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第三章:宛城の慟哭-1

第三章:宛城の慟哭

第41話:新たなる都、許

興平二年(195年)の暮れ、曹操は一つの大きな決断を下した。漢王朝の都を、戦乱で荒れ果てた洛陽から、自らの本拠地に近いきょへと移すという、遷都の敢行である。表向きは、献帝けんていを賊から守り、漢室の権威を回復するためとされた。だが、その真の狙いが、皇帝を自らの手中に収め、天下に号令するための布石であることは、誰の目にも明らかだった。

劉星もまた、天狼隊を率いて、この歴史的な遷都の行列に加わっていた。寂れ果てた廃墟のような洛陽から、新しく活気に満ち溢れた許の都へ。その光景は、まさに漢王朝の落日と、曹操の時代の到来を象徴しているかのようだった。

新都・許は、急速にその姿を整えていった。立派な宮殿が築かれ、各地から役人や民が集まり、街は日に日に賑わいを増していく。劉星は、父の持つ、無から有を生み出すような政治手腕と実行力に、内心では舌を巻いていた。

だが、その感情は、彼が宮殿で見た光景によって、すぐに冷たい嫌悪感へと変わった。

遷都を祝う宴の席。玉座に座る若き献帝は、まるで操り人形のようにやつれ、その目は虚ろだった。対照的に、そのすぐ下座に座る曹操は、自信と権力に満ち溢れ、まるで彼こそがこの国の主であるかのように振る舞っていた。諸侯や大臣たちは、帝ではなく、曹操の顔色をうかがってばかりいる。

(これが、漢の皇帝か…)

劉星は、その光景に強い違和感を覚えた。正義も、権威も、力の前ではこれほど無力なのか。父が目指す覇道とは、このような偽りの秩序の上に成り立つものなのか。彼は、自らが仕えるべき相手の、その本質の一端を垣間見た気がして、背筋が寒くなるのを感じた。

そんなある日、劉星は曹操の屋敷に呼び出された。父との気まずい対面に身構えていると、通された部屋には曹操の姿はなく、代わりに一人の青年が静かに座っていた。

年は、劉星より五、六歳ほど上だろうか。涼やかな目元、通った鼻筋。その顔立ちは、どことなく曹操に似ていたが、父のような猛々しさや厳しさはなく、代わりに穏やかで知的な雰囲気を漂わせている。

「君が、劉星殿だな」

青年は、柔らかな笑みを浮かべて立ち上がった。

「私は、曹昂そうこう。字は子脩ししゅう。…君の、兄になる者だ」

その言葉に、劉星は息をのんだ。曹操の長男。父が最も期待を寄せているという、嫡男。彼が、自分の兄…?

予期せぬ出会いに、劉星はただ呆然と、目の前の好青年を見つめることしかできなかった。

第42話:長兄、曹昂

曹昂――その名は、劉星も噂で聞いたことがあった。曹操の長男にして、最も出来の良い跡継ぎ。若くしてその聡明さと人柄の良さで知られ、多くの者から将来を嘱望されているという。

劉星は、身構えた。父の嫡男が、自分のような得体の知れない異母弟に、何の用があるのか。警戒心を露わにする劉星に対し、曹昂はどこまでも穏やかだった。

「驚かせてしまったかな。すまない。一度、君とゆっくり話がしてみたかったんだ」

曹昂は、劉星に席を勧めた。その物腰は柔らかく、棘がない。劉星は、戸惑いながらも、彼の向かいに腰を下ろした。

「飛翼、という字を得たと聞いた。素晴らしい名だ。兗州での君の活躍は、私も父上から聞いている。見事な働きだったと」

曹昂は、心からの賞賛を口にした。その言葉に、お世辞や裏はないように感じられた。

「…恐縮です」

劉星は、短く答えるのが精一杯だった。

「君の母上の話も、丁夫人から伺った。辛い思いをさせてしまったな。父上に代わって、私が謝る」

そう言うと、曹昂は劉星に向かって、静かに頭を下げた。

その真摯な態度に、劉星は衝撃を受けた。父とは、あまりにも違う。この男は、なぜ自分にここまで優しく接するのか。

「なぜ…」

劉星は、思わず尋ねていた。「なぜ、俺のような者に、そこまで…」

「なぜ、とは?」

曹昂は、不思議そうな顔で首を傾げた。

「私たちは、兄弟ではないか。父上が違えど、同じ血が流れている。家族が、互いを思いやるのは当然のことだろう?」

家族――その言葉が、劉星の胸に突き刺さった。彼にとって、家族とは、母と、そして叔父だけだった。父という存在は、憎しみの対象でしかなかった。

だが、目の前の男は、何のてらいもなく、自分を「弟」と呼び、「家族」だと言う。

「君が、父上に対して複雑な感情を抱いていることは、理解しているつもりだ。だが、どうか信じてほしい。父上は、決して冷酷なだけの御方ではない。この乱世を終わらせ、民に平穏をもたらすという、大きな使命を背負っておられるのだ。そのためには、時に非情にならねばならないこともある。…いつか、君にも分かってもらえると、私は信じている」

