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第八章:漢中攻防と三国鼎立-2

第八章:漢中攻防と三国鼎立

第146話:龍の逆襲

曹操が、主力軍を率いて漢中を去った。

その報せは、蜀の劉備にとって、まさに天の恵みだった。

「天は、我に味方せり!」

劉備は、好機を逃さなかった。彼は、蜀の地を完全に掌握すると、すぐさま、漢中奪還のための、大軍を編成した。

その軍勢の総大将は、劉備自身。

そして、軍師として、その作戦の全てを立案したのは、法正ほうせい、字は孝直こうちょくだった。彼は、元は劉璋に仕えていたが、その才能を劉備に見出され、今や、諸葛亮と並ぶ、蜀の頭脳となっていた。法正の策略は、奇策に満ち、敵の意表を突くことを得意としていた。

さらに、その軍勢には、張飛、黄忠こうちゅう、趙雲といった、一騎当千の猛将たちが、顔を揃えていた。

まさに、蜀の国の、総力を挙げた出陣だった。

建安二十二年(217年)、劉備軍は、漢中の陽平関へと、怒涛の如く攻め寄せた。

曹操軍と劉備軍による、漢中の地の覇権を巡る、本格的な総力戦の火蓋が、ついに切って落とされたのだ。

長安にいた劉星は、その報せを聞き、「やはり、来たか…」と、静かに呟いた。

父の油断が、最悪の事態を招いたのだ。

彼は、すぐさま、西方の全軍に、動員の準備を命じた。そして、自らも、天狼騎兵隊を率いて、漢中を守る夏侯淵の、後方支援へと向かう。

だが、劉備軍の勢いは、劉星の想像を、遥かに超えていた。

法正の巧みな采配の前で、曹操軍は、各地で敗北を重ねていく。

漢中の戦いは、初戦から、曹操軍にとって、極めて厳しいものとなった。

第147話:法正の計略

漢中を守る総大将、夏侯淵は、曹操の一族であり、勇猛果敢な武将として、その名を馳せていた。だが、彼には、一つの大きな弱点があった。猪突猛進で、緻密な策略には、疎いところがあったのだ。

