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第五章:河北平定と龍の胎動-2

第五章:河北平定と龍の胎動

第86話:運命の出会い

鄴の城が陥落し、城内が勝利の喧騒と、敗者の悲鳴に包まれる中、一人の若者が、真っ先に袁家の屋敷へと馬を駆っていた。曹操の次男、曹丕だった。彼の耳には、かねてより噂に聞いていた、袁煕えんきの妻・しん氏の、類まれなる美貌の噂が届いていた。戦勝のどさくさに紛れて、その美女を自らのものにしようという、浅ましい欲望が彼を突き動かしていた。

袁家の屋敷は、すでに静まり返っていた。男たちは戦死するか、降伏するかして、残っているのは女子供ばかりだった。曹丕は、兵士たちを従え、土足で屋敷に踏み込むと、奥の一室で、恐怖に震えながら寄り添う女たちを見つけ出した。その中に、ひときわ気品があり、そして絶世の美貌を持つ一人の女性がいた。甄氏だった。

「…お前が、甄か」

曹丕は、下卑た笑みを浮かべ、彼女に手を伸ばした。

「良い女だ。今日から、この俺の慰み者にしてやろう」

甄氏は、唇を強く噛み締め、その屈辱に耐えていた。

曹丕が、彼女の衣服に手をかけようとした、その瞬間だった。

「そこまでだ」

静かだが、鋼のような意志のこもった声が、部屋に響いた。

振り返ると、そこに立っていたのは、劉星だった。彼は、城内の治安維持と、略奪行為を取り締まるため、天狼隊を率いて見回りをしていたのだ。

「…飛翼か。何の用だ。ここは、俺の獲物だ。邪魔をするな」

曹丕は、不快感を露わにして言った。

「略奪、そして婦女子への暴行は、父上が定めた軍規で、厳しく禁じられているはず。それは、たとえあなたの身分であっても、許されることではない」

劉星は、冷静に、しかし一歩も引かずに答えた。

「兄に向かって、その口の利き方は何だ!」

曹丕は、激昂した。「俺は、父上の息子だぞ! この程度のことが、なぜ許されん!」

「ならば、なおのことだ。父上の顔に、泥を塗るおつもりか」

二人の若き獅子は、一人の女性を間に挟み、火花を散らした。曹丕の瞳には、欲望と、劉星への嫉妬の炎が燃え盛っていた。劉星の瞳には、軍規を遵守するという正義感と、目の前の女性を守ろうとする、静かな決意が宿っていた。

鄴の戦いは終わったが、新たな戦いの火種が、この場所で、確かに生まれようとしていた。

第87話:誇り高き花

劉星と曹丕が睨み合う、一触即発の空気。その緊張を破ったのは、意外にも、二人の間にいた甄氏本人だった。

彼女は、恐怖に震えていたはずの体を、すっと起こした。そして、乱れた髪を手で整えると、毅然とした態度で、曹丕を見据えた。

「お見苦しいところを、お見せいたしました」

その声は、鈴が鳴るように澄んでおり、不思議なほどの落ち着きがあった。

「私は、袁家の人間です。勝者の慰み者になるくらいならば、ここで自害いたします。この命、決して辱めは受けませぬ」

彼女は、懐から小さな懐剣を取り出すと、自らの喉元に突きつけた。その瞳には、恐怖の色はなく、ただ、自らの誇りを守り抜こうとする、気高い光だけが宿っていた。

その姿に、曹丕は「ちっ」と舌打ちして一歩後ずさった。劉星は、息をのんだ。

(なんという、女だ…)

この戦乱の世にあって、男たちは武力や権力にすがり、敗れれば見苦しく命乞いをする者も多い。だが、この女性は、全てを失った今も、己の誇りという最後の砦だけは、決して明け渡そうとしない。その姿は、どんな屈強な武将よりも、遥かに強く、そして美しく見えた。

(この花を、折らせるわけにはいかない…)

劉星は、強く心を惹きつけられた。守ってやりたい。そう、心の底から思った。

「…分かった。あなたの覚悟、見事だ」

劉星は、静かに言った。「その剣を、収めてほしい。俺が、あなたの身の安全を、必ず保証する」

その言葉に、甄氏は、初めて劉星の顔をまともに見た。彼の瞳には、曹丕のような欲望の色はなく、ただ、誠実な敬意だけが感じられた。彼女は、少しだけ迷った後、静かに懐剣を収めた。

