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第七章:西涼の風と狼の国-1

第七章:西涼の風と狼の国

第121話:銅雀台の賦

赤壁での大敗から、二年という歳月が流れた。

あの悪夢のような敗戦は、曹操の心と体に、深い傷跡を残した。彼は、以前のような性急な天下統一を口にすることはなくなり、許都と、新たに本拠地として整備したぎょうとを行き来しながら、ひたすら内政の充実に力を注いでいた。

その象徴として、建安十五年(210年)、鄴の地に、壮麗な「銅雀台どうじゃくだい」が完成した。それは、天に届くかのような、巨大な楼閣だった。曹操は、この台の上に、多くの文人や学者を集めては、詩を詠み、宴を開いた。

表向きは、天下の平穏を祝い、文化を奨励するためのものとされた。だが、その実、それは傷ついた自らの心を慰め、そして、天下に対して、「我、曹操の権勢は未だ健在なり」と誇示するための、壮大なデモンストレーションでもあった。

その銅雀台の完成を祝う宴の席で、曹操は、自ら筆をとり、一つの詩を詠んだ。後の世に、「短歌行たんかこう」として知られることになる、彼の代表作である。

「酒に対してはまさに歌うべし、人生幾何いくばくぞ…」

(酒を前にしては、歌うべきだ。人生とは、一体どれほどのものか)

その詩は、天下を憂い、有能な人材を求める、覇者の気概を詠いながらも、その裏には、人生の儚さや、いつ終わるとも知れぬ戦乱への、深い苦悩と無常観が滲んでいた。

宴席の末席で、その詩を聞いていた劉星は、父の心の内に渦巻く、複雑な感情を、垣間見た気がした。覇者として、強くあらねばならない男の、その仮面の下にある、深い孤独を。

赤壁の敗戦は、父子の関係にも、微妙な変化をもたらしていた。曹操は、以前のように劉星をただの駒として扱うことはなくなり、時折、重要な軍議にも、彼の意見を求めるようになった。劉星もまた、父の過ちを責めることはなく、ただ、一人の将として、淡々と自らの役目を果たしていた。

二人の間に、温かい交流はない。だが、そこには、共に地獄を見てきた者同士だけが共有できる、一種の静かな信頼関係が、確かに存在していた。

第122話:狼の再編

父・曹操が、内政と文化事業に力を注いでいる間、劉星もまた、自らの力を蓄えることに専念していた。彼は、許都の喧騒を離れ、長安に近い、自身の拠点である駐屯地で、天狼隊の再編と、徹底的な強化に取り組んでいた。

赤壁での敗戦は、彼に、多くの教訓を与えてくれた。

まず、水軍の重要性。彼は、この二年間、甘寧を師として、水軍の運用法や、船上での戦い方を、一から学び直した。天狼隊の中に、水練に長けた者たちで構成される、小規模ながらも精鋭の水軍部隊を創設した。

「旦那は、飲み込みが早い。これなら、長江でも、もう溺れ死ぬことはねえでしょうぜ!」

甘寧は、豪快に笑った。

次に、組織的な陣形の重要性。これまでの天狼隊は、機動力と奇襲を得意としてきたが、大規模な会戦では、脆さを見せることもあった。劉星は、用兵の名手である張遼に教えを請い、守りにも強い、堅実な陣形の組み方を、部隊に叩き込んだ。

「飛翼殿の部隊は、これで、攻守ともに隙のない、真の精鋭となったな」

張遼は、その仕上がりに、満足げに頷いた。

そして、許褚からは、純粋な「突破力」を学んだ。

「小難しいことは、俺には分からん! 敵が強ければ、それ以上の力で、正面からぶち破る! それだけだ!」

その単純明快な哲学は、時に策を弄しすぎるきらいのある劉星にとって、新鮮な驚きだった。

こうして、天狼隊は、劉星の元で、様々な個性が融合した、恐るべき万能戦闘集団へと、その姿を変えていった。

そして、劉星自身の生活にも、変化があった。妻の甄氏との間に、一人の男児が生まれたのだ。劉星は、その子に、「劉瑤りゅうよう」と名付けた。

彼は、戦から帰ると、甄氏と、そして幼い息子の顔を見ることが、何よりの癒しとなっていた。

「あなた様は、戦場では狼のようですが、この子の前にいると、ただの優しい父親の顔になりますのね」

甄氏が、微笑みながら言う。

守るべき家族。その存在が、劉星の心を、以前よりも、遥かに強く、そして豊かにしていた。彼は、この穏やかな日々が、少しでも長く続くことを、願わずにはいられなかった。

第123話:西涼の動乱

平穏な日々は、長くは続かなかった。

建安十六年(211年)、西の地で、大きな動乱が勃発した。

事の発端は、曹操の策略だった。彼は、関中・西涼地方に勢力を張る、韓遂かんすい馬騰ばとうといった諸将を、許都に呼び寄せ、討伐しようと計画した。韓遂は、その誘いを断ったが、馬騰は、息子たちと共に、のこのこと許都へやってきてしまった。

曹操は、彼らに謀反の罪を着せ、一族郎党を、皆殺しにした。

この報せは、西涼に残っていた、馬騰の長男・馬超ばちょうの耳にも届いた。

「父上が…! 曹操め、よくも!」

馬超は、激怒した。その悲しみと怒りは、西涼の地を、一瞬で戦火に巻き込んだ。

彼は、「父の仇討ち」を大義名分として、韓遂をはじめとする関中の諸将と連合し、十万を超える大軍を組織。曹操に対し、公然と反旗を翻したのだ。

その勢いは、凄まじかった。連合軍は、長安を守っていた曹操の部将をあっさりと破り、古都・長安を、瞬く間に陥落させてしまった。

その先頭に立っていたのは、馬超だった。

彼は、白銀の鎧に身を包み、獅子の飾りがついた兜をかぶり、その勇猛な戦いぶりから、「錦馬超きんばちょう」と称えられていた。その瞳には、父を殺された深い悲しみと、曹操への燃えるような憎悪が宿っていた。

