奏杜さんはエタりたい
プロローグ
「オエエッ!」
あたしの朝は喉の奥から込み上げてくる苦い胃液を吐き出すことから始まる。
嫌な記憶、思い返したくもない想い出にフタをして、むりやり封じようとする自分に身体が拒絶反応を示しているかのような気さえしてくるから不思議だ。吐き出す液体がなくなり、嗚咽にも似た声だけになって、ようやく青いタイルが敷き詰められた昭和レトロな流し台から顔を上げることができた。正面に鏡はないが、容易く自分の顔が見透かせる。
青クマに彩られた生気のない目。こけた頬。カサカサの唇。肌は青白く、色素の薄い髪が雑草のごとく無造作に伸び散らかしている。どこからどう見ても、思春期まっ只中の乙女の顔とは思えない。
ここしばらくの間、これ以外の顔を見たことがないのだ。
カタン、と玄関の方から小さな音がした。過剰なまでに身体がビクッと跳ね上がる。
「こーちゃん、おはよう。もう起きてる?」
叔母さんの声だ。
「山本さんがスイカをお裾分けで持ってきてくれたから、ここ置いとくね。一応バケツに入れておくけど、この水がお湯になる前に冷蔵庫に入れといて」
あたしとは正反対の明るく元気な声。地域の人からも親しまれ、彼女の周りはいつも楽しげな笑い声で溢れている。そんな叔母さんがとても苦手だった。叔母さんもきっとあたしのことが嫌いなのだろう。言いたいことだけを言うと、返事を待たずにさっさと帰っていく。気配でわかるのだ。
嫌われるのも当然だった。
帰る家を失った姪が突然やってきて、たまたま空いていた自宅の離れに引きこもり、病みアピール全開で家賃も払わず棲み続けている姪。高額の保険金を掛けられて、寝静まった頃を見計らって家に火を放たれても文句を言う資格などどこにもないことは誰も目にも明らかだろう。だからといって、叔母さんを保険金殺人の容疑者にして喜ぶほど落ちぶれてはいないつもりだ。あたしにも人間としての矜持がある。
なぜだか急激に気持ちが昂ってきた。
体を動かしたくてしかたがない衝動が全身に漲ってくる。
こんなアクティブな気分になったのは何ヶ月ぶりだろうか。
あたしはお気に入りであるミモレ丈のカジュアルワンピースに着替えると、裏の勝手口から外に飛び出した。
1
そういえば、季節は夏だった。
想像を遥かに上回る凶悪な灼熱が光り輝いて頭上から降り注いでくる。
一般の人であれば抗い立ち続ける体力や筋力もあるのだろうが、こちとら摂食障害の無気力人間。日光に晒されながら歩くたびにごっそりと体力が削られ、身体中の水分が汗となって吹き出したが最後、ミイラとなってその生涯に終止符を打ちかねない身の上なのだ。命の危険を感じたあたしは常に日陰と寄り添い、陽射しから逃げ続けるルートを余儀なくされてしまう。
敵はそれだけでない。
同年代の女の子たちがそれだ。
ひどい時には制服を見ただけで吐いていた。
夏休みに感謝したいところだが、高校には補習というものがあるため油断できない。
人通りの多い道を避け、人目につかない路地を選ぶ。
そうして、気がつけば見知らぬ場所に辿り着いていた。
目の前には、自己主張に取り憑かれた草花が百花繚乱のごとく咲き誇るところへ割って入れとばかりに佇む白い石階段が見える。コンクリート製のような形が整えられた階段ではなく、適当に割った石を階段状に並べたものだ。門扉が見当たらないので、上ったはいいが頂上の個人宅で住人と鉢合わせ、なんてことにはならないだろう。万が一個人宅であったとしても入り口がこの状態ならきっと廃屋に違いない。などと、上る前提で色々と言い訳を考えてしまっている。ということは、あたしはどうしてもこの階段を上りたいらしい。さいわい日陰で涼めた分、体力も気力も少しは回復できた気がする。あえて階段を避ける理由もないのだ。
意を決したあたしは、階段に置いた右足に体重を乗せた。
2
赤にピンクに白の花弁はコスモス。黄色の花は菜の花とひまわり。紫なのはアザミかな。それ以外にも名前が不明の花が階段の両側を鮮やかに彩っている。季節がめちゃくちゃなのは気のせいだろうか。もしかしたら、そういう品種なのかもしれない。一段一段じっくりと吟味するよう踏みしめて、ゆっくり上っていく。そして、ついに最後の段へ到達する。
あたしの初登頂を祝うかのように一陣の風が吹き抜けた。
汗で濡れた素肌に心地よい冷たい風。
鼻腔をくすぐられて懐かしい記憶が蘇る。
これは自分が小学生だった頃、夏祭りの露天バーで作ってもらったミント水の香りだ。両親があまりにも美味しそうにミント入りのお酒を飲んでたものだから自分も飲みたくなってギャン泣きしたのだ。当然、飲ませてもらえるわけもなく、見かねたバーのお姉さんが特別に作ってくれたのがアルコール抜きのミント水だった。爽快感のある冷たい水の中にほんのりと感じる甘さがオトナの味な気がして強く印象に残っている。香り付けに入れてくれたミントの葉をしばらく大事に残しておいていたほどに。
その宝物が今、目の前に広がる空き地の地面を隙間なく埋めていた。
——あの時の味を再現できるかな?
