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第三章:宛城の慟哭-2

第三章:宛城の慟哭

第46話:南征の号令

許都が冬の寒さに包まれる頃、曹操は次なる一手として、南への遠征を決定した。標的は、荊州けいしゅうの北部に位置するえん城。そこを支配する張繡ちょうしゅうは、かつて董卓の配下であった張済ちょうさいの甥で、侮れない兵力を擁していた。

この遠征の目的は、張繡を屈服させ、荊州の雄である劉表りゅうひょうを牽制することにあった。

建安二年(197年)の春、曹操は自ら大軍を率いて、許都を出陣した。

この南征軍には、曹昂も加わっていた。彼にとって、これが本格的な初陣に近かった。曹操は、いずれ跡を継がせる息子のために、戦の経験を積ませようと考えたのだ。

「飛翼、お前も来い」

曹操は、劉星にも出陣を命じた。

「子脩(曹昂の字)の側にいて、万一の時には奴を守ってやれ。それが、お前の役目だ」

その命令は、劉星にとって複雑なものだった。兄を守れ、という言葉には、父としての情が僅かに感じられた。だが、それは同時に、自分を便利な護衛役としてしか見ていない、ということの裏返しでもあった。

(まあ、いい。戦場に出られるなら、文句はない)

劉星は、天狼隊を率いて、南征軍に加わった。

出陣の日、許都の民衆は、勇壮な軍勢を熱狂的に見送った。先頭を行く曹操、その脇を固める夏侯惇や許褚といった猛将たち。そして、若き後継者である曹昂。彼の姿には、民衆の期待が集まっていた。

劉星は、その少し後ろから、兄の背中を見ていた。曹昂は、初めての大規模な遠征に、緊張しながらも、誇らしげな表情を浮かべている。その姿は、少し危うげに見えた。

「兄上、あまり気負わぬように」

劉星が声をかけると、曹昂は振り返り、にこりと笑った。

「ああ、ありがとう、飛翼。君がいてくれると、心強いよ」

その笑顔に、劉星もつられて少しだけ口元を緩めた。この兄のためなら、一肌脱いでやろう。そんな気持ちが、自然と湧き上がってくる。

天狼隊の隊員たちも、久々の戦に士気は高かった。

「旦那、今度こそ、大暴れできますな!」

周倉が、楽しそうに大斧を肩の上で回す。

軍は、意気揚々と南へと進んでいった。誰もが、この遠征が容易い勝利に終わると信じていた。

しかし、彼らを待ち受けていたのは、甘い罠と、そして決して忘れられぬ悲劇が待つ、運命の地・宛城だった。

第47話:無血開城

曹操軍が宛城に迫ると、城内では激しい議論が交わされていた。

城主の張繡は、血気盛んな武将だった。

「曹操の軍勢など、恐るるに足らず! 我らの力を見せつけ、返り討ちにしてくれるわ!」

だが、その張繡に、一人の男が静かに進言した。その男は、賈詡かく、字は文和ぶんわ。かつて董卓に仕え、その知謀で幾度となく窮地を乗り越えてきた、当代きっての謀略家だった。

「将軍、お待ちくだされ。曹操軍の勢いは、今や天下に鳴り響いております。正面から戦って、勝ち目はありませぬ」

「では、どうしろと申すのだ、賈詡!」

「降伏なさいませ」

賈詡の言葉に、張繡は激高した。

「何を馬鹿なことを! 戦わずして膝を屈するなど、武人の恥だ!」

「戦で死ぬことだけが、武人の道ではございません。今は、一度頭を下げ、好機を待つのです。曹操という男は、降伏した相手には寛大です。しかし、その内には強い驕りも隠されている。いずれ、必ずや隙を見せましょう。我らが動くのは、その時です」

賈詡の冷静な分析と、未来を見据えた言葉に、張繡はしぶしぶながらも納得し、降伏を決断した。

曹操軍が宛城の目前まで来た時、城門は静かに開かれ、張繡自らが曹操を出迎えた。

「これほどの軍勢を前にして、戦うは愚の骨頂。この張繡、曹操殿に降伏いたします」

あまりにも呆気ない勝利に、曹操軍の将兵たちは、拍子抜けしたようだった。

「なんだ、戦にもならなかったな」

「張繡も、大したことのない男よ」

陣営全体が、勝利の喜びに沸き、そして、弛緩した空気に包まれていった。

劉星は、その様子に、一抹の不安を覚えていた。

(簡単すぎる…)

