第九章:英雄たちの黄昏-4
第九章:英雄たちの黄昏
第176話:白帝城の託孤
夷陵での、悪夢のような大敗。
劉備は、全てを失った。数十万の兵、多くの有能な将、そして、何よりも、漢室復興という、自らの大義を、支えてくれていた、人々の信頼を。
彼は、失意のうちに、蜀の国境にある、白帝城へと、逃げ込んだ。そして、成都へ戻ることも、人々と顔を合わせることもできず、ただ、病の床に、伏すばかりとなった。
その心労は、彼の体を、急速に蝕んでいった。
自らの、死期を悟った劉備は、成都から、丞相・諸葛亮を、急ぎ、呼び寄せた。
そして、彼は、病の床で、諸葛亮の手を取り、涙ながらに、後事を、託し始めた。
「孔明よ。わしの、才覚は、そなたの、十倍も、及ばなかった。そして、わしの、愚かな行いが、この国を、危機に陥れてしまった。誠に、すまぬ…」
「陛下、何を、弱気なことを…」
諸葛亮もまた、涙をこらえきれなかった。
「聞いてくれ、孔明。我が息子・劉禅は、まだ、幼い。もし、彼が、皇帝としての、器があるならば、そなたが、全力で、彼を補佐してやってほしい」
そして、劉備は、歴史に残る、衝撃的な言葉を、続けた。
「だが、もし、彼が、皇帝の器にあらず、と、そなたが判断したのであれば…」
「…そなた自身が、この蜀の国の、主となれ」
その、あまりにも、誠実で、そして、無私な遺言。
諸葛亮は、驚きのあまり、言葉を失った。そして、床に額をこすりつけ、号泣した。
「陛下! この諸葛孔明、我が身が、肝脳地にまみれるとも、必ずや、劉禅様をお支えし、漢室復興の大業を、成し遂げてみせまする!」
その、絶対的な忠誠の言葉を聞き、劉備は、満足げに、静かに、頷いた。
これが、後の世に、「白帝城の託孤」として語り継がれる、君臣の、美しくも、悲しい、別れの場面だった。
第177話:龍、天に還る
諸葛亮に、後事を託した後、劉備は、静かに、その波乱の生涯を、振り返っていた。
筵を織って、生計を立てていた、貧しい青年時代。
関羽、張飛という、かけがえのない義兄弟と出会い、桃園で、天下を誓った日。
各地を流浪し、何度も、敗北の苦汁を、味わった日々。
そして、孔明と出会い、ついに、蜀という、自らの国を、手に入れた、栄光の時。
(わしの、人生も、悪くはなかった…)
彼の脳裏に、今は亡き、二人の義兄弟の顔が、浮かんだ。
(雲長…翼徳…すまぬ。今、わしも、そちらへ、行くぞ…)
建安二十八年(※物語上の年号)、夏。
蜀漢の、初代皇帝・昭烈帝、劉備玄徳、白帝城にて、崩御。享年六十三。
仁徳をもって、乱世を駆け抜け、多くの人々から、慕われた英雄。その、あまりにも、大きな星が、また一つ、西の空から、消え去った。
その報せは、長安の、劉星の元にも、すぐに、届けられた。
劉星は、その報を聞き、一人、自室で、酒を酌み交わした。
その手には、二つの杯があった。
一つは、自分自身の杯。
そして、もう一つは、今は亡き、好敵手のための、杯だった。
(劉備玄徳…)
劉星は、心の中で、語りかけた。
夏侯淵殿の仇。許すことは、できない。
だが、同時に、あなたは、一つの、時代を築いた、紛れもない、偉大な英雄だった。
あなたの、その、あまりにも人間的な、仁徳と、そして、弱さ。
それを、俺は、決して、忘れることはないだろう。
劉星は、空の杯に、酒を注ぐと、それを、西の、蜀の方向に向かって、静かに、地面に、こぼした。
さらば、仁徳の龍よ。
いずれ、天上で、まみえることがあれば、その時は、ゆっくりと、語り合おうぞ。
敵としてではなく、ただ、同じ時代を、必死に生きた、一人の男として。
第178話:魏の動揺
劉備の死。その報せは、魏の国にも、大きな、動揺をもたらした。
皇帝・曹丕は、その報を聞き、手を叩いて、喜んだ。
「好機! まさに、天が我に与えた、最大の好機だ! 宿敵・劉備は死に、蜀は、幼主が立ったばかり。今こそ、蜀を攻め、一気に、天下を統一する時だ!」
曹丕は、すぐさま、大軍を編成し、蜀討伐の、遠征を、計画した。
だが、その計画に、待ったをかけた者がいた。
大将軍・司馬懿だった。
「陛下、お待ちください。今、蜀を攻めるのは、得策ではございません」
「なぜだ、仲達! これほどの好機はないではないか!」
「いえ。蜀には、まだ、諸葛亮がおります」
司馬懿は、冷静に言った。
「諸葛亮は、劉備の死を、予期していたはず。彼は、必ずや、国境の守りを固め、我らの侵攻に、備えているでしょう。今、攻め込んでも、返り討ちに遭うのが、関の山です」
さらに、司馬懿は、もう一つの、懸念を口にした。
「それに、陛下。我らが、蜀を攻めて、もし、戦が、長引くようなことになれば…」
