第六章:赤壁の烈火と南方の出会い-1
第六章:赤壁の烈火と南方の出会い
第101話:南征の始まり
建安十三年(208年)秋。許都の空は、抜けるように青く澄み渡っていた。だが、その下で渦巻く空気は、かつてないほどの熱気と緊張に満ちていた。
丞相・曹操は、ついに天下統一の総仕上げとして、荊州への南征を開始することを、天下に布告した。
「兵力は八十三万と号す」。
その報は、諸侯を震撼させた。許都から出陣する軍勢は、まるで大地を覆い尽くす鉄の川のようだった。林立する無数の旗、陽光を照り返す鎧と矛先、そして、地響きのような進軍の音。それは、人の力が起こしうる、最大のスペクタクルだった。
軍全体が、圧倒的な勝利を信じて疑わなかった。北を平定し、中原に敵なしとなった今、南の劉表や江東の孫権など、もはや敵ではない。誰もがそう信じ、その心は楽観と、そして強者ゆえの驕りに満ちていた。
劉星もまた、天狼隊を率いて、その巨大な軍勢の中にいた。だが、彼の心だけは、周りの熱狂とは裏腹に、冷たく静まり返っていた。
(父上は、勝ちすぎた…)
彼の脳裏には、郭嘉の最後の言葉が、今も鮮明に響いていた。『驕りが、大きな過ちを生まねばよいが…』。
劉星は、今の曹操軍の空気に、まさにその危うさを感じていた。
出陣の日、妻の甄氏が、劉星の元を訪れた。彼女の手には、手ずから縫い上げたという、小さな御守り袋が握られていた。
「あなた様。どうか、ご無事で…」
その瞳には、不安の色が浮かんでいた。彼女もまた、この軍の異常なまでの高揚感に、何か不吉なものを感じ取っているのかもしれない。
「心配するな。必ず、生きて帰ってくる」
劉星は、御守りを受け取ると、力強く頷いた。生まれてきたばかりの息子の顔が、脳裏をよぎる。守るべきものが、また一つ増えた。その思いが、彼の心を強くする。
壮大な出陣式で、曹操は壇上から、意気揚々と演説をぶった。その声は、天下を手中に収めた男の、絶対的な自信に満ちていた。将兵たちは、その声に熱狂し、勝利の雄叫びを上げた。
その光景を、劉星は一人、冷静に見つめていた。
これから始まるのは、ただの戦ではない。郭嘉が予言した「龍」との対決。そして、父の驕りが試される、運命の戦だ。
劉星は、静かに、しかし固く、兜の緒を締め直した。
第102話:荊州の降伏
曹操の南征軍は、破竹の勢いで南下した。その威勢は、戦う前から敵の心をくじくのに、十分すぎた。
ちょうどその頃、荊州の主であった劉表が、病によってこの世を去った。彼は、生前、後継者を長男の劉琦にするか、次男の劉琮にするかで悩み、家臣団も二つに分裂していた。
劉表の死後、蔡瑁ら荊州の有力豪族たちは、扱いやすい次男の劉琮を、新たな主君として擁立した。
だが、劉琮は、父とは似ても似つかぬ、気の弱い凡庸な若者だった。
曹操の大軍が、国境に迫っているという報せを聞いただけで、彼は恐怖に震え上がった。
「ど、どうすればよいのだ…! 曹操に、勝てるわけがない…!」
蔡瑁らは、そんな劉琮に、降伏を進言した。
「殿。戦わずして降るのが、荊州の民を守る、最善の道にございます。曹操殿は、降伏した者には、寛大な処置を取られると聞き及んでおります」
その言葉に、劉琮は、まるで溺れる者が藁にもすがるように、飛びついた。
彼は、新野にいる劉備にも、江夏にいる兄の劉琦にも、何も知らせぬまま、曹操に使者を送り、降伏を申し出た。
曹操軍が、荊州の都・襄陽に到着した時、城門は、静かに開かれた。劉琮は、百官を率いて曹操を出迎え、荊州の印綬を差し出した。
曹操は、戦わずして、荊州の豊かな土地と、そして何よりも、劉表が育て上げた強力な水軍を、そっくりそのまま手に入れることに成功した。
このあまりにも容易い勝利は、曹操の驕りを、さらに増長させる結果となった。
