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第四章:官渡の咆哮-1

第四章:官渡の咆哮

第61話:北の巨人

宛城の悲劇から二年。建安四年(199年)、中原の勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。

北方に、一つの巨大な影が、その勢力を盤石なものとしていた。その影の名は、袁紹えんしょう。四代にわたって三公を輩出した名門・袁家の当主である。

彼は、長年のライバルであった公孫瓚こうそんさんを滅ぼし、冀州きしゅう青州せいしゅう并州へいしゅう幽州ゆうしゅうの四州を完全に手中に収めた。その兵力は数十万を数え、許都に拠点を置く曹操とは、もはや比較にならないほどの国力を誇っていた。

「袁紹、ついに南征を決意! 曹操討伐の大軍を編成中!」

その報せは、許都に激震をもたらした。誰もが、曹操の時代の終わりを予感した。兵力、物量、家柄、その全てにおいて、袁紹は曹操を圧倒している。正面から戦って、勝ち目はない。許都の空気は、日に日に重く、絶望的な色を帯びていった。

劉星もまた、その巨大な脅威を肌で感じていた。彼は、この二年で、心身ともに大きく成長していた。兄・曹昂の死を経て、彼の目からはかつての感情的な鋭さが消え、代わりに戦局全体を冷静に見渡す、将としての深みが備わっていた。天狼隊も、彼の指揮のもと、今や曹操軍の中でも屈指の精鋭部隊として知られるようになっていた。

だが、そんな彼でさえ、袁紹という北の巨人の前では、自らの力がちっぽけなものに感じられた。

「旦那、いよいよですかい。今度の敵は、呂布以上かもしれやせん」

周倉が、緊張した面持ちで言った。

「ああ。国力で言えば、比較にもならん。だが…」

劉星は、練兵場で黙々と汗を流す隊員たちを見ながら言った。

「戦は、数だけで決まるものではない。それを、俺たちは兗州で学んだはずだ」

彼の言葉に、隊員たちの顔が引き締まる。そうだ、俺たちには、この二年で培った絆と、頭領がいる。

そんな折、曹操は、天下分け目の大戦を前に、一つの決断を下した。

「袁紹と戦う前に、後背の憂いを断つ!」

彼の目が向いたのは、東の徐州。そこには、かつて曹操の下から離反した、劉備という人物がいた。彼は、先の戦いで敗走した呂布を客将として迎え入れ、今や徐州で独自の勢力を築きつつあった。そして、その劉備が、袁紹と密かに通じているという情報があったのだ。

