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第五章:河北平定と龍の胎動-4

第五章:河北平定と龍の胎動

第96話:荊州の龍

曹操が、北の地で覇権を確立し、丞相として権勢の頂点に立っていた、まさにその頃。

南の荊州けいしゅう新野しんやという小さな城で、新たな歴史が、静かに産声を上げようとしていた。

この地には、かつて曹操の下から逃れ、今は荊州の主・劉表の客分として、雌伏の時を過ごしている一人の男がいた。

その男の名は、劉備、字は玄徳。漢の中山靖王ちゅうざんせきおうの末裔を名乗る、仁徳の将である。

彼は、官渡の戦いで袁紹に味方して敗れ、流浪の末に、この地にたどり着いた。その手勢は、関羽、張飛といった義兄弟をはじめ、わずか数千。曹操の勢力に比べれば、あまりにも非力な存在だった。

だが、彼の心には、決して消えることのない炎が燃えていた。「漢室を復興し、天下の民を戦乱の苦しみから救う」。その大いなる志が、彼を支えていた。

しかし、志だけでは、戦には勝てない。彼には、曹操の覇業に対抗するための、壮大な戦略を描ける、優れた軍師が、どうしても必要だった。

そんな彼の元に、一人の人物が、ある男を推薦した。その人物は、徐庶じょしょという名の、優れた学者だった。

「劉備様。私の友人に、天下の奇才がおります。その男を得れば、必ずや、覇業を成し遂げることができるでしょう」

「ほう、その男の名は?」

「はい。隆中りゅうちゅうの山中に隠棲しております、諸葛亮しょかつりょう、字は孔明こうめいと申す者。人々は、彼をこう呼びます。『臥龍がりょう』――すなわち、眠れる龍、と」

臥龍。その名に、劉備は、運命的な何かを感じた。

彼は、すぐさま関羽と張飛を伴い、諸葛亮が住むという、隆中の草廬そうろへと向かった。

これが、後に「三顧の礼」として語り継がれる、歴史的な出会いの始まりだった。

第97話:三顧の礼

劉備が、初めて隆中の草廬を訪ねた時、諸葛亮は留守だった。二度目に訪ねた時も、また留守だった。

三度目の訪問。季節は、厳しい冬。雪が、深く降り積もっていた。

「兄者、また無駄足かもしれんぜ。そんな得体の知れない男、放っておけばいい」

短気な張飛が、不満を漏らす。

「ならん。これほどの賢人を、礼を尽くさずして、どうして迎えることができようか」

劉備は、辛抱強く、草廬の前で待ち続けた。

ついに、庵の主が、姿を現した。

劉備が想像していたような、老練な賢者ではなかった。そこにいたのは、まだ二十代半ばの、若々しい青年だった。身の丈は八尺(約184cm)、鶴の羽で編んだ衣をまとい、その顔立ちは、まるで玉のように気品があった。

だが、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。世の全てを見通しているかのような、深く、そして静かな光を宿していた。

「あなたが、臥龍先生か」

劉備は、感動のあまり、自らの身分も忘れ、深々と頭を下げた。

「この劉備、漢室のために立ち上がったものの、未だ道を拓けずに、もがいております。どうか、先生のお知恵を、天下万民のためにお貸しいただきたい」

初め、諸葛亮は、その申し出を固辞した。

「私は、ただ、畑を耕し、書を読んで静かに暮らしたいだけの、無精者です。天下の大事など、私には荷が勝ちます」

だが、劉備は諦めなかった。彼は、自らの志、そして民を思う心を、涙ながらに語った。その誠実さと、天下を憂う熱意に、ついに諸葛亮の心も動かされた。

「…分かりました。そこまで仰せられるのであれば」

諸葛亮は、劉備を庵の中へ招き入れると、壁に掛かっていた一枚の地図を、指し示した。

そして、彼は、後の世に「天下三分の計」と呼ばれる、驚くべき戦略を、静かに語り始めたのだった。

第98話:天下三分の計

「将軍(劉備のこと)。今、天下の情勢を見まするに、最大の敵は、北方の曹操です」

諸葛亮は、地図上の許都と鄴を指しながら、淀みなく語った。

「曹操は、もはや百万の軍勢を擁し、天子を奉じて諸侯に号令しております。これは、いわゆる『天の時』を得た状態。これと、正面から武をもって争うのは、得策ではありませぬ」

「では、江東はどうか。孫権は、父・孫堅、兄・孫策の三代にわたって、江東の地を固めております。民は彼に懐き、賢臣も多い。これは、『地の利』を得た状態です。これとは、争うのではなく、同盟を結び、味方とすべきです」

諸葛亮は、地図上の荊州と、その西の益州えきしゅうを、指で囲んだ。

「将軍が狙うべきは、この二州です。荊州の主・劉表は、守成の器なく、この地は長く彼の持ち物ではありますまい。そして、西の益州は、天険の要害でありながら、その主・劉璋りゅうしょうは暗愚。人心は、離れております」

「将軍が、まずこの荊州と益州を手に入れ、その民心を得て、守りを固める。これこそが、『人の和』を得るということです。そうなれば、北の曹操、東の孫権、そして西の将軍と、天下は三つに分かれ、互いに牽制し合う、鼎立ていりつの形勢となりましょう」

