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第四章:官渡の咆哮-3

第四章:官渡の咆哮

第71話:父の背中

荀彧からの書簡は、曹操軍全体に、新たな活気をもたらした。総大将である曹操が迷いを断ち切ったことで、将兵たちの心にも、再び「戦う」という覚悟が定まったのだ。

「これより、退却という言葉は、我が軍には存在しない! この官渡の地を、我らの墓場とするか、あるいは、袁紹の墓場とするか、だ!」

曹操の檄は、力強かった。

劉星は、そんな父の姿を、複雑な思いで見つめていた。

これまでの劉星にとって、父は憎むべき存在であり、同時に、乗り越えるべき個人的な壁だった。だが、今、彼の目に映る曹操は、それだけではなかった。

彼は、多くの部下の信頼と命を背負い、絶望的な状況下で、国の運命をその双肩に担っている。その姿は、一人の息子から見た「父」ではなく、一人の将から見た「王」の姿だった。

(この人は、強い…)

劉星は、初めて、心の底からそう思った。それは、武勇や知略といった表面的な強さではない。どれほどの重圧に晒されても、決して折れることのない、精神の強靭さ。そして、部下たちに「この人になら、命を預けられる」と思わせる、人間的な器の大きさ。

自分には、まだそれがない。仲間を守りたいという思いはあっても、これほど多くの人間の運命を背負う覚悟が、果たして自分にあるだろうか。

その夜、劉星は一人、父の陣幕を訪れた。何の用事もない。ただ、話がしてみたかったのだ。

「…飛翼か。入れ」

曹操は、灯りの下で、地図を睨みながら、静かに劉星を招き入れた。

「何か用か?」

「いえ…別に、用というわけでは…」

劉星は、言葉に詰まった。何を話せばいいのか、分からなかったのだ。

気まずい沈黙が、二人の間に流れた。

その沈黙を破ったのは、曹操の方だった。

「…お前は、わしのことを、まだ憎んでいるか」

その問いは、あまりにも直接的だった。劉星は、一瞬、息をのんだ。

「…憎んでいます」

彼は、正直に答えた。「母のこと、兄上のこと。忘れることはできません」

「そうか…」

曹操は、寂しそうに笑った。

「それで良い。お前は、その憎しみを、忘れるな。だが、それだけが、お前の全てではないはずだ。お前には、守るべき仲間がいる。そして、お前がこれから成すべき、道がある」

曹操は、地図から顔を上げ、真っ直ぐに劉星の目を見た。

「飛翼よ。わしはお前に、何もしてやれなかった。だが、これだけは言っておく。お前は、わしの息子だ。その血に流れる力を、信じろ。そして、いつか…このわしを超えてみせよ」

それは、父としてではなく、一人の英雄が、もう一人の英雄へ送る、挑戦状のようだった。

劉星は、その言葉の重みに、ただ圧倒された。憎い父。だが、自分を最も理解しているのもまた、この男なのかもしれない。

劉星は、何も言わずに、深く一礼して陣幕を出た。

父と子の間の溝は、まだ埋まってはいない。だが、その夜、二人の間には、確かに、これまでとは違う、新たな関係が生まれようとしていた。劉星は、父の巨大な背中を、いつか必ず超えてみせると、心に誓った。

第72話:夜の訪問者

曹操が覚悟を決め、軍の士気が再び高まった数日後の夜。

陣営の哨戒にあたっていた兵士が、一人の怪しい男を捕らえた。男は、袁紹軍の服を着ていたが、武器は持っておらず、「曹操殿に、お目通りを願いたい! 緊急の知らせがある!」と叫んでいたという。