「全軍に出陣を命ずる! まずは徐州を討ち、劉備と呂布を滅ぼす! その後、全軍で北上し、袁紹との決着をつける!」

曹操の号令が、許都に響き渡った。

諸将は、その決断に驚いた。強大な袁紹を前に、兵力を二分するような行動は、あまりにも危険すぎる。

だが、曹操の決意は固かった。

劉星は、父のその決断に、常人離れした胆力と、そして狂気にも似た何かを感じていた。

天下分け目の決戦は、まず東の地で、その火蓋が切られようとしていた。

第62話:下邳の再会

曹操軍の進撃は、迅速だった。彼らは、袁紹軍が本格的に動き出す前に、電光石火の速さで徐州へと侵攻した。

不意を突かれた形の劉備軍は、なすすべもなく敗走。劉備自身は、わずかな手勢と共に、北の袁紹を頼って落ち延びていった。

だが、徐州の州府・下邳かひ城には、あの男が残っていた。

呂布だ。

彼は、劉備に裏切られる形で城に孤立し、曹操の大軍に包囲されることとなった。

「がははは! 曹操め、また会ったな! 今度こそ、貴様の首をこの手で刎ねてくれるわ!」

呂布は、城壁の上から、相変わらずの自信に満ちた声で叫んだ。

だが、その内情は、火の車だった。劉備が去ったことで兵力は激減し、士気も低い。

曹操は、力攻めを避けた。彼は、城の近くを流れる沂水きすい泗水しすいの流れを変え、下邳城を水攻めにするという、大掛かりな作戦を実行した。

日を追うごとに、城内の水位は上がり、兵士たちは水に浸かりながら、飢えと寒さに苦しめられた。

絶対的な武勇を誇る呂布も、この水という、形のない敵の前では、なすすべがなかった。

一月後、ついに呂布の部下が裏切り、城門を開いた。曹操軍は、一斉に城内へとなだれ込む。

劉星も、天狼隊を率いてその中にいた。彼が目にしたのは、水浸しになった城内で、呆然と立ち尽くす呂布軍の兵士たちの姿だった。

やがて、呂布自身も捕らえられ、曹操の前に引き出された。彼は、縄でがんじがらめにされ、もはやかつての威厳はなかった。

その隣には、陳宮、そして張遼の姿もあった。

「曹操殿! この縄を少し緩めてはくれまいか。そうすれば、この呂布、天下統一のために、殿の先鋒となって差し上げようぞ!」

呂布は、見苦しく命乞いを始めた。その姿は、かつて劉星を吹き飛ばした「最強の男」の面影を、微塵も感じさせなかった。

曹操は、冷たく言い放った。

「貴様は、丁原と董卓を裏切った男だ。そのような男を、どうして信用できようか」

そして、兵に命じた。

「この者を、白門楼の下で、絞首とせよ」

「ま、待ってくれ! 曹操殿!」

呂布の悲鳴も虚しく、彼は兵士たちに引きずられていった。

飛将・呂布。そのあまりにも呆気ない末路を、劉星は複雑な思いで見つめていた。最強の武勇も、信義と器がなければ、かくも無価値なものか。乱世の厳しさを、彼はまた一つ学んだ。

第63話:文遠、降る

呂布と陳宮が処刑された後、最後に残されたのは張遼だった。彼は、縄で縛られながらも、少しも臆した様子はなく、真っ直ぐに曹操を睨みつけていた。

「張遼、貴様も何か言いたいことはあるか」

曹操が尋ねると、張遼は、ふんと鼻で笑った。

「何もない。濮陽での戦で死ななかったのが、我が一生の不覚よ。さあ、早く殺せ! この首、くれてやるわ!」

その潔い態度に、曹操も感心したようだった。だが、彼の部下を数多く殺した張遼を、生かしておくわけにはいかない。

「…斬れ」

曹操が、非情な命令を下そうとした、その瞬間。

「お待ちください!」

二つの声が、同時に響いた。

一人は、劉星。そしてもう一人は、これまで黙って戦況を見守っていた、一人の赤ら顔の武将だった。その武将は、劉備の義弟であり、今は曹操に客将として身を寄せている、関羽かんうその人だった。

劉星と関羽は、同時に曹操の前に進み出た。

「殿。この男は、真の武人です。その義理堅さと武勇は、我らもよく知るところ。ここで殺してしまうのは、あまりにも惜しい人材にございます」

関羽が、そう言って頭を下げる。

続いて、劉星も口を開いた。

「父上。この男の強さは、本物です。それは、俺自身が、この肌で感じています。そして、彼の心根は、決して呂布のような卑劣なものではない。彼が仕えるべき主君を間違えただけなのです」

劉星は、張遼の方へ向き直った。

「張遼殿。あんたの武は、腐った主君の下で朽ち果てるべきものではない。俺の元へ来い。天狼隊では、出自も過去も問わん。あるのは、実力だけだ。俺が、あんたのその武を、存分に振るえる場所を作ってやる」

その言葉は、張遼の胸に深く突き刺さった。彼は、劉星の目をじっと見つめた。その瞳には、かつて濮陽の炎の中で見たのと同じ、純粋で、そして底知れない光が宿っていた。この若者は、本気で言っている。

張遼は、しばらく天を仰いでいたが、やがて、深く、長いため息をついた。

そして、彼はゆっくりと膝をついた。

「…降伏する。だが、曹操殿にではない。この劉星、字は飛翼殿。あなたに、この身を預けよう」

それは、異例の降伏だった。曹操は、一瞬、不快な顔をしたが、関羽と劉星という、今や軍の重鎮となった二人の顔を立てないわけにはいかなかった。

「…よかろう。張遼の身柄は、飛翼、お前に預ける。せいぜい、うまく使いこなしてみせるがいい」

こうして、張遼は一命を取り留め、天狼隊の客将として、劉星の下に加わることになった。

宿敵から、仲間へ。

二人の若き英雄の運命が、この下邳の地で、大きく交差した瞬間だった。

第64話:義の武人

張遼が仲間になったことで、劉星は大きな戦力を得た。だが、それ以上に、彼はもう一人の人物に、強い興味を惹かれていた。

関羽、字は雲長うんちょう

劉備の義弟であり、その武勇は「万人の敵」と称される、当代きっての豪傑だ。

劉星は、下邳城の攻略後、何度か関羽と話す機会を得た。

関羽は、口数の少ない男だった。だが、その一言一言には、重みと、そして揺るぎない信念が感じられた。彼は、曹操から破格の待遇を受けていたが、その心は、常に兄である劉備の元にあった。

