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第五章:河北平定と龍の胎動-3

第五章:河北平定と龍の胎動

第91話:狼と虎

白狼山の戦いは、まさに死闘となった。

劉星と張遼が率いる部隊が、見事な連携で烏桓軍の陣形を切り裂いた。だが、敵もさるもの。一度は混乱した烏桓の騎馬軍団は、すぐに体勢を立て直し、再び波のように押し寄せてくる。特に、単于・蹋頓が率いる親衛隊は、精鋭中の精鋭であり、その突進力は凄まじかった。

「このままでは、また押し返される…!」

劉星が戦況の膠着を危ぶんだ、その時だった。

戦場の側面から、新たな砂塵が巻き起こった。曹操が、自ら率いる本隊を動かしたのだ。彼は、劉星たちが敵の主力を引きつけている間に、大きく迂回し、蹋頓の本陣の背後を突くという、大胆な奇襲を仕掛けた。

「父上!」

曹操の狙いは、ただ一つ。敵の大将、蹋頓の首だ。

その先頭に立っていたのは、岩のような巨漢、許褚だった。

「仲康! 蹋頓の首を獲れ! この戦、それで終わりだ!」

曹操の檄を受け、許褚は虎のように咆哮すると、単騎で敵の本陣へと突っ込んでいった。その勢いは、もはや人のものではなく、天災のようだった。彼は、立ち塞がる敵兵を、まるで小枝のように薙ぎ払い、一直線に蹋頓の元へと迫っていく。

蹋頓も、己が狙われていることに気づき、迎え撃とうとした。だが、許褚の猛進は、彼の想像を遥かに超えていた。

許褚は、蹋頓の親衛隊の壁を、その怪力で文字通り粉砕すると、ついに蹋頓の眼前にまで到達した。

「我が名は、許褚仲康! 曹操様の命により、貴様の首、貰い受ける!」

許褚の大刀が、閃光と共に振り下ろされる。

次の瞬間、烏桓の王・蹋頓の首は、高く宙を舞っていた。

大将を失った烏桓軍は、完全に崩壊した。彼らは、戦意を失い、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。袁尚と袁譚の兄弟も、その混乱に乗じて、さらに北の遼東へと落ち延びていった。

戦いは、曹操軍の、劇的な勝利に終わった。

戦の後、傷だらけになった劉星と許褚は、夕陽に染まる戦場で、互いの肩を叩き合った。

「お前がいなけりゃ、危なかったぜ、飛翼。見事な指揮だった」

許褚が、その無骨な顔をほころばせて言った。

「仲康こそ。あの突撃は、まるで虎のようだった。誰も、あんたを止められはしないだろうな」

劉星も、心からの賞賛を返した。

兗州で出会った頃は、ただの好敵手だった。だが、幾多の死線を共に潜り抜けるうちに、二人の間には、言葉では言い表せない、絶対的な信頼と友情が築かれていた。

狼と虎。二人の若き英雄は、この北の果ての地で、また一つ、大きな伝説を打ち立てたのだった。

第92話:北の平定

白狼山の勝利は、決定的なものだった。烏桓の勢力は完全に駆逐され、遼東へ逃げ延びた袁尚と袁譚も、遼東太守の公孫康こうそんこうによって殺害され、その首は曹操の元へと届けられた。