蜀の軍師・法正は、その夏侯淵の性格的弱点を、まるで掌の上で転がすかのように、巧みに突いてきた。

法正は、まず、漢中の重要拠点である、広石こうせきに、陽動の部隊を差し向けた。そして、「劉備軍、広石を包囲!」という、偽の情報を、夏侯淵の元に流させた。

「何だと! 生意気な!」

功を焦る夏侯淵は、まんまとその挑発に乗ってしまった。彼は、自ら手勢を率いて、本陣を離れ、広石の救援へと向かってしまう。

「夏侯淵殿! お待ちください! それは、敵の罠です!」

漢中の守備を共に任されていた、冷静な将軍・張郃が、必死に彼を止めた。

「敵の狙いは、あなた様を、本陣からおびき出すことにあります! どうか、ご軽挙なさいますな!」

長安の劉星からも、同じ内容の、警告の書状が、何度も届けられていた。

『夏侯淵将軍。敵の軍師は、人の心理を読むことに長けております。決して、挑発に乗ってはなりませぬ。本陣を、固くお守りください』

だが、夏侯淵は、それらの忠告に、耳を貸さなかった。

「何を臆病なことを申すか! 敵は、目の前にいるのだ! この好機を逃せば、武将の名が廃るわ!」

彼は、張郃に本陣の守りを任せると、意気揚々と、敵の罠の中へと、自ら飛び込んでいってしまった。

その頃、法正は、高台の上から、夏侯淵の動きを、冷たく見下ろしていた。

全ては、彼の筋書き通りだった。

彼は、夏侯淵をおびき寄せた広石とは、全く別の場所、定軍山ていぐんざんという山に、本当の主力部隊を、潜ませていた。

そして、その部隊を率いるのは、蜀軍の中でも、一、二を争う猛将。老いてますます盛んな、弓の名手・黄忠だった。

罠は、完璧に仕掛けられた。

あとは、獲物が、その首を差し出すのを、待つばかりだった。

第148話:定軍山の悲劇

広石に到着した夏侯淵は、そこにいる敵が、ごく少数の陽動部隊であることに、ようやく気づいた。

「しまった! 罠か!」

彼が、慌てて引き返そうとした、その時だった。

法正の、本当の狙いが、牙を剥いた。

夏侯淵の本隊が手薄になった、定軍山の麓にある、曹操軍の陣地に対し、蜀軍の総攻撃が開始されたのだ。

そして、その攻撃の先頭に立っていたのは、劉備自身だった。

「本陣が、危うい!」

夏侯淵は、自らの判断ミスに、愕然とした。彼は、残った手勢を率いて、急いで、定軍山へと引き返した。

だが、それこそが、法正が仕掛けた、最後の罠だった。

夏侯淵が、定軍山の麓にたどり着き、陣地の修復を、自ら指揮していた、まさにその時。

山の頂上から、法正の合図と共に、一つの部隊が、一気に駆け下りてきた。

その部隊を率いていたのは、老将・黄忠。

「時は、来た! 全員、俺に続け!」

高所からの、圧倒的な勢いを伴った、完璧なタイミングでの奇襲だった。

不意を突かれた夏侯淵の部隊は、なすすべもなかった。

「な、何だ!?」

夏侯淵は、驚いて、顔を上げた。

その彼の目の前に、黄忠が、馬を駆って迫っていた。

「曹操軍の総大将、夏侯淵! その首、この黄忠が、貰い受けた!」

黄忠の大刀が、閃光のように煌めいた。

次の瞬間、夏侯淵の首は、胴体から離れ、高く、宙を舞った。

曹操軍の、漢中方面における総大将。曹操の、最も信頼する親族の一人。そのあまりにも、呆気ない最期だった。

総大将を失った曹操軍は、完全に崩壊した。兵士たちは、武器を捨て、我先にと逃げ出していく。

定軍山の戦いは、蜀軍の、完璧なまでの、圧勝に終わった。

そして、この勝利は、漢中全体の、そして、天下の勢力図を、大きく塗り替える、決定的な一撃となったのである。

第149話:独眼の慟哭

夏侯淵、討ち死に――。

その報せは、許都、そして長安に、計り知れない衝撃となって、駆け巡った。

特に、その報せを、誰よりも深く、悲しんだ男がいた。

独眼の将軍、夏侯惇だった。

夏侯淵は、彼にとって、単なる従弟ではなかった。幼い頃から、共に育ち、共に戦場を駆け巡り、そして、曹操の覇業を、二人三脚で支えてきた、唯一無二の、弟同然の存在だった。

「妙才(みょうさい、夏侯淵の字)が…死んだ、だと…?」

彼は、報告に来た伝令の胸ぐらを掴み、何度も、何度も、聞き返した。だが、返ってくる答えは、同じだった。

「…嘘だ。…嘘だと言ってくれ…!」

夏侯惇は、その場に、崩れ落ちた。

そして、子供のように、声を上げて、泣きじゃくった。

「うおおおおおっ! 妙才! なぜだ! なぜ、お前が死なねばならんのだ!」

その、普段の剛直な彼からは、想像もつかないほどの、悲痛な叫び。それは、周りにいた者たちの、胸を、締め付けた。

長安にいた劉星もまた、その報せに、言葉を失った。

彼は、すぐに、許都の夏侯惇の元へと、見舞いに駆けつけた。

部屋に閉じこもっていた夏侯惇は、劉星の顔を見るなり、その肩を掴んで、泣き崩れた。

「飛翼殿…! 妙才が、死んでしまった…! 俺の、たった一人の、弟が…!」

劉星は、そんな彼に、かける言葉もなかった。ただ、黙って、その大きな背中を、さすってやることしかできなかった。

夏侯惇は、彼にとって、叔父のような存在だった。濮陽で初めて会った時から、何かと自分を気にかけてくれ、時には厳しく、時には優しく、導いてくれた恩人。

その彼が、これほどまでに、悲しみに打ちひしがれている。

劉星の心の中に、静かだが、激しい怒りの炎が、燃え上がった。

(よくも…夏侯惇殿を、これほどまでに、苦しめたな…)

その怒りの矛先は、ただ一つ。

兄の仇ではない。父の敵でもない。

だが、劉星にとって、劉備と、その軍師たちは、この日を境に、決して許すことのできない、個人的な、そして、明確な「敵」となった。

第150話:個人的な敵

これまでの劉星にとって、劉備という人物は、どこか、掴みどころのない、遠い存在だった。

関羽や趙雲といった、義に厚い猛者たちが、心酔してやまない、仁徳の君主。

その理想は、青臭いと感じることもあったが、決して、憎むべき相手ではなかった。

諸葛亮もまた、郭嘉が警戒していたという、噂の中の、まだ見ぬ天才でしかなかった。

だが、夏侯淵の死と、そして、夏侯惇の慟哭を、目の当たりにしたことで、劉星の中で、何かが、決定的に変わった。

彼らは、もはや、ただの敵対勢力ではない。

敬愛する叔父同然の存在から、その半身ともいえる、大切な弟を奪った、憎むべき仇敵。

(劉備玄徳…諸葛孔明…そして、夏侯淵殿を討ったという、法正と、黄忠…)

劉星は、長安へ戻る道中、その名を、何度も、何度も、心の中で、反芻していた。そして、その名を、決して忘れぬよう、魂に刻み付けた。

これまで、彼の戦う理由は、様々に変化してきた。

母の無念を晴らすための、父への復讐心。

兄・曹昂の死を経て生まれた、弱き者を守るという誓い。

そして、西の国を築き上げてからは、自らの民と国を守るという、王としての責任。

だが、今、そこに、新たな、そして、最も原始的な感情が、加わった。

「復讐心」だ。

だが、それは、かつての父への憎しみとは、質の違うものだった。

それは、自らの大切な「家族」を傷つけられた、一匹の狼の、純粋で、そして、底知れぬ怒りだった。

(許さない…)

劉星は、馬上で、固く、拳を握りしめた。

(お前たちだけは、絶対に、この手で…!)

私情を乗り越え、大局を見る将へと、成長したはずの劉星。

だが、皮肉にも、この夏侯淵の死が、彼の心の中に、再び、個人的で、そして、決して消えることのない、熱い、熱い、敵対心を、植え付けたのだった。

漢中を巡る戦いは、彼にとって、もはや、ただの領土争いではない。

大切な者を傷つけられた、男としての、誇りと、意地を懸けた、復讐の戦いへと、その意味を変えようとしていた。

彼の瞳は、かつてないほど、冷たく、そして、静かに、燃えていた。


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