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第2話 神話

ルナリア王国の歴史は、夕叶ゆかという一人の少女の登場によって、文字通り塗り替えられた。


かつて、この大地は「神に見捨てられた地」と呼ばれていた。二年に及ぶ大干ばつ、止まない戦火、そして蔓延する疫病。人々は明日を信じることをやめ、ただ静かに滅びを待っていた。

しかし、夕叶ゆかが生まれた夜に降った雨は、単なる気象現象ではなかった。それは、絶望に沈んでいた民の心に灯った、初めての希望の光だった。


夕叶ゆかが十歳になる頃には、彼女の存在はすでに伝説の域に達していた。

彼女が歩けば、枯れた大地から芽が吹き、彼女が祈れば、荒れ狂う嵐も静まる。その奇跡を目の当たりにした人々は、彼女を「聖女」と呼び、神の代弁者として崇めた。

だが、夕叶ゆか自身は、その崇拝をどこか冷めた目で見つめていた。

「私は、神ではありません。ただ、この大地が、人々が、苦しんでいるのを見ていられないだけです」

彼女は、王城の豪華な自室に閉じこもることを拒み、自ら戦地や被災地へと足を運んだ。

当時のルナリア王国は、隣国との国境紛争に明け暮れていた。


夕叶ゆかは、父である国王に同行し、初めて最前線のキャンプを訪れた。

そこにあったのは、泥にまみれ、血を流し、絶望的な瞳をした兵士たちの姿だった。

夕叶ゆかは、何も言わずに負傷兵の元へ歩み寄った。

「……姫様、近寄ってはなりません。ここは死の臭いが充満しています」

将軍の一人が制止したが、夕叶ゆかはそれを無視して、瀕死の兵士の傷口にそっと手をかざした。

淡い、真珠のような光が彼女の掌から溢れ出した。

兵士の深い傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように塞がっていく。苦痛に歪んでいた表情が和らぎ、彼は信じられないものを見るような目で夕叶を見上げた。

「……痛みが、消えた……」

その場にいた全員が、息を呑んだ。

夕叶は、一人、また一人と、兵士たちの傷を癒していった。その数は、その日だけで数百人に及んだという。

彼女の魔力は、底知れなかった。どれほど力を使っても、その瞳に宿る光が衰えることはなかった。


やがて、夕叶ゆかの力は戦いそのものを終わらせるために使われるようになった。

彼女が戦場に立てば、敵軍の武器は錆びつき、戦意は喪失した。彼女が放つ圧倒的な「光」の前では、憎しみや怒りさえもが無意味なものに感じられたからだ。

「戦う必要はありません。私たちは、共に生きることができるはずです」

彼女の言葉は、剣よりも鋭く、盾よりも強固に、人々の心を動かした。



数年後、夕叶ゆかは父から王位を継承し、ルナリア王国と、従えた他国を統合し、「セレスティア帝国」を建国した。

それは、単なる名称の変更ではなかった。

彼女は、魔力を持つ者と持たざる者が共生し、血筋ではなく能力と志によって国を支える、全く新しい統治システムを構築した。

特に、彼女は建国以前から根強く残っていた男尊女卑の制度を廃止し、皇位継承権を女性皇族に限定した。

「この聖女の血は、大地を潤し、命を育む力。その力は、子を産み、血を繋ぐ女性にこそ、最も純粋に受け継がれる」

彼女はそう宣言し、この帝国を「聖女の血」によって永遠に守り抜くという、揺るぎない決意を国是とした。

彼女が定めた新しい法は、弱者を守り、強者を律するための、帝国の礎となった。

夕叶ゆかは、自らの血を引く子供たちにも、その志を説いた。

「私たちの血は、支配するためのものではありません。この大地を潤し、人々の涙を拭うためのものです」

彼女の言葉は、帝国の精神的支柱となった。


しかし、神話には常に影が伴う。

夕叶ゆかが築き上げた完璧な平和は、彼女という圧倒的な個人の力に依存していた。

彼女が老い、その力が衰え始めた時、帝国はどうなるのか。

あるいは、彼女の血を引く者たちが、その重すぎる宿命に耐えきれなくなった時、何が起きるのか。

夕叶ゆかは、夜のバルコニーから、静かに雨が降る帝都を見下ろしていた。

「……神話は、いつか終わる。けれど、人の営みは続いていく」

彼女は、自分の掌を見つめた。かつて数え切れないほどの命を救ったその手は、今、わずかに震えていた。

彼女は知っていた。自分が始めたこの「神話」が、いつか自分の愛する子供たちを苦しめることになるかもしれないということを。

それでも、彼女は歩みを止めなかった。

新たな物語の種は、すでにこの雨の中に蒔かれているのだから。

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