#12 銭湯へ行こう(敦彦)
学校が午前中で終わった場合、京子さんは三時過ぎまで仕事から帰ってこないので、必然的に四人で昼食を取ることとなる。
最近の僕は極力避けるようにしていたのだが、今日はコンビニで買いあさってきたものが食卓に並べられることとなった。
春休みの間、僕には昼食を作るという日課があったのだけれど、気性が荒い今の間宵に、「お兄ちゃんは料理をするようになったんだよ」などと陽気にいえるほど、僕の神経は図太くない。なのでやむ終えなく、コンビニの弁当を頬ばっていた。
「お兄ちゃん、そこにあるお醤油取って」
「あ、ああ……ほら」
「ありがと」
間宵はしろみ魚フライに醤油を垂らし、ぱくりと噛みついた。そして満足そうに頬をほころばせる。
普段通りな彼女の表情に普段通りな彼女の仕草だ。
先ほどまであった怒りや気まずさはどこにいったのだろう?
それとも僕が気にしすぎているだけなのか?
食事の間、間宵がなにごともなかったかのようにしているのが、なにかの予兆であるような気がして、嵐の前の静けさというか、どうしても不吉に感じてしまう。
――『うっさいなッ!』
もしや、自室で過ごしているうちに自然と憤りが拡散したのだろうか。
「沙夜ちゃん。その耳障りな咀嚼音なんとかしてくれません?」
いや、違った。
間宵が今でもばりばりに鬱憤を溜め込んでいるであろうことは、毒気の帯びた声音と無機質な表情からうかがえる。
沙夜が歯を噛み合わせるたびに立てる、くちゃくちゃという不快な音にご立腹なようすだった。
「ひ、す、すす、すみません……」
沙夜は注意を受けて、号令をかけられた軍隊のようにびしっと居住まいをただした。
「沙夜ちゃん。テーブルに肘ついてるわよ」
「は、はい!」
「沙夜ちゃん。よだれ拭きなさい、はしたない」
「は、ははぁ!」
沙夜の姿はさながら小姑にいびられる若妻だ。間宵のそこらへんの厳しさは京子さん仕込みである。ただ、年上である京子さんに忠告されるならまだしも、年下の間宵に説教されるとなると、兄としては口やかましくて仕方ない。
だが僕の内心には、よくぞ注意してくれた、と称賛を上げたくなる気持ちもある。沙夜は僕の言葉には聞く耳を持たないが、恐怖心が植えつけられている間宵のいうことならば聞いてくれるに違いない。
間宵から小言をいわれるたびに沙夜は小さく悲鳴をあげ、しまいには借りてきた猫のように大人しくなった。
見ていて痛ましくなった僕は、斜め前方にいるアネモネにふと視線を投げる。
憑きものはテーブルマナーなど知る由もないし、守ろうともしない。そういうものだと思っていたのだが、食事をしている時のアネモネはえらく行儀正しかった。
彼はアメリカで育ってきたはずなのに、日本の礼儀作法をわきまえているようで、箸の使い方、お椀の持ち方、一挙手一投足に気品が漂っている。きっと向こうにいるうちに、間宵が教え込んだのだろう。
それにしても、流暢な日本語といい、このテーブルマナーといい――。
「なにをじろじろと見ている?」
アネモネの炯眼が僕を睨みつけた。
素直に感心していただけなので、僕は正直に白状する。
「いや、凄いなと思って。なんか完璧じゃないか。これまで日本で暮らしていたことはあったのか?」
「ない。これが初めてだ」
そこで、間宵がインスタントの味噌汁をすすりながら、
「アネモネ“は”賢いから、記憶力が抜群なのよ」
「は」の部分を強調していった。
慎ましく食事を進めていた沙夜が身を乗り出して反論する。
「なんか含みがありませんかっ! そのいい方にはっ!」
「確かに、アネモネ“は”賢いな」
「むむ、ご主人様まで!」
とはいうものの、沙夜も箸使いの上達が早かった。それに沙夜の記憶力は並々ならぬものだ。
そう考えると、憑きものの学習能力は普通の人間よりも上なのかもしれない。単純に沙夜とアネモネだけが特別だという可能性は否定できないが――。
「ごちそうさま」
僕はコンビニ弁当を食べ終えた。続いて沙夜もぺろりと食べきり、「ありがとうございました」といった。これは沙夜なりの「ごちそうさまでした」となる。
僕は弁当の容器を持ってキッチンまで足を運んだ。シンクでは僕よりも先に食べ終えた間宵が洗い物をしている。
「手伝おうか?」と僕は背中に声をかけた。
「大丈夫。そこ置いといて」
そう述べ、くるりとこちらへ振り返った。そして僕に屈託のない笑顔を向ける。
「ほら、なにしてんの。一緒に洗っといてあげるっていってるのよ」
「あ、うん、ありがとう」
妹に促されて弁当の空き容器をシンクの上に乗っけてから、僕は自室へ向かった。
階段をのぼる途中に様々な思考を働かせる。
機嫌が悪いけれど、いつもの間宵だ。
溌剌で気の利く、優秀な妹だ。
やはり思い過ごしだったのだろうか?
