第六章:赤壁の烈火と南方の出会い-4
第六章:赤壁の烈火と南方の出会い
第116話:決死の殿
烏林の岸辺は、新たな戦場と化していた。陸路から迫る劉備軍の追撃は、執拗かつ的確だった。敗残兵たちは、戦う気力もなく、ただ右往左往するばかり。このままでは、曹操軍はここで完全に殲滅されてしまう。
「父上、先へお進みください!」
その絶望的な状況の中、劉星が、曹操の前に進み出た。その顔は煤で汚れ、鎧は血で濡れていたが、瞳だけは狼のように鋭く輝いていた。
「ここは、我らがお引き受けいたします。あなた方は、許都を目指してください」
「飛翼…しかし、それではお前たちが…」
曹操が、ためらいを見せる。
その時、劉星の隣に、岩のような巨漢が並び立った。許褚だった。
「飛翼殿の言う通りだ! 殿は、天下にとって、必要な御方! 我らが、この命に代えても、殿の背後をお守りする!」
続いて、張遼が、甘寧が、そして周倉をはじめとする天狼隊の生き残りが、次々と劉星の後ろに集結した。彼らの顔には、疲労の色は濃いが、不思議と恐怖の色はなかった。自分たちの頭領と共に、この死線を戦い抜く。その覚悟が、彼らの心を一つにしていた。
「父上。将には、将の役割があります。あなたの役割は、生き延び、この軍を再建すること。そして、俺たちの役割は、それを可能にするために、ここで時間を稼ぐことです」
劉星の言葉には、もはや息子としての甘えはなく、一人の将軍としての、揺るぎない覚悟が込められていた。
曹操は、彼らの覚悟に満ちた顔を、一人一人、見つめた。そして、涙をこらえ、震える声で言った。
「…すまぬ。…恩に着る。必ず、生き延びよ」
それは、覇者としてではなく、部下を死地に残していく、一人の男としての、悲痛な言葉だった。
曹操は、残った本隊の兵を率いて、許都への敗走を開始した。
その背後で、劉星たちは、押し寄せる劉備軍の前に、一つの壁となって立ちはだかった。
「狼ども、最後の狩りだ! 一人でも多く、道連れにしてやれ!」
劉星の号令一下、決死の殿戦が始まった。兵力差は、絶望的だった。だが、彼らは一歩も引かなかった。劉星の奇策、張遼の堅陣、許褚の突破力、そして甘寧の神出鬼没な動き。彼らが一体となった時、それは、少数ながらも、敵が容易には打ち破れない、恐るべき戦闘力を発揮した。
彼らは、自らの命を燃やし尽くすかのように、壮絶な時間稼ぎを続けた。全ては、主君を生かすために。
第117話:三笑の罠
劉星たちの決死の奮戦のおかげで、曹操は、かろうじて追撃を振り切り、許都への道を急いでいた。
だが、その敗走の道は、困難を極めた。道はぬかるみ、兵士たちは飢えと疲労で、次々と倒れていく。
一行が、葫蘆口という、狭い山道に差し掛かった時だった。曹操は、馬上で、ふいに高笑いを始めた。
「はっはっは! 周瑜や諸葛亮も、大したことはないわ! もし、奴らに少しでも才覚があれば、このような絶好の場所に、伏兵の一人も置いておくであろうに!」
だが、その笑い声が終わらぬうちに、山の両側から、喊声と共に、無数の兵士が現れた。率いるは、白龍・趙雲子龍。
「うわあっ!」
曹操軍は、不意を突かれ、大きな損害を出して、命からがらその場を逃げ出した。
さらに、ぬかるんだ湿地帯を通りかかった時、曹操は、またしても懲りずに笑い出した。
「あ奴らも、本当に愚かよな! こんなぬかるみに、火でも放たれれば、我らはひとたまりもなかったものを!」
すると、その言葉が終わるや否や、道の両脇の葦の中から火の手が上がり、黒い甲冑の猛将が、手勢を率いて飛び出してきた。劉備の義弟、張飛翼徳だ。
「曹操、見つけたぞ! 首を差し出せ!」
曹操は、またしても大損害を出し、半死半生でその場を切り抜けた。
