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第八章:漢中攻防と三国鼎立-1

第八章:漢中攻防と三国鼎立

第141話:蜀の地、動く

建安十九年(214年)、西の地が、大きく揺れた。

荊州から救援を名目に益州えきしゅうへ入った劉備が、ついにその本性を現し、益州の主・劉璋りゅうしょうを攻め、その拠点である成都を包囲したのだ。

劉璋は、元より戦を好まぬ気質で、家臣団も内部分裂していた。彼は、城内の民がこれ以上苦しむのを見ていられず、あっさりと城門を開き、劉備に降伏した。

こうして、劉備は、荊州に加えて、天険の要害と謳われる広大な益州(蜀)の地をも、その手中に収めた。

それは、かつて諸葛亮が語った「天下三分の計」の、第一段階が、見事に達成されたことを意味していた。

もはや、劉備は、各地を流浪する客将ではない。曹操、孫権と並び、天下の覇権を争う、巨大な勢力の主となったのだ。

「劉備、益州を平定!」

その報せは、長安にいる劉星の元にも、衝撃となって届いた。

「…ついに、龍が天に昇ったか」

劉星は、地図の上の「成都」という地に、重い印をつけながら呟いた。

関羽や趙雲といった、あれほどの猛者たちが、心酔してやまない男。その男が、ついに、自らの国を得た。

「旦那、こいつは、厄介なことになりやしたぜ」

傍らにいた周倉が、心配そうな顔で言った。

「ああ。蜀の地は、山々に囲まれた、天然の要害だ。一度、あそこに籠られてしまえば、攻め落とすのは容易ではない。そして、奴らの次なる狙いは、おそらく…」

劉星の視線が、地図上の一点に向けられた。

蜀と、自分たちが治める関中との、ちょうど中間に位置する、軍事上の要衝。

「…漢中だ」

張遼もまた、険しい顔で頷いた。

「漢中を抑えられたら、奴らは、いつでも我らの喉元に、刃を突きつけることができるようになります。そして、我らもまた、蜀を攻めるための、足掛かりを失うことになる」

西の地で、新たな、そして、これまでにないほど強大な脅威が、生まれようとしていた。長安の空気は、にわかに緊張の色を帯び始めた。劉星は、来るべき劉備軍との衝突を、覚悟せざるを得なかった。

第142話:五斗米道の終焉

蜀を手に入れた劉備にとって、まず排除すべきは、北の漢中に拠点を置く、五斗米道ごとべいどうの教祖・張魯だった。

だが、劉備が、蜀の地の統治を固めるのに手間取っている間に、先に動いた者がいた。

曹操だった。

許都の曹操もまた、劉備の勢力拡大を、最大の脅威と捉えていた。

「劉備めが、これ以上、力をつける前に、その手足を、もいでおかねばなるまい」

彼は、劉備が漢中を手に入れるのを阻止するため、そして、西方の安定を確実なものにするため、自ら大軍を編成し、漢中討伐へと乗り出した。

建安二十年(215年)、曹操軍は、許都を出陣した。

そして、その討伐軍には、西方の統治者である劉星にも、参加の命令が下された。

「征西将軍・劉星は、全軍を率い、我が本隊と合流せよ。その役目は、関中から漢中への、補給路を確保することにある」

それは、父からの、数年ぶりの、公式な軍事命令だった。

「…父上は、俺たちを、ただの補給部隊として使う気か」

劉星は、命令書を握りしめ、苦々しげに言った。

袂を分かったとはいえ、自分は、西の地を治める、独立した王のはずだ。その自分を、一介の将軍のように扱う父のやり方に、彼のプライドは傷つけられた。

だが、張遼は、冷静に劉星を諭した。

「飛翼殿、今は、私情を挟む時ではありますまい。漢中は、我らにとっても、重要な土地。張魯が支配するよりは、まだ、曹操殿の支配下にあった方が、我らにとって有利です。ここは、命令に従い、漢中平定に協力すべきかと」