そんな考えが胸中を過り、なぜだか無性に嬉しくなる。
いつも叔母さんが作ってくれる胃に優しい食事のほとんどを吐き出す罰当たりなあたしが、誰かを笑顔にできるかもしれないのだ。たとえそれがミント水のような料理と呼べない超簡単な代物でも、この一歩はあたしにとって喜ぶべき成長の足跡となりうる可能性を秘めている。気がする。
早速しゃがみ込み、新鮮で形の整ったミントの葉を選んで摘んでいく。広場を吹き渡る風のおかげか、獰猛な熱波を浴びてもさほどの苦痛はない。それでも、やはり無防備な肌に直接当たると痛いので、陽光は背中で受け止めるよう心掛けた。
しかし、帽子なし、水分補給なしでの地道な作業は少し無謀な挑戦だったのかもしれない。
視界が霞んできた。
最初は汗が目に入っただけかと思っていたが、そうではないらしい。
フッと意識が途切れる。
倒れた自覚もないままに意識が黒に沈む。ミントの強い芳香が神経に作用したのか、一瞬だけ視覚が戻った。
目に映った景色は、視界を埋めるシバイヌの顔だった。
3
目が覚めると、あたしは見知らぬソファーの上にいた。肘掛けがくるりとカールし、背もたれが貝殻の形をした猫足ローソファーだ。仰向けのあたしがすっぽりと収まるロングサイズで寝返りできる幅もある。きっとかなりのお値段に違いない。革製らしき座面の上にヨダレの跡がないか確認し、念の為にポケットに入れっぱなしになってたハンカチで軽く拭いておく。
それにしても、ここはいったいどこだろう。
ナーロッパの邸宅を彷彿とさせるクラシカルで気品ある調度品の数々。赤くシックなベルベットカーテンが外からの光と熱を遮り、室内は最良の温度に保たれている。板張りの床は黒曜石と見紛うばかりに磨き上げられ、そこを素足で踏みつけるなどあたしにできるはずもない。
ソファーから下りるに下りられず、ただ漫然と過ごしていると、やにわにドアがノックされた。
ドアの向こうから現れるのは、立派な口髭を貯えたロマンスグレイの執事だろうか。そんな期待を抱きながら上擦った声で短く返事をする。ドアノブの回る音がして本紫檀の扉が重々しく開かれると、隙間から美しく整えられた銀髪が⋯⋯見えない。
「失礼します」
想像より遥かに幼い声が注視先の下から聞こえてきた。
「この度は拙宅のシバイムどもが大変なご迷惑をおかけしましたようで本当に申し訳ありません」
深々と首を垂れる少年。年齢は十歳くらいだろうか。シバイヌをシバイムと言ってしまう舌足らずな口調といい、ガンクラブチェックのハーフパンツをブレイシーズで固定している様といい、ナーロッパ貴族の子供ぽくて実に愛らしい。
「いっいいよ、いいよ。怪我なんてしてないし!」
あわてて謝罪を遠慮する。そもそも勝手に敷地に侵入し、ミントを盗んでいたのはあたしの方。シバたちは番犬として当然の役目を果たしただけなのだ。常識的に考えれば、謝罪すべきはこちらだろう。
「でも、お姉さんの細すぎる手足や血の気のない顔色はどう考えてもシバイムに生気を吸われたとしか思えません。拾い喰いはするなと言って聞かせてはいるのですが⋯⋯ごめんなさい」
顔を上げた少年の目は泣きはらしたかのように赤く腫れていた。シルキーな銅色の髪も気のせいか艶をなくしてしまっている。
「ご自覚がないのも無理ありません。ここまで酷いと僕にも手の施しようがなくて⋯⋯今、知り合いの医者のところへ急ぎ向かっています。必ず助けますから、今しばらくご辛抱ください!」
「???」
わからん。
なにがなんだか話の流れが全く見えてこないのだ。
4
第三世代型超次元時空間転移用万能人型宇宙戦艦クリナム。
これが彼の、あの少年のフルネームであるらしい。
つまり彼はメカであり、無数の次空を駆け抜ける子供の姿をした宇宙戦艦ということだ。
「ちょっと信じられないなぁ」
クリナムくんのモチモチとした手触りのほっぺをつまみながら、あたしは独言る。
「これが機械? 機械ってのはもっとこう硬くて冷たくてってイメージなんだけど」
「ふぉれはひひゅうろひひゅふひひゅふふぁ」
無抵抗でされるがままになっているクリナムくんから説明がなされたらしいが、何を言っているのかわからない。
「それに」
クリナムくんの腰をぐっと引き寄せ、彼のおなかに顔を埋める。あたしはまだソファーに座ったままだ。
「子供特有のこの体温の高さも機械とは思えないのよね」
「⋯⋯⋯⋯」
「あれ? もしかして照れてる?」
「⋯⋯してません」
「さっきの説明だと、この部屋も部屋の中のあたしもこのおなかの中にいるんだよね。そのおなかの外を今こうして触ってる」
「はい」
「なんか不思議⋯⋯今も宇宙を移動しているのにクリナムくんはここにいる⋯⋯ってことは、次元宇宙の外からはどんなふうに見えてるの?」
「エネルギーの塊が宇宙を横切ってるように見えているはずです。もし地球から観測できたなら、彗星と勘違いするかもしれませんね」
「ふーん」
とりあえず返事はしたものの、もちろんよく分かってはいない。
「それで」
一旦両腕の中からクリナムくんを解放し、ソファーの上の姿勢を正す。あぐらをかいて座るという完全なリラックスモードだ。
「あたしたちは今どこに向かってるの?」
束縛から解き放たれたクリナムくんは素早くあたしから距離を取り、手の届かない場所であたしのためにお茶を用意しながら応える。
「サマリタンbという惑星です。社会福祉が充実し、文化レベルも科学技術レベルも高く、教養人が数多く住む星でして、教育や研究機関の集積地として機能しております。しいて言うなら研究学園都市惑星でしょうか。医者はここで開催される学会に出席のため、一時的に地球を離れたのです。サマリタンbは自然も美しいところなので療養には最適ですよ」
脳裏に浮かんだ景色は、いつかネットで見た天にも届くような高層ビルとその間を繋ぐ透明なチューブに入った電車。それに空飛ぶ車が行き交う児童向け図書の挿絵タッチで描かれた未来予想図的世界だった。
5
着いた、らしい。
だが、クリナムくんは浮かない顔だ。
「どったの?」
「星座標も時空標も正しい位置を示しているのですが、データベースにあるサマリタンbとは見た目が異なってまして⋯⋯」
激しく困惑している様子。ここはひとつ、あたしがお姉さんとして頼り甲斐のあるところを示さねばなるまい。
床に目を落とすと、シバイヌの顔を模したスリッパが並べられていた。
本当によく気の利く子だこと。
心の底から感心しつつ、スリッパに足を通す。少しひんやりとした、冷感ジェルを踏んだかのような感覚が足の裏から伝わる。夏だし、そういう商品もあるのだろうと大して気にせず使うことにする。
「ねぇ。ここの窓から外の惑星が見える? カーテンを開けるなりクリナムくんの内臓がびっしり! なんてことない?」