二度の伏兵に遭い、兵士の数は、さらに減っていた。誰もが、口をきく元気もなく、ただ黙々と歩いている。
そんな中、曹操は、三度、高笑いを始めた。
「わははは! わしは、もう何も恐れんぞ! 奴らの知恵も、この程度よ! もし、本当に策があるなら、この先の華容道で、炊煙でも上げて、我らを待ち構えているはずだ!」
彼は、自らを鼓舞するように、空元気で笑っていた。
だが、彼の部下たちは、もはや笑うことすらできなかった。皆、総大将のその軽口が、次なる悲劇を呼び込む、不吉な予言にしか聞こえなかったからだ。
そして、その予感は、最悪の形で的中することになる。
第118話:華容道の再会
曹操が予言した通り、最後の難関である華容道へ差し掛かると、道の先から、一本の炊煙が、静かに立ち上っているのが見えた。
そして、その道の真ん中を、一人の武将が、悠然と馬を止め、彼らを待ち構えていた。
その姿を見た瞬間、曹操軍の兵士たちは、完全に戦意を喪失した。
そこにいたのは、青龍偃月刀を携え、見事な髯をなびかせた、義の武人・関羽だった。
「関…雲長…!」
曹操は、呻くように、その名を呟いた。「…万事休すか」
もはや、兵士たちに、戦う力は残っていなかった。武器を捨てる者、その場にへたり込む者。
曹操は、死を覚悟した。
彼は、馬から降りると、一人、関羽の前へと進み出た。
「関羽殿。久しいな。まさか、このような場所で、お主と再会することになるとはな」
曹操の声には、不思議なほどの落ち着きがあった。
関羽は、馬上から、静かに曹操を見下ろしている。その目には、複雑な感情が渦巻いていた。
「丞相。私は、軍師・諸葛亮の命により、ここであなたを待ち構えておりました。これも、軍令。悪く思われるな」
「分かっている。お主は、義理堅い男だからの。…だが、一つだけ、聞かせてはくれまいか」
曹操は、続けた。
「かつて、お主がわしの元にいた時、わしは、お主を丁重にもてなしたつもりだ。官渡の戦いの後、お主が兄君の元へ去る時も、わしは、追手を差し向けず、お主の義を重んじた。その時の恩義、お主は、まだ覚えてはおるかな?」
曹操は、法や軍令ではなく、人の「情」に訴えかけた。
その言葉に、関羽の眉が、ぴくりと動いた。
そうだ、この男には、確かに大きな恩がある。自分の義を認め、快く送り出してくれた、恩がある。その恩人を、今、この手で討つことが、果たして、本当の「義」なのだろうか。
関羽の心は、軍師との約束と、かつて受けた恩義との間で、激しく揺れ動いていた。
彼は、青龍偃月刀を、ゆっくりと、しかし、力強く、握りしめた。
華容道の狭い谷間に、張り詰めた沈黙が、流れた。
第119話:義の決断
関羽の心は、乱れていた。
軍師・諸葛亮との約束。「華容道で曹操を討ち取れ。もし、情に流されて見逃すようなことがあれば、軍法に照らして処罰する」。その言葉が、頭の中で響く。
だが、目の前には、かつて自分を厚遇し、その義を認めてくれた、恩人・曹操がいる。この男を、ここで討つことは、人の道に反するのではないか。
彼が、ついに意を決し、青龍偃月刀を振り上げた、まさにその時だった。
「お待ちください、関羽殿!」
後方から、数騎の馬が、砂塵を巻き上げて駆けてきた。
その先頭にいたのは、血と泥にまみれ、鎧もボロボロになった、劉星だった。
彼は、殿の役目をなんとか果たし、後続の部隊を許褚と張遼に任せ、父の身を案じて、ここまで追いついてきたのだ。
劉星は、馬から飛び降りると、関羽の前に、深く、深く、頭を下げた。
「関羽殿。あなたの義、そしてあなたの立場、お察しいたします。ですが、どうか、父の命だけは、お助けいただきたい!」
「飛翼殿…」
