第34話 パテと拳と店長の意地(プライド)
「……っ、かはっ! ……くうっ……!」
光が収まった本店のデッキで、俺は膝をつき、激しく咳き込んだ。
肺が焼けるようだ。数年ぶりに吸い込んだ「空気」は、鉄錆とオイルの臭いが混じり合い、ひどく喉を刺激する。
重力が、鉛のように体にのしかかる。TEN-CHOのアバターだった頃には感じなかった、自身の肉体の重み。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が巡る音が、耳鳴りのようにうるさい。
これが、「生きている」という感覚か。
「……仙太、さん……?」
恐る恐る近づいてくるミアの声が、震えている。
俺は顔を上げ、彼女を見た。視界が少し滲んでいる。涙ではない。生身の目が、埃っぽい空気にまだ慣れていないのだ。
『……ああ。……お待たせ、ミア。……やっと、君と同じ場所に立てた』
俺の声は、スピーカーを通した合成音声ではない。喉帯が震え、空気を震わせて出る、生身の人間の声だ。
俺は立ち上がろうとして、よろけた。足に力が入らない。全知全能のネットワーク接続が切断された今、俺はただの、運動不足の中年店長に戻っていた。
「ギャハハハハ! 何だそれは! 神の力を捨てて、そんな貧弱な肉体に戻っただと!?」
旗艦『デストラクター号』の艦橋で、鉄のギルドの首領バッカスが狂ったように笑う。
彼の背後では、巨大なドリルが再び回転を始めていた。その風圧だけで、生身の俺の皮膚が切れそうになる。熱風が顔を焼き、恐怖で足がすくむ。
怖い。
TEN-CHOの時は「データ」でしかなかった死の恐怖が、今はリアルな「痛み」の予感として迫ってくる。
「バカな奴だ! そのまま消え失せろ、この虫ケラが!」
バッカスがドリルを突き出す。俺は反射的に腕で顔を覆った。防げるはずがない。直撃すれば、俺は肉片になる。
だが、その瞬間。
「させないわよ! 『風の障壁』、最大展開!」
ミアの悲鳴のような詠唱と共に、俺の前に暴風の壁が出現し、ドリルの熱風を逸らした。
「店長、伏せて! ……ルンボ、右舷を支えて! レヴィン、敵の動力伝達経路の解析を!」
アウラが叫びながら、俺の体を抱き寄せて物陰に引きずり込む。彼女の腕の温かさ、髪から香るオイルと火薬の匂い。それらすべてが、俺が人間であることの証明だった。
「……無茶よ、店長! カタログも使えない、体も動かないで、どうやって戦うのよ!」
俺は、アウラの肩を借りて体を起こし、乱れた呼吸を整えた。
右手に握りしめた銀色のケース『アーク・パテ』と、左手の古びたプラスドライバーを見つめる。
『……アウラ。俺は確かに、全能の力は失った。……だがな、ホームセンターの店長は、一人で仕事をしてるわけじゃない。……優秀な「従業員」たちがいるから、店が回るんだ』
俺は、迫りくる巨大ドリルを指差した。
『……あいつの弱点は分かってる。……本来の安全装置をバイパスして、無理やり出力を上げている「違法改造回路」だ。……場所は、ドリルの基部。……だが、今の俺の足じゃ、あそこまでたどり着けない』
俺の意図を察した仲間たちが、一斉に動き出した。
「……了解した。店長の『足』になればいいのね! ルンボ!」
「ギギ! テン、チョウ、ノル!」
ルンボが巨大な手を差し出す。俺はその掌に飛び乗った。
「レヴィン! 解析結果は!」
「……ドリルの回転数が落ちる瞬間がある! 冷却サイクルに入る、わずか2秒の隙だ!」
「ミア、風で道を作って! 私が合図したら、ルンボ、全力で店長を投げなさい!」
バッカスのドリルが唸りを上げ、ミアの風の障壁を削り取っていく。
熱風が吹き荒れる中、俺たちは一丸となって「たった一人の店長」を敵の中枢へと送り込む準備を整えた。
「今よ! 行けぇぇぇっ!」
アウラの合図と共に、ミアの追い風を受けたルンボが、俺を砲弾のように投げ放った。
空中でバランスを崩しかけるが、人間としての平衡感覚を必死に呼び覚ます。
目の前には、回転が遅くなった巨大なドリルの基部。剥き出しになった配線が、赤くスパークしているのが見える。