「僕に生物的な内臓はありませんから大丈夫ですよ」
ティーポットからカップに注がれる薄紅色の液体から、湯気を纏った華やかな香りがふわりと漂ってくる。クリナムくんから放たれた、ちょっと棘のある物言いも、ローズティーの香りに免じて今回ばかりは許してあげよう。
窓に駆け寄り、ベルベットの赤いカーテンを力強く引いた。
目の前に白く大きな円盤があった。
恒星からの光を受けて輝く姿はウォーターオパールを思わせる乳白色と淡い青の混色。影の部分は神秘的な青緑の光を宿す、まさにブラックオパールだ。
「これがサマリタンb⋯⋯」
息を呑む美しさに言葉が出ない。
いったいこれのどこにクリナムくんは不満を持つと言うのか。
糾弾の眼差しを後ろにいるであろうクリナムくんに投げかけた。
すると、彼は小さく肩をすくめ、「もうすぐわかりますよ」とだけ呟く。
言葉少なな返答に苛立ちを覚えながらも、あたしは再び窓に向き直る。
すると、見えてきたのだ。
ウォーターオパールを汚す黒いシミが触手のごとく広がり蝕んでいく様が。
「⋯⋯あれは、なに」
今度はショックで声にならない。
「黒が濃い部分はサマリタンbの首都がある場所です。医者が出席する学会も首都で行われると記憶しています。今、情報を集めていますが、通信衛星や放送衛星も機能停止を強いられているらしく、少し時間がかかり」
クリナムくんの動きも止まった。
驚いたように、呆れたように、瞳を大きく見開いてあたしを見つめている。
「え? どうしたの?」
「こっちのセリフですよ! なんで、ちょっと目を離した隙にシバイムに取り込まれてんですか!?」
「え、シバイム? え?」
シバイムはシバイヌの言い間違いでなく、シバイヌに似た形をしたスライムの呼び名だった。
とある辺境の惑星にて発見された近似ストークス流体の性質を強く持った生物で、粘度を自在にコントロールできる特性から、科学的応用や新素材としての活用を広く期待される存在だという。地球にいたのは医者が面白半分で持ち込んだから。ペットにするつもりだったのか、結果的にペットとなったのかは不明だが、現在はもっぱらクリナムくんが世話をしているようだ。
そのシバイムに全身まるごと取り込まれたらしい。
丸呑みにされた、という言い方が正しいのかわからないが、クリナムくんの表情を見る限り、笑っていられる状況ではなさそうだ。食べられたにしても、いつも通りに呼吸できるし、こうしてクリナムくんと会話もできている。なにかに包まれているという感覚も希薄。唯一、違和感があるとすれば、履いていたはずのスリッパがいつの間にか消えていることくらいだろうか。どうやらアレがシバイムの擬態であったらしい。
そして、あたしの身体はあたしの意思から離れ、勝手に動き出す。
両腕を伸ばして大きな窓にぺったりと手のひらを張り付かせた。もちろん、あたしの意思に反してだ。次にピョンと小さくジャンプして両足も窓にくっつける。人工重力もなんのその。ヤモリやカエル、クモにでもなった気分だ。くっついてからしばらくすると窓に変化が顕れる。硬くて厚いガラスがゴム膜のようにビヨンビヨンになったのである。十分に柔らかくなったことを確認すると、あたしはゆっくりとした動きで顔をガラス面に近づけた。額が押し付けられるもガラスは緩やかに伸び、割れることなく突き抜ける。続いて上半身が窓の外へ抜け出ると、最後に両手両足がハッチアウトする。
ハッチアウト。
タコの赤ちゃんが孵化する様子を映したドキュメンタリー番組で知った言葉だ。
あたしは非力な身一つで宇宙空間に投げ出された。目の前に快適な宇宙戦艦は見えず、背後には強い引力を感じる巨大惑星。
為す術を持たないあたしは、そのまま惑星に降下していった。
6
「いった!」
背中に痛みが走った。ベッドから転げ落ちたかのような衝撃だ。
ゆっくり目を開けると円形に切り取られた青空が見える。クレーターの底に位置しているらしい。土に埋まった腕をおそるおそる引き抜いてみる。抜けた。自分の意思で腕も足も身体も動かせる。シバイムの干渉から解放されたようだ。だとすると、シバイムはどこへ行ったのだろう。周囲を見渡してもシバイムらしき姿は見えない。
あたしを見捨ててさっさと外へ?
ありうる。
そもそも、アレとは意思の疎通ができる気がしない。
丸呑みにされた間も、あたしの同意なく宇宙空間に飛び出して、このザマなのだ。きっと何も考えていないに違いない。
そうして、しばらく埋まった下半身を土から引き抜くため、大地に細腕で挑んでいると、空と土の境界に黒い影がポツポツと湧いてくるのが見えた。おそらく野次馬だろう。意思の疎通が可能な相手かどうか考えあぐねる。すると、質問より先に答えが頭の上から降ってきた。
「大丈夫だかね?」
降ってきた老人の声がクレーターの壁に反射して響く。
「はい。まぁ、なんとか」
久しぶりに大声を出したせいか、軽く咳き込んだ。
「今、助けに降りて行くだで、もうちょいと辛抱してつかァせぇ」
「はぃ。ありがとぅごぜぇます。お待ちしてぇます⋯⋯」
咳をしながらもなんとか応答できた。あたしにしては上出来だ。
その後、ロープやハシゴを使って降りてきた救助隊により、あたしは地の底より救い出された。救助隊員よりもあたしの体長がやや大きかったことから難航するかに思えたが、見た目よりも軽い体重と重機の登場が幸いし、どうにかこうにか無事に地表へと至ることができた。まったくもって感謝に堪えない。
明るい陽差しの下で見る彼らの姿は、端的に言うなら中型犬サイズのモルモットである。
ヘルメットを被り、重機を操作するモルモットに、手拭いを首にかけ、ロープやハシゴの回収に勤しむモルモット。そして、遠巻きに事の推移を眺めているモルモットの群れ。獣人ではなく、モルモットがモルモットの姿のまま人間と同じように二本足で活動しているのだ。
「穴の底に埋まっていたのはあんただかね?」
両足を投げ出す格好で地べたに座り込んでいるあたしの元へ一匹のモルモットが近づいてきた。
その声は穴の底で最初に聞いた老人の声だった。地表で聞くと、声に力強さと張りがあり、口元に立派なヒゲと手に杖を持ってはいるが、彼を老人と呼ぶには申し訳なさがつきまとう感じがする。
あたしは投げ出した足を素早く引っ込めて正座を作ると、目の前のモルモットに深々と頭を下げた。
「この度は助けていただきありがとうございます」
「なんのなんの。我々サマリタリアの民は困ってる人や迷っておる人を見て見ぬふりできぬ不器用な民族だで。礼にはおよばんででよ」
目を細め、機嫌良くプイプイと笑(?)う。
それから、自己紹介に始まり仲間とはぐれた経緯など、事実とは多少異なるが破綻しない程度に話を盛ったり削ったりして事情を説明した。泊まる場所と食事の確保に必死だったのだ。そんな話の流れから言葉の話題になった。なぜ日本語が通じるのか、不思議でしかたなかったのだ。
