第31話:悪来の油断
第31話:悪来の油断
曹操と劉星の激しい口論は、賈詡にとって、まさに待ち望んでいた「好機」だった。彼は、張繡にこう進言した。
「将軍。曹操の陣営は、内側から崩れ始めております。父子の不和は、軍の結束に必ずや影を落とす。今こそ、我らが立ち上がる時です」
「うむ。だが、どうやって曹操の首を獲る? 奴の周りには、典韋のような猛将がいる。彼がいる限り、曹操に近づくことすら難しい」
張繡が、懸念を口にした。
「ご安心を。その悪来には、しばし眠っていてもらいます」
賈詡は、不気味な笑みを浮かべた。
その夜、張繡は「曹操殿への忠誠の証」と称して、典韋をはじめとする曹操の親衛隊たちを、ささやかな酒宴に招いた。
典韋は、朴訥で豪快な男だった。彼は、張繡の歓待を疑うこともなく、勧められるままに次々と大杯をあおっていった。
「がははは! 張繡殿のところの酒は、実に美味いな!」
その豪快な飲みっぷりに、張繡の兵士たちは賞賛の声を上げる。だが、その目の奥には、冷たい光が宿っていた。
宴が盛り上がる中、一人の兵士が、典韋の宿舎に忍び込んだ。彼の目的は、典韋が肌身離さず持っている、一対の双鉄戟。それぞれが四十斤(約9kg)もの重さがある、恐るべき武器だ。
兵士は、泥酔して戻ってきた典韋が寝入ったのを見計らい、その双鉄戟を、音もなく盗み出した。
何も知らない典韋は、いびきをかいて眠りこけている。
その頃、賈詡の指示を受けた張繡軍の兵士たちが、静かに、そして着実に、曹操軍の陣営を包囲しつつあった。
彼らは、曹操軍の油断しきった哨兵たちを、一人、また一人と闇に葬っていく。
劉星は、自室で眠れずにいた。父との口論の後、どうにも胸騒ぎが収まらないのだ。兄の曹昂は、「父上も反省しておられた。もう大丈夫だ」と言っていたが、劉星にはそうは思えなかった。
(何かがおかしい…静かすぎる…)
それは、嵐の前の、不気味な静けさだった。
劉星は、寝台から起き上がると、音もなく服を着込み、腰に短剣を差した。そして、天狼隊の兵舎へと向かった。
「周倉、起きろ。全員に、武装させろ。何かが起きる」
彼のただならぬ気配に、周倉もすぐに事態を察した。
「へい、旦那!」
悲劇の舞台は、完全に整えられた。あとは、反撃の狼煙が上がるのを待つばかり。
英雄たちの油断と驕りが、今、取り返しのつかない破局を招こうとしていた。