男は、曹操の前に引き出された。その男の名は、許攸きょゆう、字は子遠しえん。袁紹軍の参謀の一人であり、そして、曹操の古い友人でもあった。

「おお、子遠ではないか! よくぞ参られた!」

曹操は、その男の姿を見るなり、履物も履かずに裸足のまま駆け寄ると、旧友との再会を、満面の笑みで喜んだ。

だが、許攸の表情は、険しかった。

「孟徳よ、白々しい真似はよせ。お前は、わしが袁紹の下から逃げてきたことを、知っているはずだ」

許攸は、彼の親族が罪を犯したことで、袁紹軍の留守を預かる審配に逮捕され、そのことに腹を立てて、袁紹を見限ってきたのだった。

「まあまあ、固いことを言うな。さあ、まずは一杯」

曹操は、許攸を席に着かせようとするが、許攸はそれを手で制した。

「酒を飲みに来たのではない! わしは、袁紹を破るための、決定的な策を持ってきたのだ! それを聞く気があるのか、ないのか!」

許攸は、いらだった声で言った。

「ほう、策とは?」

「お前の軍の兵糧は、あとどれくらい持つ?」

許攸の問いに、曹操は笑って答えた。

「はっはっは、心配には及ばん。あと一年は、十分に戦える」

「嘘をつけ!」

許攸は、一喝した。「お前の軍の兵糧が、とっくに底をついていることなど、お見通しだ! そのような態度では、わしの策を授けることはできん!」

その言葉に、曹操は、全ての芝居をやめた。彼は、真剣な顔で頭を下げた。

「…すまなかった、子遠。実を言うと、兵糧は、あと一月も持たん。我らは、まさに絶体絶命の窮地にある。どうか、その知恵を貸してはくれまいか。この通りだ」

曹操の真摯な態度に、許攸もようやく満足したようだった。彼は、声を潜め、恐るべき情報を明かした。

「…袁紹軍の、全ての兵糧が、どこに集積されているか、知っているか?」

「…どこだ?」

烏巣うそうだ」

許攸は、続けた。

「烏巣は、ここから数十里離れた場所にある。そして、そこを守る将軍・淳于瓊じゅんうけいは、酒好きで、警備も手薄だ。もし、今夜、精鋭部隊でそこを奇襲すれば、袁紹軍の命綱を、断ち切ることができるぞ」

それは、まさに乾坤一擲の、起死回生の策だった。

曹操の目が、ギラリと光った。闇の中に、ようやく一筋の光が見えた瞬間だった。

第73話:最後の賭け

許攸からもたらされた情報は、曹操軍の本陣に、大きな動揺をもたらした。

「烏巣を奇襲するだと!?」

曹操が、軍議の席でその策を発表すると、諸将の中から、一斉に反対の声が上がった。

「罠です、殿! 許攸は、我らを誘き出すための、袁紹のスパイに違いありません!」

「そうだ! 我らが本陣を空にして烏巣へ向かったところを、袁紹軍の本隊に襲われたら、ひとたまりもありませんぞ!」

「危険すぎます! 今は、城を守ることに専念すべきです!」

将軍たちのほとんどが、この策に反対だった。あまりにも、リスクが高すぎる。この絶望的な状況が、彼らを臆病にさせていた。

曹操もまた、決断をしかねていた。許攸は旧友だが、完全に信用できるわけではない。もし、これが本当に罠だったら…。彼の脳裏に、宛城での悪夢が蘇る。

軍議の席は、重い沈黙に支配された。誰もが、下を向き、互いの顔を見合わせようともしない。敗北の空気が、再び陣営を覆い尽くそうとしていた。

その沈黙を、破った者がいた。

劉星だった。

彼は、静かに立ち上がると、居並ぶ将軍たちを見回した。

「…情けない顔をするな」

その声は、若さに似合わず、不思議なほどの重みを持っていた。

「罠かもしれない? 危険すぎる? 当たり前だ。戦とは、常に危険なものだ。だからこそ、そこに勝機があるのではないか」

彼は、一歩前に進み出ると、言葉を続けた。

「俺たちは、飢えている狼だ。このまま巣穴に籠もっていれば、やがては餓死するだけだ。だが、目の前に、傷を負った巨大な獲物がいる。腹を空かせた狼が、その獲物を見逃して、どうする!」

彼の言葉に、将軍たちは、はっと顔を上げた。

「俺には、難しい兵法は分からん。だが、これだけは分かる。好機というものは、待っているだけでは、決して訪れない。それは、血と泥の中から、自らの手で掴み取るものだ!」

劉星は、曹操の前に進み出ると、その場に膝をついた。

「父上。どうか、ご決断を。この最後の賭け、もしお乗りになるのであれば…」

彼は、顔を上げ、力強く言い放った。

「この戦、我ら天狼隊が、先陣を承る! 我らが、その牙で、勝利への道をこじ開けてみせましょう!」

その叫びは、まるで狼の咆哮のようだった。それは、臆病風に吹かれていた将兵たちの心を、根こそぎ吹き飛ばすほどの、力強い響きを持っていた。

曹操は、息子の目を見た。そこには、何の迷いもなかった。あるのは、勝利への渇望と、死をも恐れぬ覚悟だけだった。

(こいつは…本当に、わしの息子か…)

曹操は、立ち上がった。その目にもまた、決意の光が宿っていた。

「…よし、決めた! 全軍に告ぐ! これより、我らは烏巣を奇襲する! この一戦に、我が軍の存亡を賭ける!」

総大将の、最後の賭けが、始まった。

第74話:狼の咆哮

曹操の決断は、軍議の空気を一変させた。そして、その決断を後押しした劉星の咆哮は、将兵たちの心に、忘れかけていた闘争心という火を灯した。

「うおおおっ! やってやろうじゃねえか!」

「どうせ死ぬなら、戦って死ぬまでだ!」

先程までの重苦しい空気は、嘘のように消え去っていた。

作戦は、直ちに開始された。

曹操は、自ら五千の精鋭兵を選抜し、烏巣への奇襲部隊を編成した。その中には、もちろん、劉星率いる天狼隊も含まれていた。許褚や張遼といった、屈指の猛者たちも、この決死隊に志願した。