「しかる後に、内政を整え、国力を蓄えるのです。そして、天下に大きな変動が起きた時を待ち、荊州と益州の二方面から、同時に中原へ兵を進める。さすれば、民は、将軍の義軍を、食事を運び、酒樽を提げてでも、喜んで迎え入れるでしょう。その時こそ、漢室の復興も成り、将軍の大業も、成就するに違いありませぬ」

その言葉は、まるで未来を見てきたかのような、明確さと、揺るぎない確信に満ちていた。

劉備は、これまで、ただ闇雲に戦ってきた。だが、今、諸葛亮の言葉によって、進むべき道が、目の前に、一本の光の道となって、はっきりと示されたのだ。

「…先生!」

劉備は、感動のあまり、諸葛亮の手を取った。

「先生を得るは、まさに、魚が水を得たようなものだ! どうか、この劉備と共に、この道を歩んでいただきたい!」

諸葛亮は、その手を取り返し、静かに、しかし力強く、頷いた。

「この諸葛孔明、微力ながら、将軍のために、力の限りを尽くしましょう」

この日、眠れる龍は、ついにその主を得て、天に昇る決意をした。

歴史が、大きく動き出す、その瞬間だった。

第99話:臥龍の目覚め

「荊州の劉備、臥龍と称される、諸葛孔明という若き軍師を得て、にわかに勢いを増している模様」

その報せは、許都の曹操の元にも、すぐに届けられた。

諸将の多くは、それを鼻で笑った。

「劉備など、所詮は筵を織っていた男。今更、軍師の一人や二人を得たところで、我らの敵ではありますまい」

「臥龍だか何だか知らんが、田舎の若造に、何ができようか」

だが、曹操だけは、その報告に、笑うことができなかった。

彼の脳裏に、死の床にあった、郭嘉の最後の言葉が、鮮明に蘇っていたからだ。

『南には…気をつけるのです…。龍が…眠っている…』

(奉孝が言っていたのは、このことだったのか…)

曹操は、言いようのない、胸騒ぎを覚えていた。劉備という男の、異常なまでの人望の厚さと、そのしぶとさ。それに、諸葛亮という未知数の天才が加わった。それは、決して侮って良い相手ではない。

同じ頃、長安にいた劉星もまた、その報せに、強い関心を抱いていた。

彼は、部下に命じて、諸葛亮という人物の経歴を、徹底的に調べさせた。だが、分かったのは、彼が名門の出でありながら、世に出ずに、晴耕雨読の生活を送っていた、ということだけだった。

「臥龍…か。一体、どんな男なのだ…」

劉星は、河北の戦いで、審配のような忠臣、そして郭嘉のような天才軍師の存在が、いかに戦局を左右するかを、身をもって知っていた。

その郭嘉が、警戒していたほどの人物。

劉星は、自室に掲げた巨大な地図に、荊州の「隆中」という地に、赤い印を一つ、付け加えた。

それは、父・曹操のいる許都、そして、いずれ雌雄を決するであろう、北の袁家の残党とは別に、彼が初めて、自らの意志で印した、「警戒すべき敵」の印だった。

彼の目は、まだ見ぬ好敵手との対決を、予感しているかのようだった。

北の脅威は去った。だが、南の空には、新たな、そして、より巨大な嵐の雲が、生まれようとしていた。

第100話:嵐の前の静けさ

北を平定し、中原の覇者となった曹操。

臥龍を得て、再起の時を虎視眈々と狙う劉備。

そして、父兄の遺業を受け継ぎ、江東の地で、その爪を研ぐ孫権。

役者たちは、出揃った。

天下は、建安十三年を迎えるにあたり、一見すると、穏やかな、嵐の前の静けさに包まれていた。

だが、その水面下では、三つの巨大な力が、互いに牽制し、探り合い、次なる大激突の時に向けて、着々と準備を進めていた。

劉星は、長安と許都を行き来しながら、来るべき戦いに備えていた。

許都では、妻の甄氏と共に、穏やかな時間を過ごす。彼女との間に、一人の男の子も生まれた。劉星は、初めて、父親になるという経験をした。その小さな命の温かさは、彼の心を、これまでとは違う種類の、強い力で満たした。

(この子たちが、安心して暮らせる世の中を、作らねばならない)

兄・曹昂への誓いは、今や、自らの子への、父親としての誓いともなっていた。

だが、長安に戻れば、彼は西の狼王だった。天狼隊の訓練は、一日も欠かさなかった。張遼が教える堅実な用兵術。天狼隊は、もはや単なる奇襲部隊ではなく、どんな戦況にも対応できる、万能の戦闘集団へと変貌を遂げつつあったが、水軍の知識の重要性を痛感していたところでもあった。

彼の心は、常に南の空を見据えていた。

郭嘉の遺言、そして、臥龍の存在。

次なる戦いが、これまでの戦とは、全く質の違うものになることを、彼は予感していた。それは、単なる武力と武力の衝突ではない。知略と知略、国力と国力、そして、それぞれの君主が掲げる「義」と「義」とが、真っ向からぶつかり合う、真の総力戦となるだろう。

嵐は、すぐそこまで来ている。

劉星は、静かに、その嵐が吹き荒れるのを待っていた。

第五章は、歴史上、最も有名で、そして最も激しい戦いの一つである「赤壁の戦い」を前に、その序曲を奏でながら、静かに幕を下ろした。

(第五章 完)

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