曹昂は、真っ直ぐな目でそう語った。その瞳には、父への絶対的な信頼と、尊敬の念が溢れていた。

劉星は、何も言い返せなかった。この純粋で、理想に燃える青年を前に、自分の抱えるどす黒い感情が、ひどくちっぽけで、醜いもののように思えた。

彼の心の壁が、音を立てて少しだけ崩れていくのを感じた。憎むべき父の息子。だが、この男だけは、あるいは信じても良いのかもしれない。

この日を境に、曹昂は何かと劉星を気にかけるようになった。稽古に誘ったり、食事を共にしたり。劉星は、戸惑いながらも、生まれて初めて感じる「兄」という存在の温かさに、少しずつ心を開いていくのだった。

第43話:二人の弟

曹昂との交流が始まってしばらく経ったある日、彼は「もう一人、弟を紹介したい」と言って、劉星をある部屋へ連れていった。

そこにいたのは、劉星と同い年くらいの、利発そうな顔立ちの少年だった。彼は、兄である曹昂には丁寧な礼をとりながらも、劉星に対しては、値踏みをするような、鋭い視線を向けてきた。

曹操の次男、曹丕そうひ、字は子桓しかんだった。

「こちらが、弟の劉星、字は飛翼だ。お前と同じように、武勇に優れた男だ。仲良くしてやってくれ」

曹昂がにこやかに紹介する。

曹丕は、表情を変えないまま、劉星に一礼した。

「…曹丕です。お噂はかねがね」

その声は、年の割に冷たく、感情がこもっていなかった。だが、その瞳の奥には、隠しきれない嫉妒と警戒心が渦巻いているのを、劉星は見逃さなかった。

(こいつ…俺を嫌っているな)

無理もないことかもしれなかった。曹丕は、正室の子ではない。兄の曹昂があまりに優秀なため、彼は常に次男という立場に甘んじてきた。そこに、突如として現れた、父の血を引くもう一人の「弟」。しかも、兗州での戦いで、自分よりも大きな武功を立ててしまった。曹丕にとって、劉星は自らの存在を脅かす、厄介な競争相手に他ならなかった。

「父上のご落胤が、随分と幅を利かせているようですね」

曹昂が席を外した隙に、曹丕は、わざと聞こえるように嫌味を言った。

「父上は武功ばかりを重んじられるが、真に国を治めるのは詩文の徳。あなたのような、ただの武辺者には、到底理解できぬでしょうな」

その言葉に、劉星の中の反骨心が頭をもたげた。

「序列、か。俺には関係のない話だ。俺は、俺の力でのし上がるだけだ」

「ほう、面白い。ならば、いつかその力を、拝見したいものですな」

二人の間を、火花が散る。まるで、互いの縄張りを主張する、二匹の若い獣のようだった。

そこへ、曹昂が戻ってきた。険悪な空気を察したのか、彼は慌てて二人の間に入った。

「こら、子桓。飛翼は、我らの大切な弟だぞ。無礼なことを言うものではない」

「申し訳ありません、兄上」

曹丕は、素直に頭を下げるが、その目には少しも反省の色はなかった。

この一件で、劉星は曹家の複雑な内部事情を垣間見た。心優しい長兄・曹昂と、野心と嫉妬心を隠さない次兄・曹丕。そして、得体の知れない自分。

(やれやれ、面倒なことになったな…)

劉星は、これから始まるであろう兄弟間の軋轢を予感し、深くため息をついた。父との関係だけでも厄介なのに、今度は兄と弟の問題まで抱え込むことになりそうだった。許都での生活は、戦場とはまた違った意味で、気の休まらないものになりそうだった。

第44話:宮廷の駆け引き

許都での生活に慣れてきた頃、劉星は曹昂に誘われ、初めて宮廷の正式な儀式に参加することになった。曹操が、大将軍に任命されることを祝う式典だった。

荘厳な宮殿、居並ぶ百官たち。そのきらびやかな光景に、劉星は圧倒された。だが、その華やかさの裏に、淀んだ空気が流れていることにも、彼はすぐに気づいた。

儀式の主役は、本来であれば玉座に座る献帝のはずだ。しかし、大臣たちの視線は、帝ではなく、その隣に立つ曹操にばかり注がれている。彼らは、帝への忠誠ではなく、曹操への追従を競い合っているかのようだった。

式典の後、曹昂は劉星を何人かの大臣に紹介した。その中に、ひときわ実直そうな顔つきをした、董承とうじょうという名の老臣がいた。彼は、帝の外戚(母方の親戚)にあたる人物だった。

