私の卵
椅子から立ち上がった瞬間、股の下に違和感を覚えた。漏らしたのかと思い、急いでトイレに駆け込む。
下着を確認すると、血混じりの透明な粘液にまみれた白い卵がそこにあった。手に取るとほんのり温かく、粘ついた液体が指に絡んだ。
洗面台で卵を洗うと、鶏卵よりはひと回り小さな卵である。
医者か救急か、という考えはなく、私は夫に電話をかけた。
「もしもし? 今、いいかしら」
『なんだ?』
「股の下から卵が出てきたのだけれど」
『……なにを言っている?』
「だから、私、卵を産んだみたいなの。どうしたらいい?」
ダイスケの声色は苛立っている。仕事中に長年、性交渉のない妻から突拍子のないことを言われて腹が立ったのだろうか。でも、私もどうすればいいのかわからない。
『夢でも見ているのか? 俺は忙しいんだ。そんな嘘には付き合えないよ。じゃ――』
電話は切れてしまった。
私は仕方なく卵をタオルで包み、机に置く。ダイスケに嘘ではないと証明しなければならないのだから。
横にあるノートPCで在宅の仕事に取りかかる。温かかった卵の感触を指で思い出しながら原稿に向き合い、時たま眼鏡を外し、目を休ませた。白い卵に手を伸ばすと、もう冷えてしまっている。下着についた汚れも洗わないと。ねばねばして、血もついていたから桶に入れて専用の洗剤水に浸け置いている。三十分経ったから、そろそろ手洗いでもしよう。
私は風呂場に向かい、白い桶の中に浸した自分の下着のクロッチを念入りにこすり洗う。ぬめりは洗剤のおかげで取れていて、血も溶けている。軽くこするとクロッチは元通り、白い布になった。ベランダで洗った下着を干すと、ハンガーが揺れて水が床に滴る。冷たい風に乗った粉洗剤の香りが私を慰めていた。
「シエ、なんだこれ」
ダイスケが机の上の卵に気づいたようだ。それにしても、鈍い人。晩ご飯を口に含んだまま、目線で卵を捉えている。
「昼に電話で話したでしょ。私が産んだのよ」
「ふぅん……」
なんでそんな反応なの。なにも関わりがないみたいな声で、態度で。箸で唐揚げなんて突っついてないで、私の心配をしてよ。
「鶏の卵より小さくない?」
「…………」
ご飯を咀嚼するな、バカ。
テレビを観て笑うな、バカ。
もうこの人には頼れない。夫婦なんて所詮は他人だもんね。私ももう三十五だし、赤ちゃんなんて夢のまた夢。なんで私はこの人を選んでしまったのだろう。
「これ無精卵なら食べれたりする?」
出た、ノンデリ発言。そんなにやけた顔で聞くな。私は静かに首を横に振る。
「サルモネラ菌とかあるかもだもんなぁ」
……笑うな、バカ。
翌日。私はマイナンバーカードを持って馴染みのレディースクリニックに向かった。産婦人科が近くにないのは不便だったが、ドロエチをいつもくれるお医者さんに報告と相談をしておきたい。もしかすると入院もあるかもしれないと、玄関に入院セットは置いてきた。
タオルに包んだ小さな卵が割れないか、カバンを大切に守りながらクリニックに入ると、気が抜けてしまった。
「今日はどうされましたか?」
なんて説明しようか。
「えっと、先生に相談したいことがありまして」
「はい、わかりました。おかけになってお待ちください」
よかった。他の患者さんに聞かれでもしたらとヒヤヒヤした。私の他には二人ほど待合室にかけている。私も距離を取るように真ん中の席に座る。タオルの中の卵は触るとざらざらしている。
それにしても。やれ、この卵は食べられるかだの、サルモネラ菌の心配だの、ダイスケは本当に私を心配しなくなった。昔はもっと気遣いのできる人で、この人となら幸せになれると思ったのに。結婚して十年になってからは記念日もすっぽかすし、家事は手伝わなくなったし、なにもかも間違っていたわ。ふつふつとしたこの感情を小さな卵にぶつけないよう、カバンを抱え込む。まるで胎児のように拳を握り、膝を立て、スツールの上に座っている。
「中村さん、診察室にどうぞ」
胎児から大人に戻り、診察室の引き戸を開けると、おじいちゃん先生がカルテに目を落としていた。
「今日はどうされました?」
「非常に言いづらいのですが……卵を産んだみたいなんです」
カルテにボールペンが走る。
「そうなんですね。その卵はどうされました?」
「……ここに」
看護師もこちらに身体を寄せ、観察している。
「なるほど、孵卵器などは使用されてない感じですかね」
「ふらんき、ですか」
