしかけた。
特に睡眠を取らなくてもいいということには、悪質な詐欺に遭ったような気分にさえさせられる。
『そんなに驚くことか? 俺は寝ない』
『だ、だって、沙夜は寝不足で……、だから僕はずっとベッドを譲って……、ええ!? じゃあ、なんであいつは寝不足になるんだよ!』
『きっと、今までずっとそういう生活を送ってきたのだろう。その場合は身体が順応されることだってあるのだろうな』
『ああ……、そういうこともあるのか』
『だから、しばらく寝かせないでやったら眠らなくてもいい暮らしに身体が適応されるはずだ。一度試してみたらどうだ?』
『いや……それは……』
――強情な沙夜に、『寝るな!』といって聞かせるのは無理な話だろう。
というより、僕は今の暮らしに満足している。たとえ、薄い毛布一枚で寝ることになろうとも、ざらついたカーペットの上で寝ることになろうとも、なんら不満はない。
善人ぶるつもりはないが、これは相手が沙夜だからというわけではない。主だからという勝手な理由で、憑きものに人以下の扱いを受けさせるわけにはいかない。本当に漠然と思っただけだが、主だから威張るという考え方は間違っている気がするのだ。
善人なわけでも、利口なわけでも、優良なわけでもない。
ただ、僕は――。
今の生活が失われてしまうのが、怖いだけだ。
『ところで、お前は寝ないで間宵の部屋でなにをしているんだよ?』
ずっと気になっていたことを訊ねた。間宵の部屋からは順々とクラシック音楽が聞こえてくるだけで、二人の会話が聞こえてきたことは一切ない。
決してドアに耳をそばだてていたわけではないが、自室で耳を澄ましていたことならある。アネモネの声が聞こえてきたことは一度たりともなかった。
『俺はあいつの部屋にはいない。いつも屋根の上にいる』
『屋根の上?』
『好きなんだ、屋根の上が。屋根から景色を眺め、行き交う人を観察する』
『変わった趣味だな』
認めたくないが、この憑きもの。
人のようすを観察したがるところ、酔狂じみた趣味。
少しだけ、間宵と似ているところがある。
『だが、この土地は低い建物ばかりで見ごたえがない』
『そうだな、もうちょっとだけ都心に近づけば大きなビルがあるだろうけど、住宅が並んだ僕らの町には中々ないよ。駅の近くに大きなタワーが立っているぐらいかな。あ、それと、僕が通っている学校の屋上はわりといい景色だぞ』
――まぁ、アネモネが僕の学校に来ることなんてないだろうけれど。
『へえ』とアネモネは興味を示したのか示さなかったのか、よくわからない“思い”をもらした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
アネモネと共に浴室に入り、ここでも一席分の距離を空けて洗面台の前に座った。かろうじて僕の影はアネモネの実像と繋がっている。
僕は身体を洗いながらアネモネの方へ視線を送った。どれだけお湯にさらされても、シャンプーでこすられても、元の形状に戻るアネモネの髪は見ていて面白い。
「なぁーーッ!!」
そんな時、隣の浴室から大声が聞こえてきた。
当然のことながら男と女、壁で仕切られているのだが、壁がよほど薄いのか、それとも重厚な壁をも突き抜けるほどの声量なのか、向こう側の声がはっきり届いた。女の子の甲高い叫び声だ。
「ずるいですよッ! 間宵さんッ!」
というか沙夜の声だ。僕はぎょっとさせられた。
間宵の返事はない。当然だ。うちの妹は、民間人がいる前で、会話をするほど浅はかではない。よって沙夜の声だけがこちらに届くことになる。
「どうしてそんなにおっぱいが大きいんですかッ!」
その声色はさして興奮しているわけではなく、『なんで象の耳はあんなに大きいの?』というような疑問を投げつける子供みたいだった。
『はぁ、……なんの話をしているんだよ……、うちの憑きものは……』
思わず頭を抱えてしまいそうになる。
「ちょっと、やめ、やめてくださ……。胸を……ひぁ、さ、触らないで、くだ……。ひッ! ごしゅ、ご主人様ぁーー!」
『そんでもって、なにをしているんだ、うちの妹は……』
次第に沙夜の声が歓声から嬌声に変わっていく。僕は蛇口をひねりシャワーを強くして、その声ができるだけ聞こえないように心がけた。この行為は現実逃避とも呼ばれる。
『全く、騒がしいな、お前の憑きものは……』
呆れたようにアネモネが“思い”でいう。
『ああ、毎日がうるさくてたまらないよ』
一息つき、シャンプーを洗い流しながら僕は続けた。
『……でもおかげで助けられてもいる』
事実だ。
僕は沙夜に救われた。
“生き方”を大きく変えられた。