まるで、何の抵抗もなく口を開ける、巨大な獣の顎のようだ。彼は、降伏を勧めたという軍師・賈詡の存在が、どうにも気になっていた。あの男は、決してこのまま終わるような人物ではない。

兄の曹昂も、同じように感じていたらしかった。

「飛翼、どう思う? 少し、都合が良すぎる気がしないか?」

「ええ。油断は禁物です。特に、あの賈詡という男には、気をつけた方がいい」

二人は、互いの懸念を共有した。だが、軍全体の楽観的な空気の前では、彼らの警戒心は杞憂として流されてしまう。

曹操自身も、この容易い勝利に、すっかり気を良くしていた。彼は、張繡の降伏を快く受け入れると、宛城に入城し、盛大な祝宴を開くことを命じた。

英雄は、自らの手で、悲劇の舞台を整え始めていた。そのことに、まだ誰も気づいていなかった。

第48話:英雄の驕り

宛城に入城した曹操は、その夜、城の主だった張繡を招き、大々的な祝宴を催した。

宴は、勝利の熱気に満ちていた。曹操の将軍たちは、酒を酌み交わし、自らの武勇伝を大声で語り合っている。降伏した張繡も、作り笑いを浮かべながら、曹操に酒を注いでいた。

劉星は、その喧騒から少し離れた席で、冷めた目で宴の様子を眺めていた。兄の曹昂は、父の勝利を喜びながらも、どこか緊張した面持ちで、行儀よく座っている。

その時、劉星の目に、ある光景が飛び込んできた。

宴の席で、舞を披露している女たち。その中に、ひときわ美しく、そしてどこか憂いを帯びた表情の女性がいた。

「あれは、すう夫人。亡くなられた張済様の奥方で、張繡将軍の叔母上にあたるお方だ」

隣に座っていた兵士が、そう教えてくれた。

劉星は、その鄒夫人に注がれる、いやらしい視線に気づいた。視線の主は、上座に座る父・曹操だった。彼の目は、酒と欲望で濁っていた。

(またか…)

劉星の胸に、どす黒い怒りが込み上げてきた。兗州での呂布との戦いも、女が原因で危機を招いたことがあったはずだ。この男は、何も学んでいないのか。

宴が終わった後、曹操は、側近に命じて、鄒夫人を自らの宿舎に呼び寄せた。それは、事実上の命令だった。断ることは許されない。

その噂は、すぐに陣営中に広まった。将兵たちは、「さすがは殿だ」と下品な冗談を言い合って笑っていたが、劉星の心は、氷のように冷えていった。

これは、単なる女好きの問題ではない。降伏した相手の、それも亡き将軍の妻であり、現当主の叔母である女性に手を出す。それは、張繡の誇りを、土足で踏みにじる行為に他ならなかった。

案の定、その話を聞いた張繡は、自室で屈辱に身を震わせていたという。だが、彼は賈詡に止められ、今はただ耐えるしかなかった。

劉星は、いてもたってもいられなくなった。

(止めなければ…)

このままでは、必ず良くないことが起きる。宛城での悪夢が、蘇る。兄の曹昂も、この遠征に参加しているのだ。彼を、危険な目に遭わせるわけにはいかない。

劉星は、固く拳を握りしめ、曹操の宿舎へと向かった。父の過ちを正す。それは、もはや息子としての務めだと、彼は感じていた。

第49話:父への直言

曹操の宿舎の前は、許褚をはじめとする屈強な親衛隊が固めていた。

「飛翼殿、これより先は、殿の許しなくば誰も通せませぬ」

許褚が、その巨体で道を塞ぐ。

「通せ、仲康。父上に、話がある」

劉星の目は、ただならぬ光を宿していた。その気迫に、許褚は一瞬たじろいだが、任務を放棄するわけにはいかない。

二人が睨み合っていると、中から曹操の声がした。

「騒々しいな、誰だ」

「飛翼です。お話が」

「…入れ」

許しを得て、劉星は宿舎の中へと入った。部屋の中には、甘い香が焚かれ、豪華な寝台の上には、不安げな表情を浮かべた鄒夫人の姿があった。そして、その隣で、満足げに酒を飲む曹操。