「我々の言葉だかね?」
「はい。なんで通じてるのかなーと」
おじさんモルモットがプイプイプイ〜と大笑いし始めた。
「この*本語は全宇宙共通の公用語だで。通じるのは当然ででよ」
「でも、あたしの星じゃ日本語は日本人だけが使うローカル言語なんですよ」
「よんげな田舎から来たんだかね!? *本語はぁ『神様より賜った本当の言葉』って意味ででよォ、それ以外の言葉は偽物だでよォ」
おじさんモルモットの訛りがキツくなる。打ち解けてリラックスしてきたせいだろうか。
「へぇー⋯⋯日本語にはそんな意味が」
「*本語な、*本語」
どうも*の部分がうまく聞き取れない。日本語にはない発音だ。
「事情はどうあれ来訪者は親切に歓迎するでがワシらサマリタリア民の決まりだで。休めるとこも食事も心配することなかでが、ゆっくりしていったらええでがね」
「⋯⋯はい、すいません。お世話になります」
この星でも地球でもあたしは厄介者にしかなりえないのかと、少し悔しく思う。
7
お世話になる家は母ひとり娘ひとりの家庭だった。あたしが女なので気を遣ってくれたのだろう。ここの家なら彼らより背も高く、力のある者としてお役に立てるかもしれない。
「奇妙な病気が流行ってるの」
近くの小川で水汲みを手伝っていると、おもむろに恰幅の良い母モルモットが呟いた。
「そのせいで全てのインフラが止まり、私たちの生活は大昔に逆戻り」
宇宙戦艦から見た、星を蝕むあの黒い異物のことを言っているのだろうか。
「娘もまだ小さくて手もかかるし、あなたが来てくれて助かるわ」
母モルモットは目を細めてプイイと笑う。
お世辞でも嬉しかった。
だから調子に乗って「なんでも申しつけてください。お手伝いしますよ」と安請け合いをしてしまうのだ。
「あら嬉しい。じゃあ、早速お願いしちゃおうかしら」
あたしは水で満たした木桶を持って家路を急ぐ。モルモットサイズとはいえ、けっこうな重量だ。あっちへフラフラ、こっちへフラフラしながらなんとか無事に任務を果たすことができた。木桶の水を台所の甕に移し替え終えると、大の字に寝転び一息つく。
「おお、ノッポさん。こんげな所におじょったがね」
ノッポさん? あたしのこと?
身を起こすと勝手口におじさんモルモットが立っていた。
「いや、穴から出してもらった時に自己紹介したじゃないですか。あたしは奏杜梢ですって」
「へぇこたらふんぬがぬんべばぁぞごたぁ行ってくんねがね」
あたしと顔を合わせる度に訛りをキツくする決まりでもあるのか、おじさんモルモットがもう何を言っているのか理解できないレベルにまで達してしまった。
「町長さんは良い人なんだけど、ちょっとイタズラ好きなところが昔からあって」
娘モルモットを抱きかかえた母モルモットが台所にやってきた。
「こんな人ですけど、悪気はないので許してあげてくださいね」
世話好きのおじさんモルモットは町長だったのか。
なるほど、言われてみれば口髭といい杖をつく様といい、どこか地元の名士を思わせる佇まいがある。
「そげねばぶるっちょるげんねぇへばもるそぐよんじょ!」
ぜんぜんわからん。
もう喜んでいるのか怒ってるのかさえ不明だ。
ドン引きしたまま見守っていると、町長の体が小刻みに震え始めた。やがて振動が大きくなり、口から泡を吹き始める。
「奇病だわ!」
母モルモットが叫んだ。
「やがて頭にツノが生え、それが黒い傘のように広がるの! ああ、なんてこと⋯⋯」
母モルモットは気絶し、倒れてしまった。
娘モルモットちゃんがあわてた様子であたしの腕に飛び移る。
ツノが生える?
頭の中に一枚の絵が浮かんだ。絵のタイトルはジャッカロープ。アメリカの伝承に登場するツノウサギの姿を描いたものだ。
本当にそんな病気なら近寄らない方がいいだろう。
あたしはそろりと立ち上がり、娘モルモットちゃんを背中にしがみつかせると、母モルモットを奥の部屋に移動させるべく体勢を整える。ちらりと背後へ視線を送ると、町長がまだプルプルと震えていた。襲いかかってくる気配はなさそうだ。
「ねぇ、これなーに?」
いつの間にか娘モルモットちゃんが前屈したあたしの腰の上に乗っていた。成人モルモットと異なり小さくて軽いため、移動に気づかなかったらしい。彼女の小さな手に握られていたのはワンピースのポケットに入れっぱなしだったミントの葉。つぶれたり、こすれたりでシナシナになってはいるが、清涼感のある強い香りはまだ健在だ。
「ミントっていう植物の葉っぱだよ。スースーした香りがするでしょ」
「おいちい?」
「どうだろ。食べたことはないかなぁ」
パクり。
娘モルちゃんが葉を食べてしまった。ふた噛みほどしたあたりで後悔の様子が顔に出る。
「ペッてしなさい。ペッて」
あたしに言われて吐き出そうとするも、葉が前歯にくっついて上手く出せないようだ。
「うがいしてみようか。グジュグジュペッってやったら上手くいくかも」
口を開けて悶絶している娘モルちゃんを抱いて甕へと移動する。町長に近づく動きとなるがしかたがない。そろりと接近し、柄杓ですくった水を娘モルちゃんの口に含ませる。
口の中で撹拌された水により、爽やかさがさらに充満したらしい。思わず床に吐き出す娘モルちゃん。
吐き出された水の行き先を目で追ったあたしは、思いもかけぬ光景を目撃することとなる。
黄色い粘菌が床を這っていたのだ。半透明なせいで床の色が透けて見え、今の今まで気づかなかったらしい。あたしの足元に迫っていた粘菌が吐き出された水を素早く回避し、あたしたちへの侵略を躊躇しているかに見える。この粘菌がどこからやってきたのかは言うまでもないだろう。そう、町長からである。
町長の様相もまたずいぶんと変化していた。カエンタケにも似た赤黒い突起が顔中から生え、かなりグロテスクな見た目と化している。
悪いことばかりではない。娘モルちゃんのおかげで新たな希望を見つけることができた。
どうやら、この奇病はミントが苦手という大発見だ。
あたしはポケットの中のミントを掴むと、甕の中へと投げ入れる。汲んできた水すべてをミント水にしようと思いついたのだ。
だが、あたしの記憶にあるミント水のレシピには『冷蔵庫に入れて三時間から五時間冷やす』という工程が含まれている。ミントの葉を水に浸せば完成というわけではないのだ。ミントの葉を投入し終えた甕を柄杓でグルグル掻き回す。これでなんとかミントの風味だけでもいい感じに抽出できないかと考えてのグルグルだ。床に目を落とせば、黄色い粘菌が濡れた部分をきれいに避けて、また侵攻を始めている。ダメ元で水を撒いてはみるが、やはり効果は今ひとつだった。
「ミントの葉を直接撒いてみるのはどうですか?」
——なるほど、その手があったか!