彼の視線が、西の、長安の方角へと、向けられた。
「…西の狼が、黙ってはおりますまい」
劉星飛翼。
その名は、今の魏にとって、もはや、蜀の諸葛亮と、同等か、あるいは、それ以上に、厄介で、そして、恐ろしい、存在となっていた。
彼の治める秦国は、豊かで、兵も強い。そして、何より、天狼騎兵隊の力は、未知数だ。
もし、魏が蜀と戦って、疲弊したところを、背後から、秦に突かれでもしたら…。
曹丕は、司馬懿の言葉に、ぐうの音も出なかった。
彼は、弟である劉星への、憎しみと、そして、その底知れない力への、恐怖を、改めて、感じていた。
結局、曹丕は、蜀への遠征を、断念せざるを得なかった。
天下は、魏・蜀・呉、そして秦という、四つの勢力が、互いに、牽制し合い、睨み合う、奇妙な、そして、危険な、均衡状態へと、突入していった。
第179話:静かなる嵐
劉備の死から、数年。
天下は、まるで、嘘のような、静けさに、包まれていた。
大きな戦は、起こらなかった。
四つの国は、それぞれ、内政に力を注ぎ、国力の回復と、増強に、努めていた。
だが、それは、嵐の前の、静けさに過ぎなかった。
水面下では、それぞれの国が、次なる戦いに向けて、激しい、情報戦と、外交戦を、繰り広げていた。
長安にいる劉星の元にも、魏、蜀、呉の、三国から、ひっきりなしに、使者が訪れた。
魏の曹丕は、「共に、蜀を討とう」と、甘い言葉で、誘いをかけてくる。
蜀の諸葛亮は、「漢室復興のため、共に、逆賊・魏を討とう」と、大義名分を、掲げてくる。
呉の孫権は、「三国の平和のため、中立を守ろう」と、現実的な、提案をしてくる。
劉星は、その全ての誘いを、巧みに、かわし続けた。
彼は、張遼や、そして、妻の甄氏の助言を受けながら、絶妙な、バランス感覚で、三国との、外交を、こなしていった。
彼は、どの国とも、決定的に、敵対することはなかった。だが、同時に、どの国とも、心を許して、手を組むこともなかった。
「我らは、狼だ。群れることはない。ただ、我らの、縄張りを守るだけだ」
彼の、その、孤高で、そして、したたかな、外交方針によって、秦国は、三国の争いの渦から、巧みに、距離を置き、その国力を、飛躍的に、高めていくことができた。
民は、平和を謳歌し、国は、富み、兵は、ますます、精強になっていった。
だが、劉星は、知っていた。
この、奇跡のような、平和な日々が、永遠に続くわけではないことを。
特に、蜀の、諸葛亮。あの男だけは、決して、今のままで、終わるはずがない。
先帝・劉備の遺志を継ぎ、彼は、必ずや、再び、動き出す。
その時こそ、自分と、あの男との、本当の戦いが、始まるのだ、と。
劉星は、来るべき日に備え、ただ、静かに、その牙を、研ぎ続けていた。
第180話(第九章最終話):時代の転換
英雄たちが、去った。
曹操が死に、関羽が死に、そして、劉備もまた、世を去った。
かつて、中原を、その武勇と、知略と、そして、野心で、熱く、燃え上がらせた、第一世代の英雄たちの時代は、完全に、終わりを告げた。
残されたのは、彼らの、跡を継いだ、第二世代の者たち。
魏の皇帝・曹丕。
蜀の丞相・諸葛亮。
呉の主・孫権。
そして、西の狼王・劉星。
彼らは、父や、主君とは、違う。
彼らは、ゼロから、何かを、創造した者たちではない。
彼らは皆、偉大なる、先人たちの遺産を、受け継ぎ、それを、どう守り、どう発展させていくか、という、重い、重い、宿命を、背負わされた者たちだった。
時代は、確実に、移り変わっていた。
個人の、カリスマや、英雄的な武勇が、天下を動かした時代は、終わり。
これからは、国の、総合的な力。すなわち、経済力、外交力、そして、組織力が、勝敗を決する、新たな時代が、始まろうとしていた。
劉星は、その時代の、大きな、転換点を、肌で、感じていた。
そして、その新しい時代で、自分は、どう、生きるべきなのか。
父のように、覇道を突き進むのか。
劉備のように、仁義を掲げるのか。
あるいは、そのどちらでもない、全く新しい、第三の道を、切り拓くのか。
その答えは、まだ、見つかっていない。
だが、彼は、恐れてはいなかった。
父が死に、兄が死に、多くの仲間が、死んでいった。
自分は、その全ての、死の上に、立っている。
その死を、無駄にしないためにも、自分は、進み続けなければならない。
第九章は、英雄たちの、黄昏の時代が、終わりを告げ、そして、劉星が、新たな時代の、荒波の中へと、一人、漕ぎ出していく、その決意の姿を描いて、幕を下ろした。
彼の、本当の、王としての、戦いは、ここから、始まる。