董承は、曹昂には丁寧な挨拶をしながらも、その背後にいる曹操の兵士たちには、隠しきれない敵意の視線を向けていた。そして、劉星に対して、探るような目で尋ねた。

「あなたが、かの天狼隊を率いる劉星殿か。兗州でのご武勇、帝もご存知であられる」

「…恐縮にございます」

「あなたは、劉氏のご出身と伺いました。漢王室と同じ姓を持つあなたが、何故、曹操殿のような国賊に仕えておられるのか…」

董承は、声を潜めて、しかし痛烈な言葉を投げかけてきた。

その言葉に、劉星は何も答えられなかった。「国賊」という言葉が、彼の胸に重くのしかかる。

そのやり取りを、曹昂が慌てて遮った。

「董承殿、父上は国賊などではありませぬ! 漢室をお守りするために、尽くしておられるのです!」

「ふん、その口で、帝を操り人形にしているではないか」

董承は、冷たく言い放つと、その場を去っていった。

劉星は、董承のような、漢王朝に純粋な忠誠を誓う旧臣たちが、少なからずいることを知った。彼らは、曹操の専横を憎み、いつか帝をその手から奪還しようと、水面下で動いているらしかった。

兄の曹昂は、父の正義を信じ、彼らを「父を理解しない者たち」と見ていた。

だが、劉星の心は揺れていた。父のやり方は、確かに覇道かもしれない。しかし、それは同時に、漢王朝という伝統と権威を破壊する行為でもある。

どちらが正しいのか。

父の覇道か、それとも漢室への忠義か。

劉星は、答えを出せずにいた。彼は、自分がただの武人ではなく、巨大な政治の渦の中に巻き込まれていることを、この時、初めて実感した。戦場での戦いよりも、遥かに複雑で、厄介な戦いが、この華やかな宮廷には渦巻いていた。

第45話:兄の理想

宮廷での一件以来、劉星の心は晴れなかった。父・曹操のやり方に対する疑問が、頭の中で渦を巻いていた。そんな彼の様子を察したのか、曹昂が屋敷の裏にある稽古場へと誘い出した。

「飛翼、少し体を動かさないか。剣を交えれば、心の澱も少しは晴れるかもしれんぞ」

二人は、木剣を手に取って向き合った。

「手加減は無用だ」

曹昂の言葉に、劉星も頷いた。

打ち合いが始まると、劉星は驚いた。曹昂の剣筋は、彼の人柄そのものだった。派手さはないが、基本に忠実で、一本筋が通っている。その剣には、迷いがない。

対する劉星の剣は、型にはまらず、変幻自在だった。それは、彼の生き方そのものを表しているかのようだった。

しばらく打ち合った後、二人は剣を収めて息を整えた。

「…見事な剣だ、飛翼。君の剣には、誰にも真似のできない自由さがある」

曹昂が、感心したように言った。

「兄上こそ。あなたの剣には、揺るぎない信念がある」

その言葉に、曹昂は少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「宮廷でのことで、悩んでいるのだろう?」

図星を突かれ、劉星は黙り込んだ。

「飛翼、父上のことを、国賊だと思うか?」

曹昂は、真っ直ぐな目で劉星に問いかけた。

「…分かりません」

劉星は、正直に答えた。「父上のやり方は、あまりに強引だ。多くの者を敵に回している。あれが、本当に正しい道なのか…」

「正しい道だ」

曹昂は、きっぱりと言った。

「いいか、飛翼。今の世は、病にかかっている。黄巾の乱以来、各地で英雄が乱立し、民は戦に苦しんでいる。この病を治すには、劇薬が必要なのだ。父上は、その劇薬となることを、自ら選ばれた。たとえ、国賊と罵られようとも、全ての憎しみをその一身に引き受けてでも、この乱世を終わらせる。それこそが、父上に課せられた天命なのだ」

その言葉は、熱を帯びていた。彼は、心の底から、父の覇業を信じている。その純粋な理想は、どこか危うげでさえあったが、同時に、人を惹きつける強い力を持っていた。

「俺は、父上のような、強く、大きな器を持ってはいない。だが、長男として、その覇業を支えるのが、俺の務めだと思っている。だから、頼む、飛翼」

曹昂は、劉星の肩に手を置いた。

「君のその力を、父上のために貸してはくれまいか。君と俺、そして子桓が力を合わせれば、きっと父上の大きな助けになれるはずだ」

劉星は、曹昂の熱い瞳を見つめながら、何も言い返せなかった。この兄の理想を、否定することはできなかった。

父を信じることはできない。だが、この兄のためなら、あるいは…。

劉星の心は、二つの大きな感情の間で、激しく揺れ動いていた。

この兄がいる限り、自分は曹操の下で戦えるかもしれない。そんな思いが、彼の心に芽生え始めていた。

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