「なっ!? 自ら飛び込んできたか! 貴様ぁぁ!」
バッカスが甲板に飛び出し、俺を迎撃しようと巨大なモンキーレンチを振り上げた。
俺は、空中で体をひねり、それを紙一重でかわす。頬を風が切り裂き、血が滲む。痛い。だが、その痛みが意識を鮮明にする。
俺はドリルの基部に着地し、転がりながら衝撃を殺した。
目の前には、無理な改造で焼き切れそうな制御盤がある。
「やめろ! そこに触れるな! それは俺の力だ! 俺の最強の武器だ!」
バッカスが血相を変えて掴みかかってくる。その怪力に、生身の俺は簡単に吹き飛ばされた。甲板に背中を打ち付け、息が詰まる。
だが、俺は立ち上がった。ふらつく足で、左手のドライバーを構える。
『……バッカス。お前は大きな勘違いをしている』
俺は血の混じった唾を吐き捨て、彼を睨みつけた。
『道具ってのはな、「所有」するもんじゃない。「管理」するもんだ。……お前みたいに、メンテナンスもせず、安全装置も外して、ただ力を振り回すだけの奴に、道具を使う資格はない!』
「黙れぇぇ! 力こそが全てだ! 奪う者こそが勝者だ!」
バッカスが再びレンチを振り下ろす。
だが、俺はそれを避けない。彼の一撃を受ける直前、俺は懐から取り出した『アーク・パテ』のケースを、ドライバーの柄で叩き割った。
中から溢れ出したのは、虹色に輝く、粘土のような物質。
俺はそれを、素手で掴み取った。
『……道具が泣いてるぜ。……こんな使われ方は、したくないってな!』
俺はバッカスの攻撃を、左腕を犠牲にして受け止めた。骨が軋む嫌な音がする。激痛が走る。
だが、その隙に、俺は右手のパテを、制御盤の剥き出しになった回路に叩きつけた。
『【世界再構築パテ『アーク』】、充填! ……対象、「古代の違法改造ドリル」!』
虹色のパテが、生き物のように回路に吸い込まれていく。
パテは、破壊するのではない。
それは、数万年前の「正しい設計図」に基づいて、対象を「あるべき姿」へと強制的に修復する。
「な、何だ!? ドリルが、止まらな……いや、逆だ! 安全装置が……勝手に作動している!?」
バッカスの悲鳴。
パテは瞬時に硬化し、違法なバイパス回路を完全に封鎖した。そして、本来の安全プログラムが再起動し、緊急停止信号を発したのだ。
ギギギギギ……ガォン!!
巨大なドリルが、断末魔のような音を立てて急停止した。
その反動で、旗艦『デストラクター号』の船体がきしみ、継ぎ目から崩壊が始まる。
「俺の……最強の武器が……。たった一握りの粘土に……負けたというのか……」
バッカスが呆然と膝をつく。
俺は、折れたかもしれない左腕を抑えながら、彼を見下ろした。
『……言っただろう。俺は「直し」に来たんだ。……お前の歪んだ根性も、一緒にな』
崩壊する敵艦から、ルンボが俺を救出し、本店の安全なエリアへと運んでくれた。
俺は床に大の字になり、荒い息を吐いた。全身が痛い。左腕は感覚がない。
だが、生きている。
「……仙太さん!」
ミアが駆け寄ってくる。彼女は俺のボロボロになった姿を見て、悲鳴を上げそうになりながらも、俺の体に触れた。
「……温かい。……本当に、人間なんだね」
ミアの目から、大粒の涙が溢れ出す。
彼女は、もう遠慮しなかった。俺の胸に飛び込み、強く、強く抱きしめてきた。
「……よかった。……本当によかった……! おかえりなさい、仙太さん!」
俺は、動く右腕で、彼女の背中に手を回した。
初めて感じる、他人の体温。心臓の鼓動。髪の柔らかさ。
ああ、そうだ。人間って、こんなに温かい生き物だったんだ。
『……ただいま、ミア』
俺の「人間としての初仕事」は、全身打撲と左腕骨折という、散々な結果に終わった。
だが、その痛みさえも、今の俺には愛おしかった。
本店の天井には、数万年ぶりに灯った照明が、まるで新しい店長の誕生を祝福するように、優しく輝いていた。
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