あたしは左腕で抱いていた娘モルちゃんを右腕に持ち替え、左手でもう一つのポケットに手を入れる。ポケットの中には潰れたり擦れたりと見栄えの良くないミントの葉がたくさん詰まっていた。それをしっかり握りしめると、「鬼は外!」の要領で町長に投げつけた。
町長の体がピクリと大きく跳ねた気がした。
——これは効いている⋯⋯のか?
床に目をやると粘菌も動きを止めていた。効果テキメンと考えていいだろう。
だが、手持ちの武器は早くも弾数が尽きてしまった。四投目にして投擲物が糸屑とチリとゴミになったのだ。
もはやこれまで。
戦略的撤退に作戦変更しようとしたそのとき、目の前に両手いっぱいに乗ったミントの葉が差し出された。どれも摘みたて新鮮で瑞々しさに溢れている。
「これで足りなければまだまだあります。存分に使ってください」
手から腕へ、そして肩へと視線を上げていくと、そこにはにっこりと微笑む少年の顔。
「お元気そうで安心しました」
「クリナムくんだぁぁぁぁぁぁぁ!!」
抱きついて頬擦りのひとつでもしたいところではあるが、今は非常事態の真っ只中。熱烈ハグひとつで済ませておく。その折に娘モルちゃんはあたしの細腕をすり抜け、クリナムくんの腕の中へ引っ越してしまった。やはり女の子。どうせ抱っこされるならイケメンの方が良いというわけか。
一抹の寂しさを感じながらも、あたしは笑顔だった。
無限の弾薬を持つ超人型宇宙戦艦を味方につけたのだ。粘菌ごときに負けるはずがない。
わんこそばさながらの動きで次から次へ手渡しされるミントの葉。それを即座に撒き散らす。娘モルちゃんからの援護射撃もあって、床も町長もミントの葉にまみれてしまった。黄色い粘菌はもとより町長の顔から生えたカエンタケもその成長を止めている。しかし、完全勝利には程遠いのだ。動きを封じただけで町長の体から疫病を追い出せてはいない。
「でしたら、これを使いましょう」
クリナムくんがズボンのポケットから何かを取り出した。未来の便利グッズだろうか。
「それって⋯⋯もしかして」
銘菓ひよこを彷彿とさせる手のひらサイズのシバイムだった。
「惑星の首都を覆っていた黒い影の正体は、そこに生えてるカエンタケモドキの集合体でした。サマリタリアンだけでなく人型の異星人をはじめ有機体にならなんにでも寄生して繁殖していたようです」
「それとシバイムになんの関係があるの?」
あたしの放った疑問にクリナムくんはニヤリと笑う。
こんな表情もできるとは驚きもあったが年相応の悪ガキらしくて嬉しくもあった。
「大アリですよ。シバイムはこの宇宙で唯一とも言えるカエンタケモドキの天敵なんです。広がった黒い傘が大好物なんですよ」
「⋯⋯ひょっとして、あたしを丸呑みにしたシバイムが外に飛び出したのって」
「大好物を目の前にして居ても立ってもいられなかったから、でしょうか」
「あたしを置き去りにして、どっか行っちゃったのも」
「ダッシュで食べに行ったから、でしょうね」
——あ・い・つ〜!
——このあたしを利用するだけ利用しといて、使い終わったらポイ捨てかよ。許せねぇ!