その光景に、劉星の怒りは頂点に達した。

「何をしに来た、飛翼。貴様も一杯やらんか」

曹操は、上機嫌で言った。

劉星は、その言葉を無視し、真っ直ぐに父を睨みつけた。

「その女を、すぐに張繡殿の元へお帰しください」

「…何?」

曹操の顔から、笑みが消えた。

「聞こえませんでしたか! その行為が、何を招くか、お分かりでないのですか! 母にしたことと同じ過ちを、また繰り返すおつもりか!」

劉星の声は、怒りと悲しみで震えていた。母が、父を待ちながら死んでいった日のことが、鮮明に蘇る。この男は、いつだってそうだ。己の欲望のために、平気で他人を踏みにじる。

劉星の激しい言葉に、曹操の顔がみるみる怒りに染まっていく。

「小僧が…! 親に向かって、その口の利き方は何だ!」

「親だと!? あなたが、俺たちのために何をしてくれた! 母が死ぬまで、一度でも会いに来たことがあったか!」

「黙れ!」

曹操は、酒盃を床に叩きつけた。

「わしの苦労も知らぬお前が、知ったような口を利くな! わしは、天下のために戦っているのだ! この程度の慰めが、許されぬとでも言うのか!」

「天下のためだと!? 己の欲望を、天下のせいにするな!」

二人は、互いに一歩も引かなかった。父と子の間には、修復不可能なほどの深い溝が横たわっている。

「この、親不孝者めが!」

曹操は、ついに立ち上がり、劉星の胸ぐらを掴んだ。劉星もまた、父の腕を掴み返し、睨みつける。

宿舎の中は、一触即発の、張り詰めた空気に満ちていた。父子の関係は、今、まさに崩壊しようとしていた。

第50話:兄のとりなし

曹操と劉星が、互いに胸ぐらを掴み、睨み合っている。怒りに我を忘れた父と、憎しみに燃える息子。もし、このままどちらかが手を出せば、もう取り返しのつかないことになるだろう。

その、まさに一触即発の瞬間。

「父上! おやめください!」

宿舎に、慌てた様子の曹昂が駆け込んできた。彼は、劉星が曹操の元へ向かったと聞き、胸騒ぎを覚えて後を追ってきたのだった。

「兄上…!」

劉星が、はっとしたように曹昂を見る。

「飛翼、お前もだ! 父上に対して、何という無礼な態度だ!」

曹昂は、まず弟を叱りつけた。そして、今度は父に向き直り、必死に説得を始めた。

「父上、どうかお怒りをお鎮めください! 飛翼も、決して悪気があってのことでは…。ただ、父上のお身を案じるあまり、言葉が過ぎてしまったのに違いありません!」

曹昂は、二人の間に割って入ると、その両腕を力ずくで引き離した。

「二人とも、どうか冷静になってください! 我らは家族なのですぞ!」

曹昂の必死の形相と、「家族」という言葉に、我に返ったのは曹操の方だった。彼は、自分の感情的な行動を恥じたのか、ふっと息を吐くと、掴んでいた手を離した。

「…子脩の顔に免じて、今回は許す。…飛翼、二度とわしの前にその顔を見せるな。下がれ」

曹操は、それだけ言うと、背中を向けてしまった。その背中は、ひどく疲れて、そして孤独に見えた。

劉星もまた、兄の顔を立てるしかなかった。彼は、何も言わずに部屋を出て行こうとした。

去り際に、彼は寝台の上で震えている鄒夫人の姿を見た。彼女の目には、恐怖と、そして哀れみが浮かんでいた。彼女もまた、この男たちの勝手な争いの、犠牲者なのだ。

宿舎の外で、曹昂が劉星に追いついた。

「すまなかったな、飛翼。父上も、少しお疲れなのだ。どうか、許してやってくれ」

曹昂は、心から申し訳なさそうに言った。

「…兄上が謝ることはありません」

劉星は、それだけ答えるのが精一杯だった。

「大丈夫だ。私が、父上にもう一度、よくお話しておく。きっと、分かってくださるはずだ」

曹昂は、そう言って力なく笑った。彼は、まだ信じていた。話し合えば、家族は分かり合えると。父と弟の絆も、いつか必ず結ばれると。

だが、その純粋な願いは、この後、最悪の形で裏切られることになる。

この夜の出来事は、すでに賈詡の耳にも届いていた。彼は、曹操とその息子たちの間に、深刻な亀裂が生じていることを確信した。

そして、彼は静かに、反撃の策を練り始めていた。

悲劇の歯車は、もう誰にも止められない速度で、回り始めていた。


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