第5話:嵐の後の軍議
第5話:嵐の後の軍議
曹操が目を覚ましたのは、それから半時(約1時間)ほど経ってからだった。場所は、庁舎の奥にある一室。頭には冷たい布が当てられ、隣には、心配そうな顔をした夏侯惇と、面白くてたまらないといった表情を隠そうともしない郭嘉が控えていた。
「…あの小僧は、どこだ」
掠れた声で曹操が尋ねる。顔には、殴られた腫れはないが、それ以上に深い疲労と屈辱の色が浮かんでいた。
「別室にて、丁夫人と共におられます」
「斬れ。今すぐあの小僧の首を刎ねよ! 我が面目をここまで潰しておいて、生かしておけるものか!」
曹操は激昂し、寝台から起き上がろうとしたが、精神的な衝撃からか、体に力が入らなかった。夏侯惇が慌てて彼を制する。
「殿、お鎮まりください! 劉星殿は、亡き劉伯殿の甥。そして、春蘭殿の忘れ形見にございます。この苦しい戦況の中、無碍にはできませぬ」
「元譲! 貴様はどちらの味方だ!」
「お待ちを」
その時、郭嘉が静かに口を開いた。
「殿。これは面白い賭けですぞ」
「何が賭けだ、奉孝!」
「あの劉星という少年。怪力無双の典韋殿を赤子のように投げ飛ばす武勇。そして、殿を前にしても一歩も引かぬ胆力。これは、間違いなく非凡な器の証。その血は、まさしく殿のものです」
郭嘉の言葉に、曹操はぐっと押し黙る。息子の才能は、認めざるを得なかった。
「このような逸材、殺すのは惜しい。何より…」郭嘉は声を潜め、決定的な一言を放った。「この一件、必ずや城下に広まります。その時、あなたが実の子を無慈悲に斬ったと知られれば、いかに天下の諸侯は思うでしょうかな。『曹操は身内にも非情な男よ』と。それは、殿がこれから成し遂げようとする覇業にとって、小さからぬ疵となりましょう」
曹操の顔から、サッと血の気が引いた。世評と人望。それを失うことの恐ろしさを、彼は誰よりも知っていた。
「では、どうしろと申すのだ…」
「飼ってみるのです。猛獣を、手元に置いてみるのです。制御できぬなら、面白い鎖に繋げばよろしい」
郭嘉は、楽しそうに続けた。
「客将として遇し、彼の働き場所を与えてやるのです。ただし、兵は与えませぬ。『兵は己で集めよ』と。この敗戦続きの状況で、一兵卒も持たぬ将軍に、何ができましょうか。それで彼が何もできぬなら、それまでの男。もし何かを成し遂げるようなら…それこそ、この窮地を脱する、思いがけない力となりましょう」
それは、実に郭嘉らしい、悪魔的な提案だった。生かさず殺さず、その力を試す。
そこへ、丁夫人が入ってきた。彼女は何も言わず、ただじっと曹操を見つめる。その瞳が「この子に何かあれば、私はあなたを許さない」と雄弁に物語っていた。
四面楚歌。曹操は、大きく、深いため息をついた。
「…分かった。その小僧を呼べ」
やがて、劉星が部屋に通された。彼は、まだ反抗的な目をしていた。
「劉星とやら。貴様の武勇と胆力、見事であった」
曹操は、苦々しげに言った。
「貴様を我が客将として迎えよう。だが、勘違いするな。これは貴様を認めたわけではない。亡き者たちへの、わしのけじめだ」
そして、彼は郭嘉の筋書き通りに続けた。
「将の位は与える。だが、兵は一人も与えん。兵は、貴様自身の力で集めてみせよ。それができぬなら、大人しく国へ帰るがいい」
それは、常人には不可能な無理難題だった。だが、劉星は臆することなく、真っ直ぐに曹操を見返した。
「望むところだ。あの世の母も、卑怯な父に物乞いする姿など見たくはあるまい」
その言葉に、曹操の額に青筋が浮かぶ。
「…下がれ」
劉星は一礼もせず、部屋を後にした。
嵐のような一日は、こうして幕を閉じた。残されたのは、心に深い傷を負った英雄と、胃痛に苦しむ将軍と、満足げに微笑む軍師。そして、たった一人で乱世に放り出された、一匹の若き狼だった。彼の本当の戦いは、まさに今、始まろうとしていた。