――『ごめんなさい……』
ごまかしていたが、やはり先ほどの間宵の顔が頭から離れてはくれなかった。
僕は今、不安がる自分を騙すようにして、妹とコミュニケーションを取っている。
それが正しい選択かどうかなど、知るすべはない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ただいま」
夕方ごろになると、京子さんと武史さんが帰宅してきた。
普段は武史さんの帰りは遅く、早くとも七時過ぎるはずなのだけれど、今日は珍しく七時手前に京子さんと一緒に帰ってきた。
どうやら車で送ってきてもらったらしい。
ちなみに、武史さんが京子さんを――ではなく、京子さんが武史さんを――だ。この家の車庫には青色のセダンがあるが、それは京子さんのものであり、武史さんは車はおろか、免許を取得していない。
僕はリビングのソファーに座っている武史さんの元まで歩みよった。
「おかえりなさい。どうしたんですか、今日は早かったですね」
「うむ、ただいま。京子さんに給油機の調子が悪いといわれていたので、それを修理するために早く帰ってきた」
武史さんは京子さんのことを『京子さん』と呼ぶ。厳然としている態度のわりに、初々しさが未だ抜け切れていない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ほどなくして夕食時、僕らは昨日と同じ配置で席に座り、声を揃えて「いただきます」といった。
今日の献立は間宵の好きなから揚げと高野豆腐だった。どうやら間宵の歓迎会はまだ続行しているらしい。
「学校はどうだった?」と京子さんが心配そうに訊ねた。
「なにごともなく終えました」
対し間宵はきっぱりと答えてみせた。
僕は彼女に冷たい視線を投じる。なにごとかを起こした張本人が、なにごともなかったとほざくのはどうかと思う。
「そうか。ならばうまくやっていけそうだな」
武史さんが厳格な口調でそういった。
「ああ、それと、なんだ、その……」
彼は一度目を伏せた後、いいにくそうに言葉をよどませる。
「向こうの週刊誌で読んだんだが、今から三ヵ月ほど前にお前が過ごしていた、サンフランシスコで大きな事件があったらしいな。あれは平気だったのか?」
「え……」
間宵の声が一瞬、震えた。だからといって、なにか特別な思い入れがあるわけではなく、ただ意表を突かれただけだろう。そんな反応だった。
『ご主人様、なんですか? サンフランシスコの事件って』沙夜が“思い”で僕にいう。
『いや、知らない』
『事件と聞くだけで、血沸き肉踊りますな、はい』
『今度はなんの小説に影響を受けたんだ、お前』
僕はその事件がどういうものなのか知らなかった。三ヵ月前といえば、世の中のことを知ろうと意識し始めた時期より前のことだったからだ。
現代だけではなく過去までというように、これからはもうちょっと情報取得のアンテナの範囲を広める必要があるかもしれない。
「ええ、わたしは大丈夫でした。事件が起こった所は、うちから大分離れてましたし」
「うむ。何事もなかったのならいいんだ」
優しい言葉を掛けながら、武史さんはぎこちなく微笑んだ。少々引きつっていたけれど、彼の渾身の力を込めたスマイルだ。
「武史さん、なんですか? そのサンフランシスコの大きな事件というのは」僕は尋ねる。
「ああ、それはだな……」
「ちょっとお兄ちゃん。ご飯食べてる時にそんな暗い話するのはよそうよ」
真面目な顔した間宵が武史さんの発言を制した。
「うむ、それもそうだな」と武史さんも間宵の意見に同調し、箸でから揚げをつまんで口に運ぶ。こえでこの話題は打ち切りらしい。
しばらくの間、黙々と食事を取る時間が続いた。
ちなみに今日ばかりは与える隙が見つからなかったので、沙夜とアネモネのご飯はお預けとなる。何度か僕のおかずに向かって来る小娘憑きの動きを、斉藤家の方々に変に思われないよう、さり気なく封じるのが面倒だった。
アネモネは興味なさそうにそっぽを向いていた。
僕がアネモネを眺めていた時、京子さんがなにか大切なことを思い出したようで、頬に手を当てながら口を切った。
「あ、そうそう、二人にいっておかなきゃいけないことがあったわ。うちのお風呂が壊れちゃったから、今日は間違っても入らないようにね」
「そうらしいですね。ところで壊れたってなんでまた?」
「なんかね、お湯が出なくなっちゃったのよ。原因は不明よ。この斉藤家にとっては、そのサンフランシスコの事件よりも大事件だわ」
風呂好きの京子さんは、悲壮な顔をしていた。
「まぁ、一日ぐらい入らなくてもどうってことないですよ」といったのは間宵だ。
「こら、年頃の娘がどうってことなくはないでしょ」
いち早く食べ終えた京子さんはリビングの傍らに置いてあったバッグから財布を取り出し、千円札を僕らに渡してくれる。
「ほらお金あげるから、ご飯食べ終わったら、兄妹仲良く銭湯にいってらっしゃい」
「銭湯ですかぁ。たまにはいいかも。向こうにはそんなものありませんでしたから」
間宵は満更でもなさそうにそこまでいうと、意味ありげに微笑した。
「それに、せっかくの機会ですから、ねえ――」
「……え?」
この時、間宵の目が鋭く光ったように見えたのは気のせいだろうか。
そしてその眼光は沙夜へ向けられていた気がする。
できることなら気のせいであってくれ、と僕は心の内側で密かに願った。