あたしの怒りを知ってか知らずか、クリナムくんの解説は続く。
「この仔シバイムは硬い黒い傘よりもツノのような柔らかい状態を好んで食べるようなので、今の状況には最適かと。さっそく放してみましょうか」
クリナムくんの手からピョンと飛び出した仔シバイムが、一直線に町長のもとへと向かう。ベチャッと体に張り付いたかと思うとアメーバに似た姿となり、小さなツノやツノになりきれていない粘菌を覆うと丹念に消化しているようだった。
その光景に思わず目を背ける。
自分にも消化される可能性があったのかと思うと見ていられないのだ。
「それはないと思いますよ」
クリナムくんが言った。
「消化するつもりなら丸呑みにした時点で溶かしにかかってますよ。僕には違う意図があったように思えますが」
「⋯⋯違う意図ってなによ」
形の良い指を顎に当て、少し考える素振りをみせる。
「あなたを守るため、とか」
「は?」
「シバイムにとって、あなたは違う宇宙から僕の中に迷い込んだ同じ境遇の仲間に見えたのかもしれません。だから、カエンタケモドキにかこつけて僕に囚われたあなたを救い出し、再び自由にしてあげた⋯⋯というのは考えすぎでしょうか」
「⋯⋯なにそれ。ゲームの話?」
「ま、想像です。万能を謳われる宇宙戦艦であっても他者の心に立ち入らないルールくらいは弁えてますから」
なんともモニョる言い方をするではないか。
しかし、本人が深く追求するなと暗にほのめかしているなら、あたしもとやかく言うまい。親友を苦しめ、あたしを無限嘔吐に追いやったバカな女どもと同じになる必要なぞどこにもないのだから。
8
プウ、という小気味の良い音がした。
「どうやら仔シバイムがひと仕事終えて戻ってきたようです」
町長の足元から仔シバイムがひょっこり顔を覗かせる。それと同時に町長の体が崩れ落ちた。
「体の芯を支えていた最後の粘菌が取り除かれたのでしょう。心配には及びません」
「いや、心配するよ! あたしを助けてくれた命の恩人だぞ」
言うが早いか、あたしは町長に駆け寄り助け起こす。顔にはもうあの不気味なツノが一本も生えていない。
「体表からも体内からも奇病の痕跡は完全に消えました。もちろん、この家の床からもです」
「よかった⋯⋯。ん? 体内からも?」
「ええ、さっきの音は仔シバイムが体内から排出された際の放屁音。腸が活発に動き始めたなによりの証拠でしょう」
町長の足元に視線を移すと仔シバイムが愛らしく首を傾げている姿。撫でてよいものか躊躇がつきまとう。
「大丈夫ですよ。低粘性体になったシバイムは体表に付着するあらゆる異物を無害化し吸収してしまいます。不潔なものが付着してる可能性は限りなくゼロに近いと言えます。ただ、体外に排出された後に付着したものに関しては、その限りではありませんが」
よし、触れるのは後にしよう。
クリナムくんに頼んで町長と母モルを奥の部屋へ移動させ、安静にさせる。娘モルちゃんもこれでひと安心だろう。
その後はあたしたちが大変だった。大忙しだったのだ。
サマリタンbにはミントが自生していない。安易に持ち込み、えらいことになった例をいくつも知っているあたしは、ミントの代わりになる代替植物をこの星に求めたのである。目的はもちろん、やっかいな疫病から身を守るために必要なミント水の大量生産だ。町民に聞き込みをした結果、そもそもこの星にハーブという概念がないということがわかる。そこで野草を用いた古の民間療法研究家を紹介してもらう運びとなったのだ。
あたしとクリナムくんで紹介された家に出向く。
庭が荒廃しすぎて廃屋に見えるが、ボーボーに生えた雑草は研究のために栽培している野草だという。つる植物が屋敷の外壁を緑一色に染めており、多くの窓も葉で塞がれているせいか室内は昼間でも灯火が必要なほど暗かった。
「なるほど。これですか、奇病に効果がある植物というのは」
研究家のモルモットは重ね付けネックレスのようにいくつも首から下げている鼻眼鏡から、ピンクフレームのフィンチを選択し、慣れた手つきで鼻に乗せる。
「ふむふむ。清涼感のある強い香り⋯⋯この香りに疫病を退ける薬効成分がありそうです。どれどれ」
「あ!」
制止する間もなく、口に放り込んでしまった。
案の定、ふた噛みほどしたあたりで後悔の様子が顔に出る。
「⋯⋯ちょっと、失礼」
喉の奥から絞り出すように呟くと、急ぎ足で部屋から出ていく。やはり、うがいをしようとして彼も悶絶するのだろうか。
「ぐああああああああ!」
遠くの部屋から悲鳴が聞こえた。
9
「⋯⋯どうも、お見苦しいところを」
バツが悪そうに頭を掻き掻きしながら研究家が戻ってくる。
「ですが、発見もありましたぞ。噛んだ時のあの感じ、似た植物がうちの庭にもあったはずです! たしか名前は」
手燭燈で書架を照らし、記憶と記録の整合を試みる。
「⋯⋯やっぱり一度は口に入れるんですね」
あたしからの質問に研究モルはキッとした目を向けた。
「あたりまえじゃないですか。実際に効果があるのか試してみないと成果は得られませんからね。しかし、人々から理解を得られぬまま、やれ徒労だ、やれ無駄骨だの言われ続けた研究がこんな形で日の目を見ようとは思いもしませんでした。ありがたいことです」
研究モルの手が動く。目的の資料が見つかったらしい。
「ありました。これです」
彼が取り出したのは手作りの図鑑だった。実際に採取した野草を押し花にして貼り付け、採取地、採取時期、成長記録などが丹念に記載してある。
「草の名前はマルンテラ。サマリタンbでは家の庭や道端にも生える雑草の代表格です。そのままでは何の香りもしませんが、すり潰すと強く香ってきます。爽快感は弱めですが、いかがでしょう?」
図鑑が研究モルからあたし、そしてクリナムくんへと渡った。
クリナムくんは押し花になった草を指先でそっとなぞり、しばし動きを止める。
「弱いですね。効能がミントの半分もありません」
「⋯⋯そうですか。噛んだ感じが似てると思ったのですが」
「ですが、悪いわけでもないのです。浸すだけのミント水ではなく、マルンテラを煮出して薬効を抽出すれば大丈夫でしょう。爽やかな口当たりの良い飲み物ではなく、苦く飲みづらい薬になってはしまいますが」
「いいんじゃないですか。ここの星では苦いものほど効く薬という認識が強いようで、ありがたがる傾向にあります。この方が普及しやすいかもしれません」
話が専門的になっていく。
あたしは話の輪に入れず手持ち無沙汰だ。
そんな様子を汲み取ったのか、研究モルが「お茶を淹れてきますね」と席を立つ。
二人きりの奇妙な時間。
なんとなく会話のきっかけを掴めずにいると、クリナムくんから先に話しかけてきた。
「そろそろお帰りになりますか」
帰るか、そう訊かれたあたしの脳裏にいくつかの選択肢が現れる。一番先頭に表示されているのはモルモル母娘の家だ。町長と母モルを寝かせ、娘モルちゃんを隣人に預けるなど措置はとったが、不安が完全に消えたわけではない。
「そうだね。ここにいても、あまり役に立てそうもないし」
「わかりました」
おもむろにクリナムくんがハーフパンツを吊るブレイシーズを肩から外した。白いシャツの裾を引き抜くと、すぐにボタンを外し始める。
「え? え? ええっ!?」
あたしは困惑した。
——帰るって「家に帰る」とは違う意味ってコト!?
