第3話 氷の皇女
皇帝 夕叶の治世は、穏やかだった。
帝国は広く、かつての戦火は遠い昔の物語となり、民は明日の食を疑わずに眠ることができた。歴史書はこの時代を「黄金の安定期」と記すだろう。しかし、その光り輝く帝国の最奥、王城のさらに奥深くにある隔離された訓練場では、ひとつの“例外”が息を潜めていた。
第二皇女、希藍。
彼女は、氷を生む。
その事実を知る者は、皇帝 夕叶ただ一人だった。
「今日は、ここまで」
朝靄の残る冷え切った訓練場で、夕叶は静かに告げた。
床一面が、鏡のように滑らかな氷に覆われている。柱も、壁も、そして吸い込む空気すらも、肺を刺すような冷気に満ちていた。
希藍は、肩で息をしながら、小さく白い息を吐いた。
「……止められました、お母様」
それは誇らしさを含んだ言葉ではなく、ただの事実の確認だった。
「ええ。十分よ」
夕叶は頷く。だが、その瞳はいつになく厳しかった。
希藍の魔力は、姉である第一皇女、嶺月とは決定的に異なっていた。
彼女に課せられた訓練は、力を出すことよりも、むしろ「出さないこと」に重点が置かれていた。その力が、あまりにも強すぎるからだ。
希藍は、あらゆるものを凍らせることができる。しかし、彼女自身の手でそれを「溶かす」ことができない。一度生まれた氷は、夕叶か、あるいは嶺月の持つ強力な火属性の魔力がなければ、決して消えることはない。
それは「武器」として完成される以前に、制御不能な「災厄」だった。
「覚えておきなさい、希藍」
夕叶は、娘の前に膝をつき、その冷え切った小さな手を包み込んだ。
「この力は、誇るためのものじゃない。……隠すためのものよ」
希藍は、母の瞳の奥にある、言いようのない不安の色を読み取った。
「はい」
彼女は短く頷いた。なぜ隠さなければならないのか、その本当の理由は聞かなかった。ただ、母がそう望むのであれば、それが正しいのだと信じるしかなかった。
訓練が終われば、彼女は“普通の皇女”という仮面を被る。
後継者教育の授業には、体調不良を理由に部分的にしか参加しない。政治の議論は聞くが、決して自ら発言を求められることはない。剣術も、魔力訓練も、表向きは「平均より少し上」という評価で固定されていた。
そのため、宮廷の者たちは希藍をこう認識している。
――優しくて、控えめで、少し体が弱いが妹思いの、影の薄い皇女。
その認識は、半分は正しかった。
希藍は、午後になると決まって庭園へ出た。そこには、まだ幼い妹たちが待っているからだ。
「おねえさま!」
悠羽と紗夜が、屈託のない笑顔で駆け寄ってきて、無遠慮に希藍に抱きついた。
「二人とも、元気ね」
希藍は笑う。その笑顔には、一点の曇りもなかった。
庭に色とりどりの花を並べて、お茶を飲み、他愛のない話に興じる。この時間だけは、重苦しい魔力の訓練も、血筋の宿命も、皇位継承の重圧も、すべて忘れることができた。
ふと、希藍は城の最も高い場所にそびえる塔を見上げた。
そこには、第一皇女、嶺月がいる。
嶺月は、次期皇帝としての期待を一身に背負い、今日も厳しい訓練と公務に明け暮れているはずだ。
希藍は何も言わず、ただ静かに視線を足元の花へと戻した。
彼女の胸の奥では、あの冷たい氷が、今も静かに眠っている。
夕暮れ時、庭園に影が伸びる。
希藍は、妹たちの柔らかな手の温もりを感じながら、心の中で自分に言い聞かせた。
(私は、このままでいい。誰にも知られず、ただの希藍として、この子たちの隣にいられれば)
しかし、運命の歯車は、彼女の願いとは裏腹に、ゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。
帝国の安定という薄氷の下で、新たな嵐の予感が、静かに、けれど確かに芽生えていた。




