第三章:宛城の慟哭-4
第三章:宛城の慟哭
第56話:兄の犠牲
「兄上えええええっ!」
劉星の絶叫が、炎と喧騒に包まれた戦場に虚しく響いた。
目の前で、兄・曹昂の体が、敵兵の波に飲み込まれていく。彼の振るう剣が、最後の輝きを放ち、そして、力なく地に落ちた。
優しかった兄の、あまりにも壮絶な最期だった。
「…う…ああああああああああっ!」
劉星の中で、何かが切れた。思考が、白く染まる。悲しみも、怒りも、恐怖も、全てが混ざり合い、一つの純粋な破壊衝動へと変わった。
彼は、獣のような咆哮を上げると、敵兵の中に一人で突っ込んでいった。その動きは、もはや人間のそれではない。ただ、目の前の敵を殺すことだけを目的とした、死神の舞だった。
短剣が、閃光のように煌めく。敵兵の喉を、心臓を、眉間を、正確に貫いていく。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、機械的に、効率的に、命を刈り取っていくだけだった。
その鬼気迫る姿に、歴戦の兵である張繡軍の兵士たちも、恐怖に顔を引きつらせた。
「ひ、ひいっ! 化け物だ!」
「来るな! こっちへ来るな!」
「旦那! お気を確かに!」
周倉が、慌てて劉星の腕を掴んで引き戻そうとするが、劉星はそれを振り払った。
「離せ! あいつらを、一人残らず、殺す…!」
だが、その時、劉星の体に、限界が訪れた。連戦の疲労と、兄を失った精神的衝撃。彼の視界が、ぐにゃりと歪み、膝から崩れ落ちそうになる。
その体を、後ろから駆けつけた許褚が、力強く支えた。
「飛翼! しっかりしろ! 今は、生き延びることだけを考えろ! 子脩殿の死を、無駄にする気か!」
許褚の怒声に、劉星ははっと我に返った。そうだ、兄は、父を、そして自分たちを、生かすために死んだのだ。ここで自分が死んでは、兄の犠牲が、本当に無駄になってしまう。
「…行くぞ」
劉星は、涙をこらえ、絞り出すように言った。
「ここから、脱出する」
彼は、敵兵が怯んだ隙を突き、兄が倒れた場所へと駆け寄った。そして、その亡骸を、自らの背中に負った。
「…兄上、帰りましょう。一緒に…」
兄の体は、まだ温かかった。だが、その温もりは、刻一刻と失われていく。その事実が、劉星の心をナイフのように抉った。
曹昂という、かけがえのない犠牲の上に、彼らの血の脱出路は、かろうじて開かれたのだった。
第57話:間に合わなかった手
兄の亡骸を背負った劉星の瞳からは、光が消えていた。彼は、もはや一人の武将ではなかった。ただ、兄の体を故郷へ届けようとする、傷ついた弟だった。
「飛翼、前だ!」
許褚の声に、劉星は顔を上げた。脱出路の先に、父・曹操の姿が見えた。彼は、数人の護衛と共に、追っ手と戦いながら、必死に活路を開こうとしていた。
「父上!」
劉星は、最後の力を振り絞り、曹操の元へと駆けた。
曹操は、血まみれの姿で駆けつけてきた劉星と、その背中にあるものを見て、全てを悟った。
「子脩…は…」
その声は、覇者とは思えぬほど、か細く震えていた。
劉星は、何も答えなかった。答える必要もなかった。
「退くぞ! 全員、俺に続け!」
曹操は、悲しみを振り払うかのように、大声で叫んだ。
劉星、許褚、そして生き残った天狼隊と親衛隊。彼らは一つの塊となり、最後の包囲網を突破しようと試みた。
だが、張繡軍の追撃は、執拗だった。
「曹操を逃がすな! 討ち取った者には、千金の褒美をくれてやる!」
敵将の言葉に、兵士たちは目の色を変えて襲いかかってくる。
劉星は、兄を背負ったまま、片手で短剣を振るった。その動きは、神がかってさえいた。背中の兄の重みが、彼の力を限界以上に引き出しているかのようだった。
だが、多勢に無勢。一人、また一人と、仲間が倒れていく。周倉も、全身に傷を負い、その動きは鈍くなっていた。