関羽は、劉星の姿を見て、驚いた。
「かつて、あなたは、白馬で我らのために、道を開いてくださいました。そして、長坂では、私は、趙雲殿の義に感じ入り、道を開けました。武人には、軍令を超えた、守るべき人の道があると、私は信じております」
劉星は、顔を上げた。その瞳は、涙で濡れていた。
「この借りは、必ず、この劉星飛翼が、命に代えても、お返しいたします。ですから、どうか、この通りです!」
劉星の、魂からの懇願。
そして、目の前で、哀れな姿を晒す、かつての恩人・曹操。
関羽の心は、決まった。
彼は、天を仰いで、一つ、長いため息をつくと、振り上げた青龍偃月刀を、静かに下ろした。
そして、全軍に命じた。
「…道を開けよ」
「し、しかし、関羽様! 軍師殿との約束が!」
側近が、慌てて制止する。
「やかましい! 全ての責めは、この関雲長が負う! 道を開けぬか!」
関羽の一喝に、兵士たちは、しぶしぶながらも道を開けた。
曹操は、信じられないという顔で、関羽と、そして劉星を見た。
「…すまぬ。この恩は、一生忘れん」
彼は、それだけ言うと、残った兵士たちと共に、足早に、その場を通り過ぎていった。
関羽は、義によって、最大の敵を見逃した。
彼は、後に、このことで諸葛亮に死罪を問われることになる。だが、劉備のとりなしによって、一命だけはとりとめることになるのだった。
劉星は、去っていく関羽の、大きな背中を見つめていた。あの背中に、彼は、自らが目指すべき、「義」の本当の重さを、改めて感じていた。
第120話:灰の中から
命からがら、許都へと逃げ帰った曹操。
八十三万と号した大軍は、もはやその影も形もなく、彼に従う兵は、わずか数百騎にまで減っていた。まさに、歴史的な大敗北だった。
その夜、曹操は、劉星を、一人、自室に呼び出した。
部屋の中には、豪華な調度品はなく、ただ一つの机と、二つの杯が置かれているだけだった。曹操は、玉座ではなく、劉星と同じ高さの、床の座布団に座っていた。
「…わしの、負けだ」
曹操は、杯に酒を注ぎながら、ぽつりと言った。その声には、覇者の威厳はなく、ただ、全てを失った男の、深い疲労だけが滲んでいた。
「郭嘉が生きていれば…。そして、お前の忠告を、わしが素直に聞いていれば、このような無様なことには、ならなかったであろう。…すまなかったな、飛翼」
それは、曹操が、息子に対して、そして家臣に対して、初めて見せた、心からの謝罪の言葉だった。
劉星は、何も言わずに、差し出された杯を受け取った。そして、黙って、父の杯に酒を注いだ。
言葉は、必要なかった。
この赤壁の炎は、曹操から、天下統一の夢を奪った。だが、皮肉にも、その炎は、父と子の間にあった、長年の、そして分厚い氷を、少しだけ溶かしたのだった。
憎しみ、反発、そして、殺意。そんな感情を超えた場所に、確かに存在する、血の繋がり。そして、共に死線を潜り抜けた者だけが分かり合える、不思議な絆。
「…これから、どうなさるのですか」
劉星が尋ねる。
「ふ…決まっておる」
曹操は、力なく笑った。だが、その目の奥には、まだ、消えぬ光が宿っていた。
「もう一度だ。もう一度、灰の中から、やり直す。わしの戦は、まだ終わってはおらんよ」
その言葉に、劉星もまた、静かに頷いた。
そうだ、まだ、何も終わってはいない。
天下は、三つに分かれた。戦は、これから、より複雑に、そして、より長く続いていくであろう。
劉星は、父と共に、杯を掲げた。
この大敗北の中から、父と子は、新たな関係性を、そして、次なる戦いへの、静かな、しかし、確かな決意を、見出していた。
赤壁の灰の中から、物語は、次なる章へと、その歩みを進めていく。
(第六章 完)