先生はメモを取り、〝孵卵器〟と書く。加えて『卵を人工的に孵化させるための装置』と下に書いた。
「中村さんははじめて卵を産んだんですか?」
「普通、哺乳類は卵を産まないでしょう?」
先生はごく自然に私の疑問に答える。
「昔から稀に卵を産む人はいますよ。カモノハシだって哺乳類ですが、卵を産むでしょう?」
「そう、なんです、ね?」
なんだ、私が特殊じゃないんだ。よかった、このまま研究所になんて言われたら、原稿の提出に間に合わないところだった。
それから今後、卵を産んだ時の注意点をまとめたリーフレットと、医療用孵卵器を貸し出してもらうことになった。痛い出費ではあるが、今後のためだ。仕方ない。
「先生、私は夫とは性交渉していないのですが、孵卵器なんているのですか? 無精卵でしょう?」
「知らないのですか? キリストの頃から処女受胎って聞くでしょう」
私は男の必要のない女になってしまったようだ。
ダイスケには説明しなくてもいいか迷うわ。こんなものも借りたのだし、やはり必要よね。
「ただいまー……、ってなにこれ」
「孵卵器。卵を温めるのに必要なものよ」
今日は珍しく、夫から声をかけられた。
「ふぅん。昨日言ってた卵のやつ?」
「昨日のは死んじゃったから、今後のために病院で借りたの。一日五百円、とりあえず一ヶ月借りてる」
スマホの電卓を叩き、舌打ちをする。
「一万五千円もすんの? 医者のボロ儲けじゃん。また産むかなんてわからないのに」
「わからないから備えるんでしょ」
本当にわかってないのね。
「だいたい、無精卵なんだから温めたって――」
「もう、ダイスケは必要ないのよ」
彼のため息と乱暴な扉の開け閉めに、私の心臓が跳ねた。
脱ぎ捨てられたシャツを洗濯機に入れ、ジャケットをハンガーにかける。産まれてくる子にこの人は必要ない。そう受け取られたんでしょう。性交しないことが私への罰だったら、産まれてくる卵はダイスケへの罰なのかもしれない。
一週間後。朝目覚めたら股の下に違和感があった。その場でショーツを下ろすと、また粘液まみれの白い卵があった。
私は卵を温水で洗い、孵卵器にセットする。温度を三十九度、湿度を七十%に設定し、浅い皿に水を入れ、スイッチを押す。一日数回の転卵は自動でやってくれるので必要ない……とリーフレットに書いている。
うまくいくだろうか。なにせ孵化率は低いとネットにも書いてあった。チャットAIにも相談したけど、あなたならうまくいくと無駄に褒められただけだった。
白湯を作って身体を温める。吐いた息と湯気が冷えた部屋に黄色く溶けた。孵卵器が温まってきた。まだ起床には早いが、私はダイスケのために凝った朝食を作ることにしよう。汚れた下着を風呂場の桶に入れてつけ置く。電子レンジに冷凍した新巻鮭をチンして、フライパンに置いてコンロに火をつける。作り置きの味噌汁にはなにを入れようか。わかめ、麩、思い切ってキャベツなんかもいいかな。
エアコンの暖房が十分に部屋を温めた頃に、彼は起きてきた。
「おは……え? 今日、なんかあった?」
驚いた。絶対に気づかずにスルーするかと思っていたのに。
「今朝ね、卵を産んだの。ローキャビネットの上、見てみて」
のっそりした動きで彼は孵卵器の中を覗き込む。
「ホントだ。てか、それといい匂いとなんの関係が」
「……あきれた。おめでたい朝の、ほんの少しのお祝いよ」
「意味わかんないけど、鮭はうまそうだ」
キッチンに立ったダイスケが私越しに焼き魚を見た。ホントにこの人は……。
彼がパタパタと席につくと、身体を横に揺らし、料理をせっついた。
「良い休日になりそうでよかったよ。まだ? まだ?」
「もう少しだから待ってて。卵焼き作ってるから」
ダイスケが吹き出す。
「卵産んだのに、卵焼きとか母性どこよ? ごめん、めっちゃ面白いわ」
私はその言葉に無性に腹が立った。私の卵と鶏卵は違うものなのに。
雑に料理を並べても彼は夢中で白米にがっつき、私を無視する。焼鮭はしょっぱく、卵焼きは甘い。私が卵焼きを口に入れると、彼はまたも笑う。
「共食い、共食いじゃん……!」
「…………」
私は食べるのをやめて席を立ち、リビングのソファーのクッションを枕にする。
「いらないの? んじゃ、残ったやつも俺が食べるね」
「…………」
私はテレビに集中する。朝のニュースはいつも刺激的で退屈だ。
その後、孵卵器から腐った臭いがし、私は卵をアイラップに入れてゴミ箱に捨てた。
