第4話:天誅
第4話:天誅
鄄城の政務を執る庁舎は、敗戦続きの重苦しい空気に満ちていた。上座には、疲労の色を隠せないながらも鋭い眼光を放つ曹操。その下には、夏侯惇を始めとする歴戦の将たちが、厳しい表情で居並ぶ。そこに、「陳郡からの使者」として、劉星が引き出された。
『表を上げよ』
玉座から響く、低く、しかし有無を言わせぬ声。十四年ぶりに聞く、実の父の声だった。劉星は地に額をつけたまま、顔を上げなかった。憎しみと屈辱で、奥歯を強く噛みしめる。
『聞こえなかったのか、表を上げよ!』
度重なる無視に、曹操の声が荒くなる。事前に丁夫人から報告は受けていた。だが、この公然たる反抗は、彼のプライドをいたく傷つけた。
その時、側に控えていた巨漢の将・典韋が痺れを切らした。
『曹操様が御顔を見せよと仰せであろうが、この無礼者めが!』
虎のような猛将が吠えながら劉星の肩を掴み、無理やり引き起こそうとした、その刹那。
『なっ!?』
典韋の目に、信じられない光景が映った。少年は典韋の腕を掴むと、その怪力を柳に風と受け流し、まるで赤子をあやすかのように軽々と宙に舞わせたのだ。柔の理を極めた、完璧な体捌きだった。巨漢が、藁人形のように玉座の曹操に向かって飛んでいく。
『『ぐおっ!』』
虚を突かれた曹操は、さしもの典韋もろとも床に転がり、二人して情けない声を上げた。庁舎は水を打ったように静まり返った。居並ぶ将兵は刀の柄に手をかけたまま、何が起きたのか理解できず呆然と立ち尽くす。
典韋を投げ飛ばした劉星は、床にどかりと胡坐をかくと、満座の注目を一身に浴びながら、朗々と名乗りを上げた。
『我こそは、陳郡の劉伯が甥、劉星! 我が母、春蘭の名、忘れたとは言わせぬぞ! この乱世の梟雄、曹孟徳!!』
その声は、少年のそれとは思えぬほど、怒りと悲しみに満ち、庁舎の隅々にまで響き渡った。
曹操は、呻く典韋を脇に押し退け、ゆっくりと立ち上がった。その顔には怒りよりも、驚愕の色が濃い。そして何より、目の前の息子の瞳の奥に、かつての自分と同じ、底なしの孤独の色を見出し、言葉を失っていた。
「お、おのれ…! この…痴れ者が…!」
絞り出した曹操の声が、震える。だが、その言葉が続くことはなかった。
庁舎の入り口に、一つの人影が静かに立ったからだ。氷のような冷たい空気をまとい、一歩、また一歩と、真っ直ぐに曹操へと歩み寄ってくる。正室、丁夫人であった。
居並ぶ歴戦の将兵たちが、思わず道を譲る。彼女の気迫は、戦場の殺気とは全く異質の、しかし、それ以上に人を圧する力を持っていた。
彼女は、劉星の前に立つと、震えるその肩にそっと手を置き、彼を守るようにして、夫と対峙した。
「丁…お前、なぜここに…!」
曹操の狼狽した声も、丁夫人の耳には届かない。彼女は、静かに、しかし、その場にいる全ての者の心を凍らせるような声で言った。
「あなた。この子の瞳を、よくご覧なさいませ」
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。曹操は、まるで呪縛にかかったかのように、息子の顔を、改めて真正面から見つめた。
「その瞳に宿る怒りは、誰のせいですか。その孤独は、誰が与えたものですか」
丁夫人は、決して声を荒らげない。だが、その一言一言が、静寂の中で鋭い刃となり、曹操の心を寸刻みにえぐっていく。
「そして、戦地にいる我が子、昂の面影を、この子に見いだしてしまう私のこの不安は、一体、誰のせいなのでしょうか」
「英雄? 覇者? 笑わせないでください」
彼女の唇から、冷たい嘲笑が漏れた。
「あなたは、ただの一人の女と、その子一人さえも、幸せにできなかった、ただの愚かな男です」
最後の言葉は、とどめの一撃となった。
丁夫人は、それだけ言うと、劉星の手を取り、毅然として曹操に背を向けた。「この子は、私が預かります。もし、この子に指一本でも触れるというのなら、私は、この場で自害し、あなたの覇道がいかに非道なものであるかを、天下に知らしめましょう」
彼女の言葉は、曹操にとって、死刑宣告にも等しかった。世評を、人望を、何よりも重んじてきた覇者の、最大の弱点を、妻は的確に突いたのだ。
彼は、その場に、崩れるように膝をついた。英雄の仮面が音を立てて剥がれ落ち、ただの後悔に苛まれる男の姿だけが、そこにあった。
一連の惨劇を、夏侯惇は「ああ、胃が……」と呻きながら天を仰ぎ、遠巻きに見ていた郭嘉は、扇子で口元を隠しながらも、その目が愉快でたまらないといったように細められていた。
「言葉とは、時に刃よりも鋭い。…これは、実に面白いことになった」