もはや、ここまでか――。
誰もが、死を覚悟した、その時だった。
「殿! ご無事でしたか!」
東の空が白み始める頃、一筋の光が差し込むように、新たな部隊が戦場に現れた。夏侯惇だった。彼は、独眼を爛々と輝かせ、別動隊を率いて主君の救出に駆けつけたのだ。
「夏侯惇! よく来てくれた!」
夏侯惇の部隊が、追撃軍の側面に猛然と突っかかった。その勢いに、張繡軍の陣形が乱れる。
「今だ! 一気に駆け抜けるぞ!」
曹操たちは、夏侯惇が開いてくれた道を、全速力で駆け抜けた。
ようやく敵の追撃を振り切った頃には、朝日が昇り、戦場の惨状を赤裸々に照らし出していた。
彼らは、生き延びた。
だが、その代償は、あまりにも大きかった。劉星は、背負った兄の亡骸を、ただ強く、強く抱きしめることしかできなかった。間に合わなかった手。救えなかった命。その悔恨が、彼の心を永遠に苛むことになるだろう。
第58話:血の脱出路
宛城からの撤退路は、地獄だった。
生き残った兵士たちは、皆、泥と血にまみれ、亡霊のように黙々と歩いていた。勝利の歓声も、威勢の良い鬨の声もない。あるのは、仲間を失った悲しみと、敗北の屈辱だけだった。
その行列の中心で、劉星は、兄・曹昂の亡骸を背負い、一歩、また一歩と足を進めていた。彼の背中には、兄の命の重みが、ずっしりと食い込んでいた。
時折、曹操が、劉星の隣に馬を寄せてきた。彼は、何も言わなかった。ただ、息子の背中にある、もう一人の息子の亡骸を、言葉にならない表情で見つめているだけだった。
その目に浮かぶのは、悲しみか、後悔か、それとも自責の念か。劉星には、分からなかった。だが、もはや父を罵倒する気力も、怒りも湧いてこなかった。
父もまた、自分と同じように、大きなものを失ったのだ。その事実だけが、二人の間に横たわる、唯一の共感だったのかもしれない。
行列の中には、独眼の夏侯惇、満身創痍の許褚、そして生き残った天狼隊の面々もいた。彼らもまた、口数少なく、ただ黙々と歩いている。誰もが、この敗戦の傷を、心と体に深く刻み込んでいた。
数日後、彼らはようやく、許都の城壁が見える場所までたどり着いた。
出迎えたのは、留守を預かっていた荀彧をはじめとする役人たちだった。彼らは、凱旋するはずだった軍の、あまりにも無残な姿を見て、言葉を失った。
そして、彼らは気づいた。行列の中に、いるべき人物がいないことに。
曹操の長男であり、跡継ぎであった、曹昂の姿がどこにもない。
荀彧が、恐る恐る曹操に尋ねた。
「殿…子脩様は、いずこに…」
曹操は、何も答えなかった。ただ、劉星の背中を、震える指で指し示した。
劉星が、背負っていた亡骸を、静かに地面に横たえる。その顔は、眠っているかのように穏やかだった。
その瞬間、荀彧をはじめ、出迎えた者たちの間から、悲痛な嗚咽が漏れた。
この敗戦は、単なる軍事的な敗北ではなかった。曹操は、最強の護衛・典韋を失い、跡継ぎである最愛の息子・曹昂を失った。そして、何よりも、自らの驕りが招いた悲劇によって、その権威に、決して消えることのない大きな傷を負ったのだ。
血で塗られた脱出路の終着点は、栄光の都ではなく、深い悲しみに沈む場所だった。
第59話:母の涙
許都の屋敷に、曹操の妻、丁夫人の絶叫が響き渡った。
「昂! 私の昂!」
彼女は、息子・曹昂の亡骸に取りすがり、泣き崩れていた。彼女にとって、曹昂は実の子ではなかったが、我が子以上に愛情を注いで育ててきた、かけがえのない存在だった。
その最愛の息子が、冷たい骸となって帰ってきた。その現実を、彼女は受け入れることができなかった。
しばらく泣き続けた後、彼女は、ふと顔を上げた。そして、部屋の隅で立ち尽くす夫、曹操を、燃えるような瞳で睨みつけた。