ここに、長年にわたって中原を二分してきた、袁家の勢力は、完全に滅亡した。河北四州は、名実ともに曹操の支配下に入り、彼の威光は、中原全土に轟き渡った。

建安十二年(207年)秋、曹操軍は、許都へと凱旋した。

その行列は、かつてないほど壮麗なものだった。民衆は、北の脅威を完全に取り払い、中原に平和をもたらした英雄として、曹操とその軍勢を、熱狂的に出迎えた。

「曹操様、万歳!」

「これで、我らも安心して暮らせる!」

劉星もまた、その凱旋行列の中にいた。彼は、北伐を成功させた若き将軍として、夏侯惇や張遼といった宿将たちと肩を並べて、民衆の歓声を浴びていた。

その視線の先に、屋敷の門の前で、静かに自分を待つ一人の女性の姿を見つけた。妻の甄氏だった。

彼女は、多くの人々のように熱狂するでもなく、ただ、安堵の表情を浮かべ、穏やかな笑みで、夫の帰りを待っていた。

劉星は、馬を降りると、彼女の元へと歩み寄った。

「…ただいま、戻った」

「お帰りなさいませ、あなた。ご無事で、何よりでした」

甄氏は、そう言うと、そっと劉星の手に、自分の手を重ねた。その小さな手の温かさが、戦いでささくれ立った劉星の心を、優しく溶かしていくのを感じた。

そうだ、自分には、帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。

その事実は、彼がこれまでの戦いで得た、どんな武功や名声よりも、遥かに尊く、そして温かいものに思えた。

劉星は、甄氏の手を握り返しながら、初めて、心からの平穏を感じていた。

天下は、ようやく静けさを取り戻そうとしている。この幸せが、ずっと続けばいい。彼は、柄にもなく、そんなことを願っていた。だが、乱世の神は、彼に、そして彼の父に、それほど長く、穏やかな時間を与えるつもりはなかった。

第93話:天才の落日

凱旋の喜びに沸く許都。だが、その華やかな勝利の影で、一つの命の灯火が、静かに消えようとしていた。

軍師・郭嘉。

その類まれなる知略で、幾度となく曹操を勝利に導いてきた天才は、北伐の過酷な行軍によって、その病状を急激に悪化させていた。

凱旋後、彼は、自室に籠ったまま、起き上がることもできなくなってしまった。

曹操は、公務の合間を縫って、毎日、彼の見舞いに訪れた。彼は、国中から名医を呼び寄せ、高価な薬を湯水のように使った。だが、郭嘉の病状は、一向に良くならなかった。

「奉孝…! なぜだ、なぜお前が…!」

覇者・曹操も、この時ばかりは、一人の無力な友人でしかなかった。彼は、やせ細っていく郭嘉の手を取り、子供のように声を上げて泣いた。

「わしが悪かった! 無理な遠征にお前を連れて行った、わしのせいだ! だから、死なないでくれ…! お前がいなければ、わしは…!」

郭嘉は、そんな曹操の姿を、穏やかな目で見つめていた。

「…殿。何を、お嘆きに…。人の命には、限りがございます。私は、殿という、天下に比類なき器の持ち主にお仕えし、我が知略の全てを尽くすことができた。軍師として、これ以上の幸せはございません」

その声は、弱々しかったが、その瞳には、一点の曇りもなかった。彼は、自らの死を、静かに受け入れていた。

「それに…」と郭嘉は続けた。「もはや、私がなくとも、殿の周りには、多くの才ある者たちがおります。荀彧殿、賈詡殿、程昱殿…。そして…」

彼の視線が、部屋の隅に立つ、一人の青年へと向けられた。

「…飛翼殿がいる」

郭嘉は、劉星を手招きした。劉星は、静かに郭嘉の枕元へと進み出た。

「飛翼殿。少し、二人だけで、話がしたい…」

その言葉に、曹操は、無念の表情を浮かべながらも、静かに部屋を出て行った。

部屋には、消えゆく天才と、生まれ出づる英雄の、二人だけが残された。

第94話:最後の遺言

部屋に、郭嘉の、浅く、苦しそうな呼吸の音だけが響いていた。

「飛翼殿…」

郭嘉は、か細い声で、劉星を呼んだ。

「どうやら、私は、ここまで…のようです。最後に、あなたにだけ、伝えておきたいことがある」

劉星は、黙って彼の言葉を待った。

「殿は…この北伐で、勝ちすぎた。人は、勝ちすぎると、必ずや驕りを生む…。もはや、中原に敵はなし、と。だが、それは、大きな間違いだ」

郭嘉は、一度言葉を切り、苦しそうに咳き込んだ。

「気をつけるのです…南を…」

「南…ですか?」

「そうだ…。荊州の劉備。江東の孫権。彼らは、殿が思っているほど、甘い相手ではない。特に…」

郭嘉の目が、最後の輝きを放った。

「…荊州には、龍が眠っている…。臥龍、と呼ばれる、若き天才が…。その龍が、目覚めた時、天下の勢力図は、大きく塗り変わるでしょう…」

臥龍…。劉星は、その言葉を、心に刻み付けた。

「殿は、次に、必ずや南征を決行される。その時、殿の驕りが、大きな過ちを生まねばよいが…。飛翼殿。君が、殿の手綱を、しっかりと握って差し上げなさい。君は、殿とは違う、冷静な目を持っている。そして、時には、殿に否と唱える勇気も…」