「全軍、潼関どうかんを目指せ! あの関を破り、許都へ攻め込み、曹操の首を獲るぞ!」

馬超の号令一下、西涼の騎馬軍団が、砂塵を巻き上げて東へと進撃を開始する。

この西涼の大反乱の報は、鄴にいた曹操を、激しく揺さぶった。

「馬超ごとき、田舎の若造が…! わしを、なめるな!」

赤壁の敗戦以来、鳴りを潜めていた覇者が、再び、その牙を剥く時が来た。

曹操は、すぐさま大軍を編成すると、自らその指揮を執り、反乱軍を討伐するため、西へと向かった。

中原は、再び、大きな戦乱の渦に、飲み込まれようとしていた。

第124話:氷の渡河

曹操軍と、馬超・韓遂の連合軍は、渭水いすいという大きな川を挟んで、対峙した。

「あれが、西涼の騎馬軍団か…」

曹操は、対岸に広がる、延々と続く敵陣を見て、思わず呻いた。その数と、荒々しい気迫は、かつて戦った烏桓にも、勝るとも劣らない。

先に動いたのは、馬超だった。

「全軍、渡河するぞ! 敵が体勢を整える前に、一気に叩き潰す!」

西涼の兵士たちは、馬に乗ったまま、巧みに川を渡り、曹操軍の陣地へと殺到してきた。その突撃は、まさしく雪崩のようだった。

曹操軍の兵士たちは、その圧倒的な機動力と、猛烈な攻撃の前に、なすすべもなく蹴散らされていく。

「殿、危ない! お下がりください!」

曹操の本陣にも、敵兵が迫る。

「くっ…ここまでか!」

曹操が、覚悟を決めた、その時。

「殿! 私にお任せを!」

許褚が、その巨体を盾にするように、曹操の前に立ちはだかった。

彼は、近くにあった馬の鞍を引き剥がすと、それを左手の盾代わりにして、右手の大刀で、敵兵を次々と斬り伏せていく。

「殿、船へ! 対岸へお逃げください!」

許褚は、曹操を小舟に乗せると、自らは船頭に代わって、必死にかいを操った。対岸から、雨のように矢が飛んでくるが、彼は、その全てを、左手の鞍で防ぎきった。その逞しい体は、矢でハリネズミのようになっていたが、彼は、全く怯まなかった。

許褚の、文字通り決死の護衛のおかげで、曹操は、命からがら、川の北岸へと逃れることができた。

だが、軍の損害は、甚大だった。多くの兵士が、渭水の藻屑と消えた。

「馬超…! 小僧と思っていたが、これほどのものとは…!」

曹操は、対岸で勝利の雄叫びを上げる馬超の姿を、悔しげに睨みつけるしかなかった。

このままでは、負ける。曹操の脳裏に、赤壁の悪夢が、再び蘇っていた。

第125話:救援、西へ

曹操軍、西涼で苦戦――その報せは、許都にいる劉星の元にも、すぐに届けられた。

諸将を集めた軍議の席は、重苦しい空気に包まれていた。

「殿が、あれほどまでに苦しめられているとは…」

「西涼の騎馬軍団、恐るべし…」

誰もが、効果的な打開策を見出せずにいた。

その沈黙を破ったのは、劉星だった。

「私が、行きます」

その声は、静かだったが、確固たる意志が込められていた。

「飛翼殿、しかし…」

留守を預かる将の一人が、懸念を口にする。「あなたは、都の守りの要。あなたがここを離れるのは…」

「父上が、そして、我が軍の兵士たちが、死地にいるのです。それを見て見ぬふりなど、できるはずがない」

劉星は、立ち上がった。

「それに…」

彼の瞳が、好敵手を見つけた狼のように、ギラリと光った。

「西涼の騎馬軍団、面白い。かつて、我らが北で戦った烏桓と、どちらが上か。そして、我ら天狼隊の力が、どこまで通用するのか。この目で、試してみたい」

彼のその言葉に、天狼隊の幹部たちも、奮い立った。

「旦那の言う通りだ!」と周倉が叫ぶ。

「我らの牙を、西の奴らに見せつけてやりましょう」と張遼が静かに頷く。

劉星は、出陣の許可を求め、鄴にいる曹操の元へ、早馬を飛ばした。返事は、すぐ来た。

「来援を、許可する。だが、決して、無茶はするな」

そこには、総大将としてではなく、息子の身を案じる、父としての短い言葉が記されていた。

劉星は、水軍の守りと、許都の警備を、甘寧に任せた。

「興覇、留守を頼む。お前の力が必要になる時が、いずれまた来るだろう」

「へい、旦那。こっちは、任せてくだせえ。それより、旦那こそ、ご無事で」

劉星は、張遼、周倉、そして、選び抜かれた天狼隊の精鋭騎馬隊を率いて、西へと出発した。

その顔には、父を救うという使命感と、馬超という新たな強敵と出会うことへの、武者震いが入り混じっていた。

狼の群れが、今、西の戦場へと向かう。

物語は、新たな、そして、より激しい局面へと、突入しようとしていた。

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