「見よ! わが威光の前には、いかなる者も、戦わずして膝を屈するのだ!」
降伏の儀式の席で、曹操は、劉琮を丁重に扱う素振りを見せながらも、その目の奥では、明らかに彼を侮蔑していた。その傲慢な態度を、劉星は冷ややかに見つめていた。
(降伏した相手に、敬意を払わぬ王に、真の人心はついてこない…)
彼は、父のやり方に、再び強い危惧を覚えた。この勝利は、栄光への道ではなく、破滅への入り口なのではないか。
その予感は、日増しに、彼の心の中で大きくなっていった。
第103話:民を連れて
劉琮が降伏したという報せは、新野に駐屯していた劉備の元に、青天の霹靂となって届いた。
「何だと!? 劉琮殿が、戦わずして曹操に…!」
劉備は、愕然とした。もはや、この新野も安全ではない。曹操の大軍が、いつ殺到してきてもおかしくなかった。
「兄者、すぐにここを離れ、南の江夏へ向かうべきだ!」
張飛が、焦ったように進言する。
諸葛亮もまた、冷静に分析した。
「張飛将軍の言う通りです。今は、劉琦殿が治める江夏まで退き、再起を図るしか道はありますまい」
劉備は、その進言を受け入れ、すぐさま新野からの撤退を開始した。
だが、彼らが城を出ようとした時、予想外の事態が起きた。
城下の民衆たちが、劉備の行く手を阻むように、道に溢れかえっていたのだ。
「劉備様! 我らをお見捨てなさらないでください!」
「あなた様が行かれるのなら、我らも、どこまでもお供いたします!」
彼らは、劉備の仁徳を慕い、彼の下でなら、安心して暮らせると思っていた民衆だった。その彼らが、曹操の支配下に入ることを恐れ、劉備と共に逃げたいと、涙ながらに訴えてきたのだ。その数は、数万、いや、十数万にも及んだ。
「…兄者、これは…」
関羽が、困惑した顔で劉備を見る。
諸葛亮は、非情な決断を促した。
「劉備様。お気持ちは分かりますが、この民衆を連れていては、行軍の速度は著しく落ちます。曹操軍の追撃に、すぐに追いつかれてしまいましょう。今は、大義のために、彼らを棄てるべきです!」
だが、劉備は、首を横に振った。その目には、涙が溢れていた。
「孔明よ。それは、できぬ相談だ」
彼は、民衆を見回し、震える声で言った。
「大事を成す者は、必ずや、民を本となす。今、この者たちが、わしを慕ってくれているのに、どうして見捨てることができようか。民を棄てて、どうして、天下が取れようか!」
劉備の決意は、固かった。
彼は、諸葛亮や義兄弟たちの反対を押し切り、十数万の民衆と共に、南へ向かうことを決断した。
老人、女、子供。多くの非戦闘員を抱えた、巨大な避難の列。その進軍速度は、あまりに遅く、一日十里(約4km)ほどしか進めなかった。
それは、軍事的には、自殺行為に等しかった。
だが、劉備は、自らの信じる「義」を、貫き通した。この決断が、後に彼の運命を大きく左右することになるのを、まだ誰も知らなかった。
第104話:長坂の追撃
「劉備め、民を引き連れて、のろのろと南下しているだと!?」
その報せを受けた曹操は、激怒した。
「偽善者が! わしへの当てつけのつもりか! あるいは、民を盾にして、わしが攻撃できぬとでも思っているのか! 愚かな!」
曹操にとって、劉備の行動は、自らの覇道に対する、許しがたい挑戦に思えた。
「奴に、感傷が招く現実というものを、教えてやらねばなるまい」
曹操は、すぐさま、全軍の中から、最も精強で、機動力のある騎馬部隊「虎豹騎」五千を選抜した。そして、自らその指揮を執り、昼夜を問わずに劉備一行を追撃することを命じた。
「飛翼、お前も来い。天狼隊の騎馬隊を率いて、この追撃に加われ。劉備の首を獲った者には、万戸侯の位をくれてやる!」
