第3話:母の面影
第3話:母の面影
夏侯惇に案内されたのは、庁舎の奥にある殺風景な一室だった。戦の拠点であるため華美な装飾は一切ない。やがて、絹の衣擦れの音と共に、一人の夫人が姿を現した。年は四十前後に見えるが、気品のある顔立ちには、凛とした芯の強さが感じられた。曹操の正室、丁夫人だった。
「あなたが、劉星殿ですね」
丁夫人は、劉星の顔を見るなり、はっと息をのんだ。その瞳には、驚きと、そして懐かしむような色が浮かんでいる。夫の若い頃の面影。そして、それ以上に、この戦のどこかで戦っているはずの我が子・曹昂の姿が重なって見えたのかもしれない。
夏侯惇が、事情を説明し、劉伯からの手紙を丁夫人に渡した。丁夫人は手紙を静かに読むと、深く、悲しげな溜息をついた。
「…あの方は、また…。春蘭殿も、さぞお辛かったでしょう」
その言葉には、曹操の所業に対する静かな怒りと、同じ女としての深い同情が込められていた。丁夫人は劉星に向き直ると、その手を取り、優しく言った。
「よく…ここまで参られました。さぞ、大変な旅だったでしょう」
その手は温かかった。母を亡くして以来、これほど優しい温もりに触れたのは初めてだった。劉星は、心の奥がじんと痺れるのを感じ、思わず顔を伏せた。
旅立つ前夜の、叔父・劉伯の言葉が蘇る。
『星よ。お前に、辛い役目を負わせることを許しておくれ』
痩せた肩を震わせ、叔父は土下座までして劉星に頼んだ。
『俺は、時々思うのだ。お前の母、春蘭は、本当に幸せだったのか、と。あの方が迎えに来ると信じ、幾多の縁談を断り…そして、たった一人で逝ってしまった。俺が、もっと早く、諦めさせていれば、違う人生があったのではないか、と…』
叔父の目には、深い後悔の念が浮かんでいた。
『だからこそ、だ! だからこそ、お前の存在を、あの男に認めさせねばならんのだ! 春蘭は、決して「捨てられた女」などではない! あの曹操孟徳が、生涯、心の奥で愛し続けた、唯一の女であったと! お前の存在こそが、母さんの生きた証なのだ! どうか、行ってくれ、星。母さんの名誉を、お前の手で、守ってやってくれ…!』
劉星にとって、曹操は母を捨てた不埒者だ。だが、母の名誉は、何としても守りたかった。そして、自分を育ててくれた叔父の、悲痛な願いを、無碍にはできなかった。
(俺は、従うために来たのではない。認めさせるために来たのだ。そして、確かめてやる。あの男が、本当に母を、そして俺を捨てるほどの価値ある男なのかを…!)
劉星は、強張っていた肩の力が、少しだけ抜けていくのを感じた。
「母は…最期まで、父の名を…」
「…存じております。何も言わずとも良いのです」
丁夫人は、劉星の境遇に、心から同情していた。そして同時に、夫への怒りが静かに燃え上がっていた。この苦しい戦況の中、またも夫の過去の過ちが一人の少年を深く傷つけている。この子の無念は、晴らしてやらねばならない。
「夏侯惇殿。殿には、私が話をしましょう。評定の場に、この子を呼び出すように手配してください」
「しかし、奥方様、それは…」
「良いのです。全ての責めは、私が負います」
丁夫人の決意に満ちた瞳に、夏侯惇は何も言えなくなった。
その時、部屋の隅にある衝立の陰で、微かな衣擦れの音がした。一人の青年が、酒盃を片手に、面白そうに口の端を吊り上げて立っている。病的なまでに顔色が悪く、咳き込みながらも、その瞳は全てを見透かすように輝いていた。郭嘉だった。
「これは…実に面白いことになりそうだ」
彼は誰にも聞こえない声で呟くと、ふらりとした足取りで部屋を去っていった。盤面は整った。最高の役者も揃った。あとは、主役の登場を待つばかり。郭嘉は、これから始まるであろう「芝居」を思い、愉快でたまらなかった。
劉星は、そんな軍師の存在には気づかないまま、丁夫人の温かい言葉に、張り詰めていた心の糸が少しだけ解けていくのを感じていた。だがそれは、これから始まる嵐の前の、ほんの束の間の静けさでしかなかった。




