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第1話 雨を生んだ姫

生まれた日のことを、彼女自身は覚えていない。

だが、周囲の人間は何度も語った。まるで祈りのように、あるいは畏れの告白のように。

「あの日、空が割れたのだ」と。


ルナリア王国。かつてその地は、絶望の淵に立たされていた。二年間、一滴の雨も降らず、大地はひび割れ、川は枯れ果てた。人々は飢え、隣国との争いは激化し、世界はゆっくりと死に向かっていた。神への祈りは虚しく空に消え、誰もが「終わり」を予感していた。

そんな夜だった。王城の奥深く、灯りを落とした一室で、一人の女児が産声を上げた。

その瞬間、厚く閉ざされていた雲が音もなく集まり始め、堰を切ったように雨が落ちてきた。乾ききった大地が音を立てて水を吸い込み、人々は濡れることも忘れて空を仰いだ。

「姫が、雨を連れてきた」

誰かがそう呟いたのを皮切りに、その言葉は瞬く間に国中に広がっていった。


姫の名は、夕叶ゆか

彼女は、何も知らずに育った。乳母の腕の中で眠り、庭で花を追い、王妃のドレスの裾を引っ張って叱られる。そんな、どこにでもある幸せな光景の中に彼女はいた。しかし、彼女の周囲には常に、奇跡を祝福する声と同じだけの、重苦しい沈黙と視線が存在していた。


変化が訪れたのは、三歳の冬だった。

ある日、夕叶ゆかは庭で転び、膝を深く擦りむいた。侍女が悲鳴を上げて慌てて駆け寄ろうとした、その時だった。夕叶が傷口にそっと手をかざすと、淡い光が溢れ出し、次の瞬間には傷跡一つ残らず消えていた。

それだけではなかった。熱に浮かされていた侍女の額に夕叶が触れれば、瞬時に熱は引き、枯れかけていた庭の木々に彼女が笑いかければ、季節外れの新芽が芽吹いた。

「……治っている」

誰かの震える声が、静まり返った部屋に響いた。

夕叶自身は、自分が何をしたのか理解していなかった。ただ、苦しそうな人に触れると、その人が楽になる。悲しんでいる花に触れると、その花が元気になる。それを、無意識に知っているだけだった。

やがて、雨の日が増えた。

夕叶ゆかが笑えば雲が流れ、柔らかな陽光が差し込む。夕叶が泣けば天候が荒れ、激しい雷雨が大地を叩く。人々は、彼女を「聖女」と呼び始めた。

王国には三人の王子がいた。正統な男子の後継者が揃って存在していたにもかかわらず、民の視線は、ひとりの姫へと集まっていった。期待、崇拝、そして得体の知れない恐怖。それらが混ざり合い、王城の空気を日増しに重くしていった。


五歳になる頃には、夕叶ゆかはすでに宮廷作法を教える側に回っていた。歩き方、扇の扱い、沈黙の間。家庭教師が言葉を選びながら訂正を入れるよりも先に、彼女自身が自分の所作の乱れに気づき、直していた。その姿は美しく、けれどどこか儚い。触れれば壊れてしまいそうだと、周囲は勝手に思い込み、同時に彼女から目を離せなくなった。「お姫様」という言葉は、彼女のためにあるようだった。


十歳になったとき、彼女の居場所は学習室だけではなくなった。

地図の上で国境線をなぞり、過去の戦史を読み、条約文の一文一文を問い直す。地理、歴史、政治。それらは彼女にとって“学ぶもの”ではなく、最初から自分の中に備わっている“使うもの”として収まっていった。

評議の席に同席することに、最初は誰もが違和感を覚えた。しかし、彼女の一言で議論の流れが変わることが、次第に増えていった。

「その国は、三年前にも同じ理由で裏切っています。今、同盟を結ぶのは危険です」

「この道を封じれば、敵の補給は五日で止まります。力で押す必要はありません」

静かな、鈴を転がすような声だった。けれど、その場にいるどの将軍よりも、どの文官よりも、彼女は戦いと統治の本質を理解していた。


やがて彼女は、父である国王の隣に立つようになった。

それは、戦地へ向かうためだった。

王城の華やかな世界とは対極にある、血と土の匂い、鎧の擦れる音、馬の嘶き。死が隣り合わせにある戦場。それでも彼女は怯まなかった。地図で見た線が、現実の地形として立ち上がるのを、ただ静かに、冷徹なまでの瞳で見つめていた。

ある夜、前線の天幕の外で、夕叶ゆかは一人、夜空を見上げた。

遠くで兵士たちの話し声と、焚き火のはぜる音が聞こえる。彼女の手は、今日、何十人もの負傷兵を癒した。その温もりはまだ掌に残っている。

(私は、王になるために生まれたのだろうか)

その問いに、答える者はいなかった。ただ、彼女が生まれた夜と同じような、静かな雨が降り始め、彼女の頬を優しく濡らした。彼女は「聖女」であり、同時に、一人の少女だった。しかし、運命は彼女に、少女でいることを許さなかった。

雨は、彼女の涙を隠すように、降り続いていた。

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