この騒動は、すぐに曹操の耳にも入った。

曹操は、劉星と曹丕、そして甄氏を、自らの前に呼び出した。

曹丕は、父に「劉星が、兄である私に刃向かった」と訴えた。劉星は、「軍規に従ったまでです」と、淡々と事実を述べた。

曹操は、二人の話と、そして甄氏の気高い態度を黙って見ていた。

やがて、彼は、一つの裁定を下した。

「子桓(曹丕の字)よ、お前の行いは、将として、そしてわしの息子として、あるまじき行為だ。厳しく慎め」

まず、息子を叱責した。そして、彼は、意外な言葉を続けた。

「そして、甄氏。あなたは、袁家の嫁ではあるが、その誇りと気概は、誠に見事であった。そのような女性を、路頭に迷わせるわけにはいかぬ」

曹操は、劉星に向き直った。

「飛翼よ。此度の鄴攻略、お前の功績が最も大きい。よって、その褒美として、甄氏を、お前の妻として与える。異論は、認めん」

その言葉に、部屋にいた誰もが、息をのんだ。

第88話:消えぬ遺恨

曹操の裁定は、絶対だった。

曹丕は、怒りと屈辱に顔を歪ませながらも、父の命令に従うしかなかった。だが、この一件は、彼の心に、劉星に対する、決して消えることのない、深い憎しみと嫉妬心を刻み付けた。

(飛翼…! 俺から、何もかも奪う気か! いつか必ず、お前を…!)

彼は、静かに、そして固く、復讐を誓った。

数日後、劉星と甄氏の祝言が、陣中にて、ささやかに執り行われた。

劉星にとって、初めて得る「妻」という存在だった。彼は、どう接していいか分からず、戸惑うばかりだった。

甄氏もまた、複雑な心境だった。夫の一族を滅ぼした敵将に嫁ぐ。それは、彼女にとって、受け入れがたい現実のはずだった。

だが、共に過ごすうちに、二人の間には、少しずつ変化が生まれていった。

劉星は、甄氏の聡明さと、芯の強さに、日増しに惹かれていった。彼女は、ただ美しいだけの女ではなかった。詩文にも通じ、時には、劉星が悩んでいる戦の采配について、的確な助言をくれることさえあった。

甄氏もまた、劉星の誠実で、裏表のない人柄に、次第に心を開いていった。この男は、他の武将たちとは違う。力で人を支配するのではなく、その痛みや悲しみを、理解しようとしてくれる。

「あなた様は、なぜ、私のような者を、お助けになったのですか?」

ある夜、甄氏が尋ねた。

「…分からない」

劉星は、正直に答えた。「ただ、あなたの瞳を見た時、守らねばならない、と思った。それだけだ」

その不器用な、しかし、真っ直ぐな言葉に、甄氏の頬が、微かに赤く染まった。

劉星は、甄氏という存在を得て、初めて、戦以外の安らぎを知った。守るべきものが、また一つ増えた。その事実は、彼を、将として、そして一人の男として、さらに強く、大きく成長させていった。


祝言から数日後の夜、劉星が一人、地図を睨みながら、今後の河北統治について思案に暮れていると、甄氏が静かに茶を運んできた。

「あなた様。まだ、お仕事でございますか」

「ああ…少しな。袁家が滅んだとはいえ、この地の人心は、まだ安定していない。どうすれば、民の心を掴めるか…」

劉星が、思わず弱音を漏らすと、甄氏は、彼の隣に静かに座り、地図を覗き込んだ。

「…あなた様。袁家が、なぜ、民の心を失ったか、ご存知ですか」

「…それは、兄弟争いや、重税のせいだろう」

「それも、ございましょう。ですが、一番は、名士ばかりを優遇し、土地の声を聞かなかったからにございます」

甄氏は、続けた。

「河北の民は、実直で、勤勉です。ですが、その気質ゆえに、為政者に利用されることも多かった。もし、あなた様が、本当にこの地を治めようとお考えなら、まずは、土地の小さな豪族や、村長たちの声に、直接、耳を傾けるべきです。彼らこそが、この土地の、本当の血肉なのですから」

その言葉は、劉星にとって、目から鱗が落ちるような、的確な助言だった。彼女は、ただ美しいだけの女ではない。滅びゆく袁家の内側から、その本質を、冷静に見抜いていたのだ。

「…そなたは、すごいな」

劉星は、初めて、彼女を、一人の聡明な人間として、尊敬の念を込めて見つめた。

甄氏もまた、自分をただの「戦利品」としてではなく、対等な相手として見てくれる夫の眼差しに、頬を染めながらも、確かな安らぎと、未来への微かな希望を感じていた。守るべきものが増えた、という思いは、劉星だけのものではなかった。


だが、その幸せな日々の裏で、兄・曹丕の憎悪の炎が、静かに、しかし確実に、燃え上がっていることを、彼はまだ知らなかった。

第89話:北への遠征

鄴を落とし、袁譚を滅ぼしたことで、河北の地は、ほぼ曹操の手に落ちた。

だが、まだ、残された火種があった。敗れた袁尚が、北方の異民族・烏桓うがんの元へと逃げ込んだのだ。烏桓は、勇猛な騎馬民族であり、彼らが袁家の残党と手を組めば、再び中原を脅かす存在になりかねない。