「夏侯惇、荀攸じゅんゆうよ」

曹操は、留守を預ける二人の将に命じた。

「お前たちは、この本陣を固く守れ。わしらが烏巣を攻めている間、袁紹の本隊が、必ずやここを攻めてくるだろう。何としても、持ちこたえよ」

「御意!」

夏侯惇は、独眼を光らせ、力強く頷いた。

準備が整い、奇襲部隊は、夜の闇に紛れて、静かに出陣した。

彼らは、袁紹軍の兵士を装うため、その旗印を使い、松明の明かりも最小限に抑えていた。敵地深くを進む、息の詰まるような行軍だった。

その先導役を務めたのは、劉星と天狼隊だった。彼らは、これまでの遊撃戦で培った経験を活かし、敵の哨戒網を巧みに避けながら、安全な道を選んで進んでいった。

「静かに進め。狼の狩りは、獲物に気づかれては終わりだ」

劉星は、隊員たちに、そう指示を飛ばす。

行軍の途中、彼らは袁紹軍の巡回部隊と何度か遭遇した。

「何者だ!」

敵の兵士が、松明をかざして尋ねる。

その時、曹操の側近の一人が、機転を利かせて大声で答えた。

「我らは、袁紹公の命を受け、烏巣の警備へと向かう者だ!」

その堂々とした態度に、敵兵は疑うこともなく、道を開けた。

いくつかの危機を乗り越え、彼らは夜明け前、ついに烏巣の近くまで到達した。

遠くに見える、巨大な兵糧の山。そして、その周りに点在する、まばらな篝火。守将の淳于瓊は、許攸の言った通り、酒宴を開いているのか、陣営からは陽気な歌声さえ聞こえてくる。警備は、驚くほど手薄だった。

「…来たぞ」

曹操が、低い声で言った。

劉星は、隣にいる張遼と、許褚の顔を見た。二人とも、獰猛な笑みを浮かべている。周倉も、大斧を握る手に力を込めていた。

「全軍に伝えよ」

曹操は、剣を抜きながら、最後の命令を下した。

「火を放て。烏巣を、地獄の業火で焼き尽くすのだ。そして、抵抗する者は、一人残らず斬り捨てよ!」

その声は、もはや人間のそれではなく、地獄から響いてくる魔王の号令のようだった。

狼たちが、一斉に、その牙を剥く時が来た。

第75話:闇夜の進軍

烏巣の陣営は、完全に油断しきっていた。守将の淳于瓊は、部下たちと酒盛りを始め、多くの兵士が持ち場を離れていた。まさか、敵の大軍が、自分たちの喉元まで迫っているとは、夢にも思っていなかったのだ。

「…今だ! かかれ!」

曹操の号令と共に、五千の精鋭兵が、一斉に鬨の声を上げた。

彼らは、松明を手に、四方八方から烏巣の陣営へと突撃した。

「な、何だ!?」

「敵襲! 敵襲だ!」

袁紹軍の兵士たちは、突然の奇襲に、パニックに陥った。寝ぼけ眼で飛び出してきた者、慌てて武器を探す者。もはや、組織的な抵抗は不可能だった。

「火を放て! 全て燃やし尽くせ!」

曹操軍の兵士たちは、兵糧の山に、次々と松明を投げ込んだ。乾燥した穀物やまぐさは、たちまち激しい炎を上げて燃え上がった。

炎は、風にあおられ、瞬く間に陣営全体を包み込んでいく。

「うわあああっ!」

逃げ場を失った袁紹軍の兵士たちが、炎に巻かれて絶叫する。

烏巣は、文字通り、地獄の業火に包まれた。

その地獄の中心で、最も激しく戦っていたのが、劉星と天狼隊だった。

「敵将・淳于瓊を探せ!奴の首を獲るぞ!」

劉星は、混乱の極みにある敵陣の中で、冷静に目標を定めていた。この奇襲を完全に成功させるには、敵の大将を討ち取らねばならない。

「旦那、あそこだ!」

周倉が、一際大きな天幕を指さした。そこから、泥酔した様子で、淳于瓊がよろよろと出てくるのが見えた。

「何事だ、騒々しい…ひっ!」

彼は、目の前に広がる地獄絵図を見て、ようやく事態を把握し、顔面蒼白になった。

「逃がすな!」

劉星が叫ぶ。

淳于瓊は、慌てて馬に乗って逃げようとするが、その前に、岩のような巨漢が立ちはだかった。

「許褚仲康、見参! 貴様の相手は、この俺だ!」

許褚が、淳于瓊を足止めしている間に、劉星と張遼が、その左右を固めた。

もはや、逃げ場はない。

「おのれ、曹操の犬どもめ!」

淳于瓊は、やけくそになって剣を振り回すが、三人の猛者の敵ではなかった。

最後は、劉星が放った短剣が、彼の喉を正確に貫いた。

「敵将・淳于瓊、討ち取ったり!」

劉星の勝利の雄叫びが、燃え盛る烏巣に響き渡った。

それは、官渡の戦いの勝敗を、そして、天下の行方を決定づける、歴史的な雄叫びだった。

闇夜の進軍は、完璧な奇襲成功という、最高の結果をもたらした。だが、本当の戦いは、これからだった。


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