様々な憶測が頭の中を駆け巡り、十八禁な展開も考えたせいか、顔が赤く熱ってくるのが自分でもわかる。
「僕の背中に金属製のハンドルを付けておきました。九十度下に回してください。ドアが開きます」
「⋯⋯地球に帰れ、って意味だったのね」
すべてを察したあたしは一瞬で冷静さを取り戻した。
「いやだ。帰りたくない」
あの星には美しい想い出なぞひとつもない。思い出そうとすると喉に刺さった小骨のごとく、チクチクと痛みがぶり返すのだ。食べ物はもちろん、吸い込んだ空気の侵入すら阻むその痛みは、身体のずっと奥の奥、心と呼ばれる臓器に原因があるらしい。執拗ないじめによって自ら命を絶った幼稚園からの親友。とても大事に思っていたはずの友人を守りきれなかった弱い心。自分の髪を自分の手で引き抜く痛みに耐えられるのなら、なぜ、あのとき、親友の前に立って守ってあげられなかったのかという激しい後悔が胃の中に重く居座り、すべての食べ物を拒絶するようになったのだ。
この疫病は家族にも伝染する。
両親の仲は決して悪いものではなかった。壊れていくあたしのせいで、夫婦という関係も家族という関係も完全に壊れてしまった。離婚する際、父も母もあたしの親権を放棄した。壊れた子供は誰にも必要とされていなかった。
唯一の例外が叔母だったのだ。
後頭部にチクリとした痛みが走る。
喉に感じる痛みとは別の種類の痛みだ。
叔母への恩を蔑ろにしたまま去っても平気なのか、という後ろ髪を引かれた痛みらしい。
親族の間でも「物好き」「変わり者」と呼ばれるだけあって、引き取りに躊躇はなかったと聞いている。美人で明るく人当たりも良い叔母が暮らす町は海辺の限界集落。この町で唯一の娯楽ともいえるスナックを営んでいた。カラオケが歌えることから、ゲートボールやグランドゴルフで一汗流した町の老婦人たちが朝早くから来店するのだ。昼になると今度は漁から戻ったイケオジが大挙して押し寄せ、市場に卸さない魚を自ら捌いてグラス片手に熱唱するのである。そして午後四時には閉店。スナックの概念を覆す経営スタイルを貫いているのが、この店の特徴だった。
あの店なら、あたしでも手伝えることがあるのかもしれない。
「⋯⋯わかった。帰る」
あたしはクリナムくんの後ろに回り込むと乱暴にシャツをめくり上げる。たしかにそこには銀色をしたレバータイプのドアノブがついていた。
「へんなの」
見たままの感想を呟く。
「あなたが迷い込んだミントの広場はあのまま置いておきます。いつでも摘みに来てください」
「⋯⋯でも、もう艦の中には入れてくれないのね」
「必然と必然が交わる軌跡を人は偶然と呼称します。そんな奇跡が起きれば、あるいは」
「⋯⋯そっか」
ハンドルを握る。これを回し、ドアを開ければそこはもう地球だ。
帰る、と宣言したはいいが、どうしたことか腕に力が入らない。
やはり、心のどこかにあの世界に対する拒絶反応があるのかもしれなかった。
「そうそう、前に医者がこんなことを言ってました。顔を上げてまっすぐ歩いていれば、儚げに瞬く小さな星が実際には巨大な恒星なんだとやがて気づく日が来るだろう、と。なにが言いたいのかわかりにくい話ですが、僕なりに解釈しますと」
「まぁ、なんとなくわかるよ」
軽く笑う。
「そうですか?」
クリナムくんの声もほころぶ。
「うん」
——これで本当にお別れなんだな⋯⋯
あたしは横一文字のハンドルを在らん限りの力で下へと回した。
エピローグ
気がつくと、あたしはミント広場に横たわっていた。
陽は高く、灼熱と呼べる光線で満遍なく地面を焦がしている。あたしの衣服もけっこうな熱を帯びていたが、幸いにも体調に問題はなさそうだ。広場を囲うように立つ木々からはセミの大合唱。この声だけで体感温度が二度三度は高くなる。気がする。
身を起こして辺りを見回す。遠くから駆け寄ってくるシバイムも、そばでにこやかに微笑むクリナムくんもいない。
ああ、あたしは地球に戻ってきたのか、と改めて認識すると同時に、体がずぅんと重くなる。
これは無気力の重みだ。
なにも持たず、なにも考えず、なにも行わない者に罰として与えられる枷の重さなのだ。
あたしは空になった左右の両ポケットにミントを詰め込み始めた。
無気力に囚われぬよう抗う方法がこれしかない、とでもいうように。
額に浮かんだ汗が前髪を濡らし、玉となった水滴が地面を叩く。ジリジリと肌が焼かれ、全身が不快な湿気にじっとり蒸される。古木のごとく筋張った自分の身体に、これほどまでの水分がまだ残っていたとは驚きでもあり喜びでもあった。
夢中になって摘み続けたからか、思っていたよりも早く両方のポケットがパンパンになってしまった。
「よし!」
なんとなく声に出してみる。
そして、声の勢いのまま立ち上がった。
フッと意識が途切れる。
視線が跳ね上がり、空の蒼で視界が埋まった。
心地の良い浮遊感にこのまま身を委ねてもいいかな、という気分になってくる。その先の展開はきっと地面に頭を打ちつけて気絶、脱水、即身仏の流れだろう。
それでもかまわない、と思ってしまうのは、たぶんこの世界になんの未練も思い入れもないからだ。
これから先の人生において、生き続けることに執着したくなるほど価値あるものを手に入れることができるなんて思えない。
現実とも夢想とも確信が持てない不思議な冒険譚でこの世界の幕引きとする。一秒にも満たない時間の中でたくさんのことを考え終えたあたしは、カーテンコールの予定もない暗転に備えて静かに目を閉じた。
「おっと!」
男の人の声がした。どこか慌てた様子のその声は、あたしのすぐ後ろから発せられていた。
「大丈夫? 立ちくらみかな? 陽射しの強い日はちゃんと帽子を被らないと。それに、汗がすごい。熱中症かも」
おじさんではなかった。
大学生のお兄さんという感じの声が耳元に響く。
「木陰に移動しようか。ちょっと失礼」
足を掬われ、見ず知らずの男の人に抱きかかえられる格好になってしまった。いったい自分の身に何が起こっているのか。恐怖と羞恥の間でパニックに陥ってしまったあたしは目を開くことができない。
「身体が軽すぎる! この身長でこの体重は普通じゃないよ。ちゃんと食べてる?」
移動中の話は説教だった。
ロマンティックな会話を期待しているわけではないが、それにしても酷すぎないかと思わないでもない。
