第2話:鄄城の将軍
第2話:鄄城の将軍
鄄城は、想像していたよりも遥かに、物々しい空気に包まれていた。城壁には無数の傷跡が刻まれ、行き交う兵士たちの顔には、敗戦の疲労と焦りの色が濃い。ここが、あの男の最後の砦か――劉星は、ごくりと唾を飲んだ。
曹操がいるという庁舎は、城の中央にあったが、屋敷というよりは野戦病院に近いありさまだった。劉星が門前まで進み出ると、歴戦の兵士たちが槍を交差させて行く手を阻んだ。
「何者だ! ここは曹操様の本陣であるぞ!」
「兗州牧・曹操殿に面会を願いたい。陳郡の劉伯が遣いの者だ」
劉星は、叔父に言われた通りの口上を述べた。だが、敗戦続きで苛立つ兵士は鼻で笑うだけだった。
「殿が、お前のような小僧にお会いになるか。今はそれどころではない、失せろ!」
何度頼んでも、答えは同じだった。劉星の内に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。母の名誉と、叔父の期待を背負ってここまで来たのだ。このまま引き下がるわけにはいかない。
「ならば、力づくで通るまで!」
劉星は地を蹴った。門番の一人が驚いて槍を突き出すが、劉星はその穂先を素手で掴むと、体捌き一つで相手の体勢を崩し、背後に投げ飛ばした。もう一人の門番が慌てて斬りかかってくるが、その腕を潜り抜け、鳩尾に鋭い一撃を叩き込む。呻き声を上げて崩れ落ちる門番。騒ぎを聞きつけ、庁舎の中からさらに多くの兵士たちが駆けつけてきた。
「何奴だ、騒々しい!」
その時、庁舎の奥から、地響きのような鋭い声が響いた。兵士たちがさっと道を開けると、そこには大柄な一人の将軍が立っていた。年は四十がらみ。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その両目は鋼のように鋭い。歴戦の猛者であることを物語っていた。
「貴様か、騒ぎを起こしているのは」
将軍の視線が、刃のように劉星を射抜く。その威圧感に、劉星は思わず息をのんだ。だが、ここで怯むわけにはいかない。
「某は劉星! 曹操殿に会いに来た!」
「劉…星…だと?」
将軍は、その名を反芻し、眉をひそめた。劉星は懐から叔父の手紙を取り出し、将軍に差し出した。
「これを読めば、素性が分かるはずだ」
将軍――夏侯惇は、訝しげに手紙を受け取ると、その場で封を切った。読み進めるうちに、彼の顔色がみるみる変わっていく。驚愕、困惑、そして深い哀惜。手紙から顔を上げた彼の視線は、先程までの厳しさが嘘のように揺れていた。彼は劉星の顔を、まるで何か信じがたいものを見るかのように、じっと見つめた。
「…面影がある。若き日の孟徳と、そして…春蘭殿にも…」
夏侯惇は、劉星の母・春蘭の兄とは、若い頃に親交があった。そして、曹操と春蘭の関係も知っていた一人だった。まさか、あの時の子が、このように成長して、しかもこの絶体絶命の窮地に現れるとは。
「なんという宿命だ…」
何とも知れない溜息をつくと、夏侯惇は振り返り、兵士たちに命じた。
「槍を収めよ。この者は、客人だ」
兵士たちは戸惑いながらも、主の命令に従った。夏侯惇は、複雑な表情で劉星に向き直る。
「…入れ。だが、殿がお会いになるかは分からんぞ。あの方も、今は…苦しい立場におられるのだ」
その言葉には、劉星には分からない、深い事情が滲んでいた。夏侯惇に導かれ、劉星はついに、父が籠る庁舎へと足を踏み入れた。