曹操の命令に、劉星は黙って従うしかなかった。だが、彼の心は重かった。非武装の民衆を、攻撃するのか。それは、彼が守りたいと願ってきたものと、あまりにもかけ離れた行為だった。
虎豹騎の追撃は、凄まじかった。彼らは、一日で数百里を駆け抜け、ついに、当陽県の長坂坡で、劉備一行に追いついてしまった。
「攻撃開始! 一人残らず、蹴散らせ!」
曹操の非情な号令と共に、五千の精鋭騎馬隊が、十数万の避難民の列に、牙を剥いた。
それは、もはや戦ではなかった。一方的な、虐殺だった。
馬に踏みつけられ、槍で突かれ、泣き叫びながら死んでいく民衆。親とはぐれ、途方に暮れる子供。阿鼻叫喚の地獄が、そこに現出した。
劉備軍の兵士たちも、必死に抵抗するが、多勢に無勢。その上、守るべき民衆が足手まといとなり、まともに戦うことすらできない。劉備の妻たちも、この乱戦の中ではぐれてしまった。
「くそっ! これでは、全滅だ!」
張飛が、蛇矛を振り回し、鬼の形相で叫んだ。
劉星は、その光景を、丘の上から、唇を噛み締めながら見ていた。
「旦那…」
周倉が、何か言いたそうに、劉星の顔を見る。
天狼隊の隊員たちも、目の前の惨状に、顔を青くしていた。
(これが…父上の、やり方か…)
劉星は、自らの正義と、父への忠誠との間で、激しく揺れ動いていた。彼は、この地獄の中で、一体何をすべきなのか。答えは、見つからなかった。
第105話:白龍、駆ける
地獄と化した、長坂坡。その混乱の極みにある戦場で、ただ一騎、白馬に乗り、銀の鎧を纏った武将だけが、神がかり的な動きを見せていた。
劉備の将、趙雲子龍。
彼は、乱戦の中ではぐれてしまった、主君・劉備の夫人と、その若君・阿斗の行方を探して、敵の大軍の中を、何度も、何度も、駆け抜けていた。
「夫人! 若君! いずこにおられますか!」
その姿は、曹操軍の兵士たちからも、畏怖の念をもって見られていた。
「何だ、あの男は! まるで化け物だ!」
「一人で、我らの陣を、七度も突き抜けていったぞ!」
劉星もまた、その常人離れした武勇に、目を奪われていた。
(あれが、趙雲子龍か…!)
その強さは、許褚の剛とも、張遼の静とも違う。まるで、流れる水のように、しなやかで、そして止めようのない、洗練された強さだった。
やがて、趙雲は、打ち捨てられた井戸の傍らで、深手を負った麋夫人と、その腕に抱かれた赤子、阿斗を発見した。
「ご夫人! ご無事でしたか!」
「趙雲将軍…。私は、もう助かりますまい。どうか、この子だけでも、劉備様の元へ…」
麋夫人は、そう言うと、趙雲に阿斗を託し、自らは井戸へと身を投げて、その命を絶った。
趙雲は、涙をこらえ、阿斗を自らの鎧の中に抱くと、再び敵中突破を開始した。
その彼の前に、曹操軍の猛将たちが、次々と立ちはだかる。
だが、趙雲は、その全てを、神業のような槍捌きで打ち破っていった。彼の体は、すでに無数の傷を負い、鎧は血で赤く染まっていた。それでも、彼の瞳の光は、少しも衰えない。
ただ、主君の子を届ける。その一念だけが、彼を動かしていた。
劉星は、その姿に、もはや敵意を忘れていた。
そこにいるのは、敵将ではない。自らの命を賭してでも、「義」と「忠」を貫き通そうとする、一人の、真の武人だった。
その生き様は、あまりにも気高く、そして、美しかった。
(俺は、あの男を、殺したくない…)
劉星の心に、強い思いが込み上げてきた。軍規を破ることになろうとも、父に逆らうことになろうとも、あの義士の道を、自分が絶つわけにはいかない。
彼は、静かに、一つの決断を下した。たとえ、それが、自らの立場を危うくする行為であったとしても。
劉星は、天狼隊の腹心たちに、密かに合図を送った。狼たちが、静かに動き始める。白龍の進むべき道を、開けるために。