少し前までの僕は、もっと人に不親切だったと思う。
世の中で起こる出来事に興味を示すこともなかっただろうし、今までの生活スタイルを改めることもしなかっただろう。高校生だからと己の立場や境遇に甘えて、だらだらと惰眠を貪っていたのかもしれない。
だから、救われたのだ。
この努力が結ばれることがなくとも、僕は沙夜に心から感謝している。
『救われた、か……。変わっているな、お前たちは……』
『そうか?』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
それから僕らは浴槽につかった。この時もまた一定の距離を開けている。アネモネは一般人に触れぬように遠慮がちに座った。
僕は安らぎに身を任せて目を瞑る。湯加減がちょうどよく、身体の疲れを拭い去っていくようだ。なによりもこの広々とした空間が僕の心に落ち着きや安楽を与えてくれる。
また、しばらくの間沈黙が続くのかと思いきや、アネモネが口を切った。
「一つだけいいこと教えてやろうか?」
「え?」
いいこととはなんなのか、気になった僕は半憑依状態になって“思い”で会話をすべく、不本意ながらアネモネの方に少し身体をよせる。
銭湯の灯りによって壁にできあがった僕の影が、アネモネの背中に触れた。それを確認してからアネモネが“思い”でささやくようにいってくる。
『あいつと……、俺と間宵の間になにも関係はない』
『そ、そうなのかっ!』
その言葉を聞いて、僕は思わず立ちあがってしまった。湯が跳ね上がり、周りの目が一斉に向けられる。取り繕うように咳払いしながら、すぐ湯船に身を沈め腰の位置をただした。
『いや、なにも関係ないというのは語弊があるか……。そうだな、あいつとは単なる主従関係であり、俺はあいつのボーイフレンドではない』
そうだったのか――。
『おや、嬉しそうな顔するじゃないか』
『まぁな』
思わず笑みがこぼれていた。
その愉悦を悟られないように顔を一度、湯船に沈める。
『俺みたいな憑きものと関係がないことを知って安心したか?』
『いや、そういうんじゃないよ。それは間宵の自由だし……きっと相手が誰であろうと兄としては嫌なもんは嫌なんだ。憑きものであっても憑きものでなくてもだ。こういうのは理屈じゃないよ』
それにしても、
――『でもって、わたしの彼氏』
『ならさ、どうして間宵はあんな嘘をいったんだ?』
『さあ、人間の考えること……いや違うな。あいつの考えることは予測のつかないことばかりだ』
『そりゃな、僕ですらあいつのことがわからなくなってきているんだから、当たり前だよ。帰ってきてからというものの僕を困らせてばかりだ。一年前はそんなことなかったんだけどな……』
『おいお前、もう少し、あいつの気持ちを考えてやったらどうだ……?』
『え?』
『アメリカにいた時――』
アネモネはじゃぶんと音を立てて顔を拭った。
指の隙間から吊り上った目でこちらを覗く。
『――あいつはお前の名前を呼んでいた』
間宵が――。
呼んでいた――。
僕の名前を――。
アネモネの言葉を受けて、のぼせてしまった時のように、僕の頭の中は真っ白になった。
バカな――。
連絡すらよこさなかったんだぞ――。
『もう少しだけでいい。あいつの気持ちを理解してやることだな、お兄ちゃん』
その言葉に憤りが走った。
ふつふつとわき上がってくるこの感情はなんだろう?
嫉妬心? いや違う。これはきっと兄としての不甲斐なさだ。
ずっと隠してきた感情。今まで偽り続けてきた妹への気持ち。
両親が死んだ日から僕は妹に冷たく当たるようになった。
ろくに護ってやることもできずに放ったらかしにしてしまっていた。
そんなこと、とうの昔に気がついていたのだ。ごまかし続けてきた。
その事実を赤の他人であるアネモネにいい当てられて、どうしようもない不甲斐なさを感じた。
気がつけば、アネモネが冷たい眼で僕のことを見つめていた。
間宵の調子がおかしいことの責任は僕にある、といいたげだ。
最近の間宵のことについて、僕はなにも知らない。だけど――。
――お前になにがわかるんだ。
――僕と間宵はこれまで一緒に生活していたんだ。
――お前よりも付き合いが長ければ、あいつのことをお前よりもわかっているつもりだ。
僕らは――。
――兄妹なんだぞ。
『お前にお兄ちゃんと呼ばれる筋合いはないッ!』
今度は兄バカ丸出しでしっかり“思い”に出していった。
するとアネモネは、「ふふ」と音を立てて笑った。
やはり、気味の悪い奴だ。気に食わない。
セーターを着込んできてよかった。
どうやら今日はヤキモキしてしまい、身体が冷え切ってしまいそうだ。