許都で開かれた軍議の席で、曹操は、烏桓討伐のための北伐を宣言した。

「今、袁家の残党と烏桓を、根絶やしにする! これが、河北平定の、最後の仕上げだ!」

だが、この宣言に、諸将のほとんどが、反対の声を上げた。

「殿、お待ちください! 兵士たちは、長年の戦で、疲弊しきっております!」

「烏桓の住む地は、遠く、道は険しいと聞きます。砂漠を越えての遠征など、あまりにも無謀です!」

「今は、河北の統治を固めるのが先決かと!」

安全策を取ろうとする将軍たちの意見に、曹操は苛立ちを隠せなかった。

「貴様らは、目先の安楽しか見えぬのか! 今、この火種を放置すれば、いずれ大きな災いとなって、我らに降りかかってくるのだぞ!」

軍議が紛糾する中、ただ二人だけが、曹操の意見に賛同した。

一人は、病で痩せ衰えながらも、無理を押して軍議に参加していた、軍師・郭嘉だった。

「…殿の、お考えの通りです…。蛇を打つなら、頭を砕かねばなりませぬ。今、この機を逃せば、必ずや後々の禍根となります。たとえ、困難な道であろうとも、進むべきです」

その声は弱々しかったが、その言葉には、未来を見通す力が宿っていた。

そして、もう一人、静かに立ち上がったのは、劉星だった。

「俺も、郭嘉殿と同意見です。敵が弱い時にこそ、その根を断つべきです。もし、諸将がためらうのであれば…」

彼は、曹操に向き直り、はっきりと言った。

「この俺が、天狼隊を率いて、先陣を務めましょう」

その言葉に、反対していた将軍たちも、ぐっと押し黙った。

曹操は、郭嘉と劉星の顔を、満足げに見つめた。

「よし、決まった! 全軍、北伐の準備にかかれ! 我らの最後の戦いだ!」

曹操の決断により、曹操軍は、前人未到の、過酷な砂漠越えの遠征へと、その歩みを進めることになった。

第90話:白狼山の風

烏桓への道は、想像を絶するほど過酷だった。

夏には、灼熱の太陽が照りつけ、冬には、身を切るような寒風が吹き荒れる。水も食料も乏しく、道らしい道もない。兵士たちは、次々と倒れていった。

「殿、これ以上は無理です! 引き返しましょう!」

弱音を吐く将軍もいた。だが、曹操は、決して諦めなかった。彼は、現地の案内人を使い、かつて誰も通ったことのない、古の抜け道を進むことを決断する。それは、大きな賭けだった。

そして、数百里に及ぶ困難な行軍の末、彼らはついに、烏桓の本拠地へと続く、白狼山はくろうさんに到達した。

曹操軍の突然の出現に、油断していた烏桓軍は、驚愕した。

「曹操が、ここまで来たというのか!」

烏桓の王である単于ぜんう蹋頓とうとんは、慌てて全軍に出撃を命じた。

広大な平原で、両軍は激突した。

烏桓の騎馬軍団は、強かった。彼らは、馬と一体になったかのように、巧みに馬を操り、縦横無尽に駆け巡りながら、弓を放ってくる。その圧倒的な機動力の前に、平原での戦いに慣れた曹操軍の陣形は、たちまち混乱に陥った。

「怯むな! 陣形を崩すな!」

夏侯惇や許褚が叫ぶが、敵の動きは、あまりにも速く、予測不可能だった。

この危機的状況を救ったのが、劉星と張遼が率いる部隊だった。

「円陣を組め! 防御に徹しろ!」

劉星は、敵の戦い方を瞬時に分析した。機動力で劣る以上、正面からぶつかるのは愚策だ。彼は、あえて密集陣形を組んでその場に留まり、盾を固めて、敵の攻撃をひたすら耐え凌ぐという策を取った。

「旦那、これじゃ、ただの的ですぜ!」

周倉が叫ぶが、劉星は動じなかった。

「今は耐える時だ。奴らの勢いが、必ず落ちる瞬間が来る」

劉星の読み通り、烏桓軍は、攻めあぐねて、次第にその動きが鈍くなってきた。

「…今だ! 張遼殿!」

劉星が合図を送ると、これまで守りに徹していた陣形の一部が、突如として開いた。その中央から、張遼が率いる精鋭部隊が、槍のように鋭く、敵陣の中央へと突撃していった。

虚を突かれた烏桓軍の陣形は、見事に分断された。

劉星は、この戦いの中で、騎馬民族の戦い方の恐ろしさと、そして、それに対抗するための新たな戦術を、その肌で学んでいた。

戦いの流れは、少しずつ、曹操軍へと傾き始めていた。だが、本当の勝負は、これからだった。

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