日光で透けて見えていた瞼の裏の赤い光が消えた。木陰に入ったのだ。
「まずはこれで汗を拭って」
顔の上にタオルを被せられる。フカフカで触り心地の良いタオルはユリに似た甘い香りがした。
「えっと⋯⋯誰ですか?」
タオルに顔を埋めながら、やっとの思いで絞り出した言葉は、なんとも間抜けな一言だった。
「僕? 僕は君に助けられた者だよ。会ってお礼が言いたくて追いかけてきたんだ」
「助け⋯⋯られ?」
彼の言葉が今ひとつピンとこない。タオルの向こうで彼が小さく笑った気がする。
「サマリタンbと言えば思い出してもらえるかな? 僕はあの星で妙なキノコに寄生されてたんだ。というか、僕がほぼ最初の犠牲者だね。アレを持ち込んだのが同じ学会に出席してたアホ学者だから」
彼の説明によれば、シバイムの発見を悔しく思った学者がどこからか拾ってきた、人頭大のクルミに似た未知の種子が発端だった。半ば化石化しており無害に思われた種子がいきなり胞子をばら撒き始めたのだという。出席者の呼吸により体内に侵入した胞子はすぐに菌糸を張り巡らせ、宿主をエサに急激に成長。惑星に生息するすべての有機生命体の生存を脅かす存在となったのである。
「しかし、ミントが弱点とはね。君がこの広場に迷い込んでくれなかったら、今ごろ僕はもうこの世にいないよ。僕だけじゃない。あの星に生きる何百億という生命が君の機転に救われたんだ」
やっぱりピンとこない。
ラノベの一節を力を込めて朗読されているようで現実味に欠けるのだ。
「あと、君は見返りを求めず救助に尽力した尊敬すべき素晴らしい人物として、名誉サマリタリアンの称号を与えられることが決まった。キノコを喰って増えたシバイムも有用性が認められ、危険キノコの番犬として多くの惑星で飼育されることになった。これも君の功績だ」
滔々と語る彼の顔が見たくなって、ほんの少しタオルをずらしてみる。自分の長い前髪とタオルの隙間から空が見えた。だが、人の姿はない。体を反っているのかと思い、あたしも顎を上げてみるも、やはり姿を捉えることはできなかった。このモゾモゾした動きは彼からも当然まる見えなわけで、軽い笑いを誘ったらしい。彼は声を上げてひとしきり笑うと、自分の姿が見えない理由を説明してくれた。
「簡単に言えば、人間の目の構造が原因だね。ほら、人間の目ってカメラと同じ単焦点レンズでしょ。それが二つ並ぶことによりステレオグラム的な立体と脳が認識するわけ。でも、三次元空間のいたるところに存在する次元の膜をどうもノイズとして処理しているらしく、君たちに認識することはできない」
「次元の膜?」
専門的になってきた話にあたしは警戒感を抱く。
「そう。無色透明の膜がいたるところにあるんだ。触ったところでなんの感触もない。陽炎みたいな存在だけどね。この膜は隣接する別次元宇宙の」
もうわからん。
難解な解説を子守唄のように聞き流し、あたしは深い眠りに落ちていった。
*
⋯⋯どれくらい寝ていただろうか。
起き抜けに聞こえた音は蝉時雨でも木々を吹き渡る風の音でもなかった。
「こーちゃん、スイカ出しっぱなしになってるけど、これ大丈夫? 茹で上がってない?」
呆れ果てたかのような叔母の声。
そういえば、今朝、出掛けしなにスイカがどうのという声を聞いた気がする。
あわてて飛び起きると玄関へ直行し、鍵を開ける。居候とはいえプライベートには配慮してもらえているのだ。
引き戸を開けるとバケツの水を地面に流す叔母の姿があった。スイカを茹でるための水でない以上、入れておく意味はない。
「じゃあ、まぁ、一応これを冷蔵庫に⋯⋯って、おや」
バケツに入れたスイカを玄関土間に運び込む叔母の表情が変わった。
「どうしたの、おめかししちゃって!」
そうだ。
今日は朝からずっとこの格好だった。
いつも変わり映えのしないシワまみれのTシャツとハーフパンツで過ごしているあたしがワンピースなぞを着込んでいるのだ。驚くのも無理はない。
「ちょっと散歩に出かけたもんで」
突然の質問に返す答えを用意していなかったあたしは無難な回答でやり過ごす。
「へぇー、そんな服を持ってたんだね。いいじゃん。似合ってるよ」
「ははは⋯⋯」
なんとも照れくさい。
晒し者になった気分である。
この手の話題が得意でないあたしは早急に切り替えを図った。
「ねぇ、使ってない瓶ってない? 麦茶を作るようなやつ」
「ああ、冷水ポットね。あるけどどうするの?」
「散歩の途中で見つけたからミント水を作ってみたくて」
ポケットの中からミントの葉を取り出して見せる。香りを嗅ぎたいのか顔を寄せてきた。店を閉めたばかりなのか、お酒の匂いがする。
「へぇー、ミントかぁ。うん、いい香り。じゃあ、お店に出す用のミント水も作ってもらおうかな」
「お店用の?」
「うん、夏だし。こういう爽やかなのが夏っぽいじゃん。結構たくさんある?」
「ミントの葉?」
「うん」
「あるある! いっぱいある!」
「少し分けてもらってもいい? モヒートを作ってみたくて」
「いいよいいよ、いっぱいつかって」
反対のポケットに詰め込んだミントを残らず叔母に渡す。
と、その時、雷鳴が轟いた。
「⋯⋯すごい音がしたね」
叔母が呟く。
「こーちゃんのおなか」
そういえば、朝からなにも食べていない。
宇宙戦艦の中ではローズティーを飲むタイミングでシバイムに丸呑みにされ、研究家モルさんの家でもお茶が出てくる前に帰路につかされた。つくづく食事に縁がなかったのだ。これも摂食障害で吐き続けてきた食べ物の呪いだろうか。
「ね、これからうちで食事にしようよ。ミントがこれだけあったらモヒートの試作も十分できそうだし、酔い潰れた場合を考えても、こーちゃんがいたら安心だし」
グイグイくる。
「⋯⋯試作したお酒を全部飲むつもり?」
「当たり前じゃん。味見もしてないお酒をお客さんに出せないよ!」
「まぁ、たしかに」
なんか上手いこと丸め込まれた気もするが、自分で料理を作れない以上、美味しい話であるのは間違いない。
そんなたわいもない会話が何故だか心に染み渡る。
取るに足らない小さな光だが、顔を上げて歩き続ければ、いつかは自分も世界も照らし出す大きな輝きになるかもしれない。その言葉を信じて、今は動き出そうと思う。
了