「私は、兄者との誓いのために生きている。桃園で交わした、漢室を助け、民を救うという誓いをな」

ある夜、月を見上げながら、関羽は劉星にそう語った。

「曹操殿は、確かに非凡な御方だ。だが、あの方の目指す道と、我らの目指す道は、似ているようで、どこか違う」

その言葉は、劉星の胸に深く響いた。自分もまた、父のやり方に疑問を抱いている。この義の武人もまた、同じように感じているのか。

「関羽殿。あなたの兄、劉備玄徳とは、いかなる人物なのですか?」

劉星は、ずっと気になっていたことを尋ねた。これほどの武人を、心酔させるほどの人物とは、一体どんな男なのだろうか。

その問いに、関羽の厳しい顔が、ふっと和らいだ。

「兄者はな…」

彼は、どこか懐かしむように、そして誇らしげに語り始めた。

「特別な何かを持っているわけではないのかもしれん。だが、あの方には、人を惹きつけてやまない、不思議な徳がある。むしろを織って生計を立てていた頃から、それは変わらん。あの方のためなら、死ねる。そう思わせる何かが、あの方にはあるのだ」

その言葉を聞いて、劉星は、天狼隊の隊員たちの顔を思い浮かべた。自分にも、そう思ってくれる仲間がいるだろうか。そして、自分は、劉備という男のようになれるだろうか。

「飛翼殿」

関羽は、劉星に向き直った。

「お主の戦いぶり、濮陽の時から聞き及んでいる。お主の瞳には、迷いがある。それは、若さゆえか、あるいは、その出自ゆえか。だが、その迷いこそが、お主を強くするだろう。己の信じる『義』の道を見つけ出すまで、悩み、苦しむが良い。それこそが、武人として生きるということだ」

関羽の言葉は、まるで老師のように、劉星の心の芯まで届いた。

劉星は、この赤ら顔の武人に、深い敬意を抱いた。彼こそが、真の武人だ。生き方そのものが、一つの「義」を体現している。

この出会いは、劉星のその後の人生に、大きな影響を与えることになる。彼は、自らが目指すべき武人像の一つを、この関羽という男の中に見出したのだった。

第65話:白馬の先陣

下邳を平定し、許都に凱旋した曹操軍に、休む暇はなかった。建安五年(200年)、ついに北の巨人・袁紹が、大軍を率いて南下を開始したのだ。

最初の激突の地となったのは、黄河のほとりにある、白馬はくばという場所だった。

袁紹軍の先鋒を務めるのは、河北が誇る猛将・顔良がんりょう。彼の率いる部隊は、凄まじい勢いで白馬の渡しに迫り、これを守る曹操軍の将を次々と討ち取っていった。

「顔良、強し! 我が軍の将では、誰も相手にならぬ!」

曹操の本陣に、次々と悲報がもたらされる。兵士たちの間には、早くも敗戦ムードが漂い始めていた。

「…やむを得ん。関羽殿、あなたの力を借りる時が来たようだ」

曹操は、最後の切り札として、関羽に出陣を依頼した。

「承知した。兄者のために、しばし曹操殿の恩に報いよう」

関羽は、静かに頷くと、愛用の青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうを手に取った。

そのやり取りを見ていた劉星は、曹操の前に進み出た。

「父上! この戦、我ら天狼隊も、関羽殿に同行させてください!」

「何だと? 飛翼」

「義の武人が、いかなる戦いを見せるのか。この目で、しかと見届けたいのです。そして、我らも、その露払いを務めさせていただきます」

その申し出に、関羽も異存はなかった。

「よかろう。飛翼殿ほどの武人がいてくれれば、心強い」

曹操は、二人の気迫に押され、それを許可した。

白馬の戦場は、すでに袁紹軍の勢いに呑まれかけていた。顔良は、馬を駆り、味方の兵士を勇気づけながら、曹操軍の本陣へと迫ってくる。その威風堂々たる姿は、まさに鬼神のようだった。

「あれが、顔良か…」

劉星は、丘の上から敵将の姿を捉え、息をのんだ。その武威は、かつて対峙した呂布にも劣らないかもしれない。

「飛翼殿、張遼殿。左右の敵兵は、お主らに任せる」

関羽は、静かに言った。

「顔良の首は、この関雲長が獲って参る」

その言葉に、有無を言わせぬ自信がみなぎっていた。

「行くぞ!」

関羽は、赤兎馬に鞭を入れた。劉星と張遼も、それに続く。

「天狼隊、続け! 関羽殿のために、道を開けよ!」

劉星の号令一下、天狼隊は敵陣の側面に突撃した。張遼もまた、その冷静沈着な指揮で、もう一方の側面を崩していく。

彼らが敵兵を引きつけている間に、関羽はただ一人、敵陣の中央を、一直線に顔良目指して突き進んでいった。

それは、常人には考えられない、あまりにも無謀な突撃だった。

劉星は、固唾をのんで、その赤い甲冑の背中を見つめていた。


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