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第1話:鄄城への道

第1話:鄄城への道

風は乾き、土の匂いがした。

後漢・興平元年(194年)の秋。黄河の南に広がる兗州えんしゅうの大地は、長く続いた戦乱の傷跡を隠すかのように、穏やかな夕陽に染まっていた。だが、その静けさは偽りだった。道端には打ち捨てられた農具や、持ち主を失った荷馬車が転がり、時折、骨のようにも見える白い木片が覗いている。ここは、平穏から見捨てられた土地だった。

その元凶は、二人の男の名と共に語られていた。一人は、この兗州の牧(長官)である曹操。そしてもう一人は、その曹操の部下の裏切りに乗じて兗州の大半を奪い取った、飛将・呂布。二人の英雄が覇を競うこの地で、民はただ蹂躙されるだけの存在だった。

一人の少年が、その道を西へ向かって歩いていた。年は十四、五といったところか。着古した麻の服は所々が擦り切れ、背負った荷も旅の汚れにまみれている。しかし、その足取りに迷いはなく、背筋はまっすぐに伸びていた。少年の名は、劉星りゅうせい。彼の旅には、明確な目的があった。

日が落ち、空が深い藍色に変わる頃、劉星は道から少し外れた雑木林で足を止めた。手際よく枯れ枝を集めて火を起こすと、パチパチと爆ぜる炎が、彼の若く、そして硬質な顔立ちを照らし出した。彫りの深い目鼻は、どこか異境の血を感じさせる。だが何より印象的なのは、その双眸だった。底に静かな怒りの焔を宿した瞳は、この年の少年が持つべきものではなかった。

懐から、布に包まれた小さなものを取り出す。現れたのは、質素だが鋭い輝きを放つ一振りの短剣。鞘には、素朴な意匠で一輪の花が彫られていた。

「母上…」

ぽつりと呟いた声は、まだ幼さを残していた。彼の脳裏に、病の床で痩せ細っていく母の姿が蘇る。母・春蘭しゅんらんは、最期の息を引き取るまで、一つの名を呼び続けていた。

『孟徳様…』

その名を持つ男――曹操孟徳は、劉星の実の父だった。かつて母と将来を誓いながら、乱世の渦に身を投じ、二度と迎えには来なかった男。母は、その男がいつか来ると信じ、幾多の縁談を断り、女手一つで劉星を育て、そして死んだ。

母・春蘭は、名家の出ではなかった。だが、その身のこなしは、常人のそれとは全く違っていた。彼女は、西域から流れてきたという、舞手の一族の末裔だったのだ。

せい。これは戦うための技ではない。生き延びるための舞よ』

幼い劉星に、母はそう言って、不思議な体捌きと呼吸法を教えてくれた。

『力の流れを決して見失わないこと。激流に逆らうのではなく、受け流し、渦のように、風のように、相手の力を自分のものにするの。どんな時でも、生き延びなさい。それが、私への、一番の親孝行だから…』

その教えが、今の劉星の体の芯を形作っていた。

だからこそ、劉星にとって曹操は、母を裏切り、その舞を、悲しみの舞に変えさせた、許しがたい不埒者でしかなかった。だが、その男は今や、裏切りによって多くの領地を失い、鄄城という小さな城に追い詰められているという。育ての親である叔父・劉伯は、「今こそ、父子の絆を取り戻す時だ」と、家の再興のため、そして劉星の将来のために、その父を助けよと頭を下げた。劉星はその願いを受け入れた。ただし、従うためではない。

(一目見て、確かめてやる。そして、母上の無念を…!)

その道中、劉星は恐ろしい噂も耳にしていた。曹操が、父の仇討ちを名目に徐州へ攻め込み、罪のない民を幾万となく虐殺したというのだ。初めは信じられなかった。だが、徐州から逃れてきたという難民たちの口から語られる惨状は、あまりに生々しかった。

「あの男は、鬼だ…」

焚き火の炎が、まるで劉星の怒りに呼応するかのように激しく燃え上がる。母を捨て、民を虐げる男。そんな男が、己の父であるという事実が、腹の底からの嘔吐感を催させた。

「許さない…絶対に…」

短剣を強く握りしめる。母の形見であり、唯一つの肉親との繋がり。そして、いずれ父の喉元に突き立てるべき刃。

夜の闇の中、少年の瞳は狼のように鋭く光っていた。彼の目的地、父が追い詰められているという最後の砦、鄄城けんじょうは、もう目と鼻の先だった。

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