郭嘉は、おぼつかない手つきで、劉星の手を握った。その手は、驚くほど冷たかった。

「頼みましたぞ…。我が君の…そして、天下の未来を…」

それが、彼の最後の言葉となった。

握っていた手から、ふっと力が抜ける。天才軍師・郭嘉は、まるで眠るように、静かに息を引き取った。享年三十八。あまりにも、早すぎる死だった。

劉星は、その亡骸の前で、立ち尽くしていた。

初めて会った時から、この男だけは、自分の本質を見抜き、理解し、そして導いてくれた。父でも、兄でもない、得がたい師であり、友であった。その存在を、永遠に失ってしまったのだ。

彼の目から、一筋の涙が、静かに流れ落ちた。

「…安らかに、郭嘉殿」

劉星は、深く、深く、頭を下げた。

「あなたの言葉、この劉星飛翼、決して忘れはしない」

彼は、心に誓った。郭嘉が憂いていた、未来。その未来から、父を、そして天下を守ること。それが、残された自分にできる、唯一の恩返しだと。

天才の死は、一つの時代の終わりと、そして、劉星に新たな、そして重い責務を託したのだった。

第95話:丞相の孤独

郭嘉の葬儀は、国を挙げて、盛大に行われた。曹操は、彼の死を深く悼み、自ら祭文を読み上げた。その目には、涙が溢れていた。

「奉孝よ! もし、お前が生きていてくれたなら、わしが天下を統一する日は、もっと早かったであろうに!」

その悲痛な叫びは、聞く者の胸を締め付けた。

葬儀の後、曹操は、漢の献帝から、丞相じょうしょうの位を授けられた。三公の制度を廃止し、国の全ての権限を、丞相である曹操一人に集中させるという、前代未聞の措置だった。彼は、名実ともに、この国の最高権力者となったのだ。

その権勢は、かつての董卓をも凌ぐほどだった。諸侯は彼にひれ伏し、役人たちは彼の顔色をうかがった。

だが、その地位が高くなればなるほど、彼の孤独は、深まっていくばかりだった。

広大な丞相府の執務室。そこに、曹操は、一人でいることが多くなった。

彼は、時折、部屋の隅にある、空席になった一つの席を、じっと見つめることがあった。そこは、生前の郭嘉が、いつも座っていた場所だった。

かつては、この場所で、夜が更けるまで、郭嘉と二人きりで、天下の行く末を語り合ったものだった。自分の突飛な発想を、面白がり、的確な助言をくれた唯一無二の友。自分の弱さも、醜さも、全てを理解し、受け入れてくれた男。

その相手は、もういない。

今の自分の周りにいるのは、自分の顔色をうかがう追従者か、あるいは、自分の力を恐れる者たちだけだ。腹を割って話せる相手など、どこにもいなかった。

息子たちは、どうだろうか。長男の曹昂は、もういない。次男の曹丕は、野心家だが、器が小さい。他の息子たちも、まだ頼りない。

そして、劉星。あの息子は、確かに非凡な才能を持っている。だが、彼の心は、決して自分には開かれないだろう。

(わしは、一人か…)

丞相・曹操。天下に最も近い男。だが、その心は、凍えるような孤独に支配されていた。

その孤独を埋めるかのように、彼は、より一層、性急に、天下統一へと突き進んでいくことになる。郭嘉という、唯一の「歯止め」を失った英雄は、やがて、大きな過ちを犯すことになる運命だった。

そのことを、この時の曹操は、まだ知る由もなかった。彼はただ、友を失った寂しさを、権力という酒で、紛らわしているだけだった。

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