張遼の言う通りだった。劉星は、個人的な感情を押し殺し、出陣を決意した。

父との、複雑で、気まずい再会が、待っている。だが、それ以上に、漢中という土地が、これからの天下の行方を左右する、重要な場所になることを、彼は予感していた。

狼の王は、自らの国の未来のために、一時的に、虎の指揮下に入ることを、受け入れたのだった。

第143話:陽平関の戦い

曹操の本隊と合流した劉星は、父と、数年ぶりの対面を果たした。

二人の間に、言葉は少なかった。ただ、互いの顔を見て、その間に流れた歳月と、変わらぬ溝の深さを、確認するだけだった。

曹操は、以前よりも、老いていた。その髪には、白いものが目立ち、顔には、深い疲労の色が刻まれていた。だが、その瞳の奥の、覇者の光だけは、少しも衰えてはいなかった。

曹操軍は、漢中への入り口である、天険の要害・陽平関ようへいかんで、張魯軍の激しい抵抗に遭った。

張魯の弟・張衛ちょうえいが、数万の兵でここを固めており、曹操軍は、何度か力攻めを試みたが、多くの損害を出して、押し返されるばかりだった。

「くそっ、このままでは、埒が明かん!」

曹操が、苛立ちを募らせる。

戦況が膠着する中、劉星が、一つの策を進言した。

「父上。夜間に、少数の精鋭部隊を動かす許可をください」

「何をする気だ?」

「この陽平関の、北側には、険しい山道があります。道なき道ですが、越えられぬことはないはず。私が、天狼隊を率いて、その山道を迂回し、敵の背後を突きます」

それは、極めて危険な作戦だった。もし、山中で道に迷ったり、敵に発見されたりすれば、全滅は免れない。

だが、曹操は、その策に賭けることにした。

「…よかろう。やってみせよ。だが、失敗は許さんぞ」

その夜、劉星は、天狼騎兵隊の中から、特に身軽で、山野での行動に慣れた者だけを選抜した。

「これより、我らは、闇夜の獣となる。音を殺し、気配を消し、ただ、敵の喉元だけを目指す」

彼らは、馬から降り、徒歩で、地図にも載っていない、険しい崖道を、慎重に進んでいった。

夜が明ける頃、彼らは、ついに、陽平関の背後にある、小さな砦を見下ろす位置にたどり着いた。敵は、まさかこちら側から攻撃があるとは思っておらず、完全に油断しきっていた。