悲しみはなかった。ただ、ダメだったという事実だけあって、腐った卵の処分方法について調べたくらいだ。普通ゴミでいいらしい。とにかく臭くて臭くて。そこに愛情なんてなかった。
何日か置きに卵を産んでも、腐らせてしまう。孵化率が低いとはいえ、ここまで孵化しないと、私には何もないのだと思い知らされる。
ダイスケにも茶化され、先生に相談しても事実は変わらない。産まれるのに育たない。夫の「また? どうせ無理だよ。カネの無駄じゃん」が頭を駆け巡る。先生の「まだ頑張れます。中村さんはまだ若いのだし、更年期の年代でもない。諦めないで」も反芻する。
私も迂闊なところがあった。ある時、トイレの便器に産んでしまってロストしたことがある。さすがに無理だと直感して、そのまま流して見なかったことにしてしまった。
「医療用とか名前につけたら高くレンタルできるって思ってるんだよ。患者をバカにして医者はボロ儲けだな」
何度も聞いた。でも私をバカにしているのはそっちでしょ。前より会話が増えたのも私の卵がきっかけだし、私をけなして嬉々として絡んでくるし、本当にうざったい。愚痴でしか会話ができない人だなんて思わなかったわ。
『卵から孵る時期はおよそ三十日ほどです。毎日でなくてもいいので話しかけてお母さんの母性を育てましょう!』
何度も読み返したリーフレットは端がボロボロになっている。夫からの口撃、育たない卵への葛藤がそうさせてしまったのかもしれない。
数日後、私はまた卵をひとつ産んだ。いつものように温水で洗って孵卵器にセットし、ため息を吐く。またダメなのでしょう。
「あ、また産んだの? 何個目だよ。どうせ育たないんだから、期待するなよ」
ダイスケがまた軽口を叩く。私は無言で食事を用意し、夫はそれに文句をつける。
「……最近、魚多くない? 肉も食べたいんだけど。もしかしてカルシウムとか気にしてんの? ははっ、結局男がいないと赤ちゃんなんてできないんだから意味ないって。俺は何度も言ったろ? 卵を産んで赤ちゃんなんかできるわけないよ」
「もういいから。早く食べてくれない?」
舌打ち、ご飯をかきこみ、食器を机に置いて自室に消えていく。
会話をするのも面倒だから、こうして強制的に終了させている。
二十日が経っただろうか。孵卵器から腐った臭いがすることなく、仕事中に卵が孵った。パキパキと音を立て、産声を上げたのだ。
「う、まれたの? おお、よしよし。名前はなにがいいかしらね。その前に病院かしら」
私はレディースクリニックに電話し、指示を仰いだ。産婦人科のある大きな病院を紹介してもらい、救急車で病院に向かった。
「まさか本当に卵を産む人がいるなんて」
「私もまさかです。でも――」
腕の中で泣く我が子を見て、涙が滲んだ。
一応の報告としてダイスケにはメッセージで赤ちゃんが産まれたことを報告し、電話はしなかった。また怒られても面倒だし、言い争いなんてしたくもない。今は赤ちゃんと向き合わないと。
『あ、そうなんだ。今日は残業だから、あとで聞く』
いいよ、病院にも来なくていいとだけ残した。返信はない。私と赤ちゃんは、彼の人生には関わりがない。ただ、この子は私の救いになった。
翌日、赤ちゃんは保育器の中で息絶えた。
私は遺体に縋ることもできないまま、膝から崩れ、泣き叫ぶことしかできない。こんな姿を夫に見られなくてよかった。私は看護師に支えられながらタクシーに乗り、役所に死亡届を出して家に戻る。
「……赤ちゃんは?」
「死んだよ」
「ほらね」
私の悲しみには寄り添わないこの人は、もう必要なかった。
緑色の紙を机に置くと、私は急いで記入し、ダイスケに渡す。
「どういうこと」
「そういうことよ。早く記入して」
破り捨てられても、もう一枚取り出し、また渡す。何枚でも書いてやる。私の強い眼差しに根負けしたのか、ペンを取って彼は離婚届にサインをした。
席を立つと股の下に違和感を覚えた。私はトイレに行き、下着を確認する。すると、鶏卵よりひと回り小さな卵がそこにある。私は卵を温水で洗って孵卵器にセットした。
「……こんな時にも卵産むんだ」
「こんな時だからこそよ」
荷物は実家に宅配を頼もう。孵卵器にモバイルバッテリーを差し込み、夫との愛の巣を飛び出す。離婚届もここにある。ああ、両親に証人になってもらい、最寄りの役所に立ち寄ろう。そうだ、私にはこの子がいればなにもいらない。