「あなたが!」
その声は、憎悪に満ちていた。
「あなたが、昂を殺したのです!」
「丁、よせ…」
曹操が、か細い声で制止しようとするが、彼女の怒りは止まらない。
「なぜです! なぜ、あの子を戦になど連れて行ったのですか! 全ては、あなたの好色な行いが招いたことではないですか! あなたが、あの女に手を出したりしなければ、昂は死なずに済んだのです!」
丁夫人の言葉は、鋭い刃となって、曹操の心をえぐった。その全てが、紛れもない事実だったからだ。彼は、何も言い返すことができなかった。
「出ていきなさい!」
丁夫人は、絶叫した。
「あなたの顔など、二度と見たくない! あなたは、夫でもなければ、人の親でもない! 昂を殺した、人殺しだ!」
その言葉を最後に、丁夫人は、曹昂の亡骸と共に、自室に閉じこもってしまった。
そして数日後、彼女は、最低限の荷物だけをまとめ、誰にも告げずに屋敷を出て、故郷へと帰ってしまった。事実上の、離縁だった。
曹操は、去っていく妻を、止めることができなかった。
彼は、覇者として、多くのものを手に入れてきた。だが、今、彼は、最も大切なものを、一度に失ってしまった。愛する息子と、長年連れ添った妻。
がらんとした屋敷の中で、彼は一人、呆然と立ち尽くしていた。天下を手に入れようとする男の、あまりにも深い孤独。
劉星は、その一部始終を、離れた場所から見ていた。
丁夫人の悲しみは、痛いほど分かった。彼女は、劉星にとっても、母のような存在だったからだ。
そして、父の孤独もまた、皮肉なことに、彼の胸に突き刺さった。
(ざまあみろ、と思うべきなのか…)
だが、不思議と、そんな気持ちにはなれなかった。
家族が、崩壊していく。その冷たい現実が、ただそこにあるだけだった。
第60話:墓前の誓い
許都の郊外に、新しく二つの墓が建てられた。一つは、悪来・典韋の墓。そしてもう一つは、曹操の長子、曹昂の墓だった。
劉星は、一人、曹昂の墓前に立っていた。墓石には、「曹昂子脩之墓」とだけ、簡潔に刻まれている。
彼は、墓の前に、一振りの剣を置いた。それは、生前、曹昂が愛用していた剣だった。
「…兄上」
劉星は、ぽつりと語りかけた。
「あなたの理想は、甘すぎた。父上を信じ、家族を信じたあなたの優しさが、あなた自身を殺したのかもしれない」
風が吹き、墓前の木々を揺らす。まるで、兄が何かを答えているかのようだった。
「だが…」
劉星は、言葉を続けた。
「あなたの優しさは、本物だった。俺のような奴にも、分け隔てなく接してくれた。あなたの温かさを、俺は一生忘れない」
劉星は、ゆっくりと立ち上がると、今度は自分の腰に差してあった剣――曹昂から譲り受けた剣――を、静かに抜いた。陽の光を浴びて、刃が鈍く輝く。
「見ていてください、兄上」
彼の声は、静かだったが、そこには、鉄のような硬い決意が込められていた。
「俺は、もう迷わない。父を憎むだけでも、あなたのように誰かを信じるだけでもない。俺は、俺のやり方で、この乱世を生きていく」
「そして、誓います。俺が守りたいと思ったものは、今度こそ、必ず守り抜く。あなたの死を、決して無駄にはしない。この乱世で、あなたのような優しい人が、理不尽に死んでいくような悲劇は、俺が必ず終わらせてみせる」
それは、復讐でも、理想でもなかった。
一人の弟が、亡き兄に捧げる、魂の誓い。
憎しみと悲しみを乗り越え、若き狼は、自らが進むべき、新たな道を見出した。
その背中には、もう少年時代の危うさはない。多くのものを失い、その痛みを知った彼の背中は、これから多くのものを背負っていく、真の将帥のそれだった。
宛城の慟哭は、一つの時代の終わりと、そして、劉星という新たな英雄の、真の誕生を告げていた。
第三章は、ここに、静かに幕を下ろした。
(第三章 完)