「…今だ! かかれ!」

劉星の号令と共に、天狼騎兵隊は、崖の上から、一斉に砦へと襲いかかった。

奇襲は、完璧に成功した。砦は、あっという間に陥落し、劉星たちは、そこから、陽平関を守る張衛の本陣の背後へと、迫っていった。

背後から、突如として現れた敵部隊に、張衛軍は大混乱に陥った。

曹操は、その好機を見逃さなかった。

「全軍、総攻撃! 陽平関を、一気に落とすぞ!」

内外からの挟撃を受け、陽平関は、ついに陥落した。

この戦いの勝利は、間違いなく、劉星の、大胆な奇襲作戦の賜物だった。諸将は、改めて、彼の将としての、非凡な才能を認めざるを得なかった。

曹操もまた、息子の活躍に、満足げな表情を浮かべていたが、その心の奥底では、その成長しすぎた力に対する、かすかな恐れも、感じていた。

第144話:漢中平定

陽平関という最大の防衛拠点を失ったことで、張魯の心は、完全に折れてしまった。

彼は、もはや曹操軍に抵抗する気力もなく、宝物庫を封印し、漢中の都・南鄭なんていから、さらに奥地へと逃亡した。

曹操は、南鄭に入城すると、張魯が、民の財産である宝物を、一切略奪せずに立ち去ったことを知り、感心した。

「張魯は、愚か者ではあるが、民を思う心は、本物のようだ」

曹操は、張魯に使者を送り、降伏を勧告した。

「降伏すれば、命は保証し、その身分も安泰なものとしよう。決して、悪いようにはせぬ」

その寛大な申し出に、張魯は、あっさりと降伏を受け入れた。

こうして、長年にわたって独立を保ってきた漢中の地は、ほぼ無血で、曹操の支配下に入ることになった。

漢中平定を祝う宴の席で、曹操軍の将たちは、次なる目標について、口々に議論していた。

「殿! この勢いに乗じて、一気に蜀へ攻め込むべきです!」

「その通り! 劉備は、まだ蜀の地を完全に掌握しておりませぬ。今こそ、奴を滅ぼす、絶好の好機にございます!」

諸将の意見は、蜀への即時侵攻で、一致していた。

劉星もまた、その意見に賛成だった。

彼は、曹操の前に進み出ると、言った。

「父上。私も、今が好機と存じます。劉備という男は、放置すればするほど、厄介な存在となるでしょう。彼が、蜀の地で根を張る前に、その芽を、ここで摘み取っておくべきです」

劉備は、兄の仇ではないが、敬愛する夏侯惇の弟である夏侯淵を討った相手。そして何より、自らが治める西の国にとって、最大の脅威となる存在。劉星にとって、劉備を討つ理由は、十分すぎるほどあった。

軍全体の士気も、最高潮に達している。今ならば、勝てる。誰もが、そう信じていた。

だが、曹操の返答は、意外なものだった。

彼は、諸将の意見を、静かに聞いていたが、やがて、ゆっくりと首を横に振った。

「…いや、兵を引く」

その言葉に、軍議の席は、水を打ったように静まり返った。

誰もが、総大将の、その真意を、測りかねていた。

第145話:父の油断

「兵を引く、と…? 父上、それは、どういう意味ですか!」

劉星は、思わず、問い返した。

諸将もまた、信じられないという顔で、曹操を見つめている。

曹操は、深くため息をつくと、言った。

「人の欲望には、限りがないものだ。隴(ろう、西の地)を得て、さらに蜀を望む、とは、まさにこのことよ」

その声には、覇者とは思えぬほどの、奇妙な諦観が滲んでいた。

「兵士たちは、遠征で、疲れきっている。これ以上の深入りは、危険だ。それに、劉備は、天険の要害に籠っている。攻め落とすのは、容易ではあるまい」

「しかし、父上!」

劉星が、食い下がろうとするが、曹操は、手でそれを制した。

「もう、決めたことだ。我らは、許都へ帰還する。漢中の統治は、夏侯淵と、張郃に任せる。それで、十分だ」

劉星は、愕然とした。

(なぜだ…なぜ、父上は、これほどの好機を、自ら手放そうとする…?)

兵士が疲弊しているのは、事実だ。だが、それは、敵の劉備軍も同じはずだ。今、この勢いを失えば、二度と、このような好機は訪れないかもしれない。

劉星の脳裏に、赤壁の戦いの前の、あの光景が蘇った。

あの時、父は、驕りによって、勝利を確信し、敗れた。

そして、今、父は、過去の敗戦の記憶からか、あるいは、歳による気力の衰えからか、目の前の好機から、目を逸らそうとしている。

驕りと、臆病。それは、正反対のようで、根は同じ、的確な判断力を失わせる、という点で、通じている。

(父上は、劉備という男を、そして、その背後にいる諸葛亮という軍師を、甘く見すぎている…!)

劉星は、そう直感した。

だが、総大将の決定は、絶対だった。

曹操は、主力軍を率いて、早々に、許都への帰還の途についてしまった。

後に、この時の曹操の決断について、劉備自身が、こう語ったという。

「もし、あの時、曹操が、漢中からそのまま蜀へ攻め込んできていたら、我らは、ひとたまりもなく滅ぼされていただろう」と。

曹操の、この人生最大の判断ミスの一つが、結果的に、蜀という国を生き永らえさせ、そして、自らの軍に、新たな、そして、より大きな悲劇をもたらすことになる。

劉星は、漢中の地に残り、その悲劇的な予感を、ただ、唇を噛み締めながら、見つめていることしかできなかった。


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