第百三十八話
「あんまりお客さんいないねー?」
「シ……そういうこと言っちゃだめよ、メルトちゃん」
「まだ時間が早いからじゃねぇか? 酒場ならもっと遅い時間の方が人も来るんじゃね?」
「ふむ……」
辿り着いた酒場、シズマとメルトちゃんの思い出の酒場は、確かにカウンター席に一人と、テーブル席に一組だけという、時間帯が早いにしても、いささか人の数が少なすぎるように思えた。
やはり巣窟での縄張り争いの余波がここまで及んでいる……か?
「店員さん店員さん、お魚の燻製……ブルトラウトの燻製五つくださいな! あ、みんな食べるわよね? すっごく美味しいのよ」
「ええ、それで大丈夫よ」
「ああ、俺も食うぜ」
「そうだな。店主、ついでに何か温かい酒を貰えるだろうか?」
メルトちゃんが注文をすると、店員の男性は心なしか、過剰に喜んでいるかのような調子だった。
「それだったらホットワインを勧めるぞ。うちのは美味しいって有名なんだ。少し甘めだけど、大丈夫か?」
「あ、なら私も飲みたいです」
「甘いの? なら私も飲んでみたいわ」
「構いません。カッシュ、お前も飲むよな?」
「おう。じいさんも飲むだろ?」
「んむ、頂こう」
さらに注文を続ける。だが――
「あ、先に言っておくんだが……魚は今日、あまり仕入れていないんだ。一応おかわりも出来る程度にはまだ残っているが、他のつまみも視野に入れておいてくれ。他は野菜の盛り合わせと、サラミとチーズの盛り合わせくらいしか用意出来ないんだけどな。すまない」
「いやいや、構わんよ。魚の燻製に加えてその二つをお願いしようかの? 皆、今日はワシが奢るぞ、遠慮なく食ってくれい」
「い、いいんですか?」
「じいさん気前いいな! ご馳走になるぜ!」
「尊老、よろしいのですか?」
「構わんよ、今日の出会いを祝して、じゃ。尊老なんて畏まった呼び方などせんでおくれ、グラントくん。ワシの名はルーエじゃよ、もっと親しく『ルー爺』とでも呼んどくれ」
「や……それはその……畏れ多いといいますか。では、ルーエ殿」
「むぅ、まぁいいじゃろ。ほほ、早速ワインが運ばれて来たぞい」
四人分を一度に持ってきたのか、大きな陶器のデカンタとカップが四つ運ばれてきた。
ワインの香りに混じり、シナモンやショウガ、はちみつの香りが容器から立ち上っている。
これは確かに美味そうだ。そして身体も温まること請け合いだ。
「では先に乾杯といこうかの」
「だな! じゃあ俺が注ぐぜ、じいさん」
「カンパイってなにかしら?」
「お酒とかジュースを飲む時の挨拶……みたいなものかしら? 何かいいことがあったり、記念だったりすると乾杯ってするの」
「へー! じゃあ今日はおじいちゃんとみんなが出会った記念なのね?」
「うむ、そういうことじゃ」
カップを軽く合わせ、カチンと音をさせる。
乾杯の音頭と共に、それぞれワインを口に運ぶ。
幸せな時間が、流れる。
つまみはまだ届かなくても、極上の時間が、流れる。
「良き夜じゃ……のう」
「ドワーフエールのエッグノッグを頼めますか」
「まいど! たくさん飲んでくれよな、最近売り上げが落ちてるんだ」
「そうねー? 結構時間が経ったのに、お客さん来ないねー?」
「こんなに酒も飯も美味いのになんでだ? なんかあったのか?」
「……それは……」
それから少しして、魚も酒も他のつまみも追加注文している最中、相変わらず客足が乏しいことに疑問を持ったメルトが店員に尋ねる。
が、どうにも歯切れが悪い。何か言い淀んでいるように見える。
「……最近、巣窟の食品流通が滞ってるってのもあるんだ。だから短時間しか店を開けないってとこも多い。それに――」
店員が続きを話そうとしたその時、来客を知らせるベルが、ワシらが来てから初めて鳴り響く。
すかさず店員は笑顔を浮かべ入口を振り向くも――その笑顔が、一瞬で曇り暗く沈む。
……ほう?
「っ! いらっしゃい……ませ」
「おう、いらしてやったぞ。魚とナッツ持ってこい、酒はいらねぇ、自前のがある」
入って来たのは、傭兵や冒険者風ではないが、どことなく身体つきがしっかりした、荒事に慣れていそうな風体の、少々ガラの悪い集団だった。
……身なりからしてカタギの商売はしておらんだろうな。
どこぞの用心棒か、はたまたただのチンピラか。
「あの……酒の持ち込みはご遠慮頂きたいのですが……」
「ああん!? おめぇんとこの酒飲んで前にうちの仲間が腹ぁ壊しただろうが! 忘れてねぇだろうな? だからこんな有様なんだろうがよ? 今日も客なんてこれっぽっちしかいねぇ」
「っ! あれは、何かの間違いです……!」
「うるせぇ、いいから魚とナッツ持ってこい!」
……そうか、これが客足が遠のいている原因か。
「すみません、魚は本日はもう切らしてまして。サラミとチーズならご用意出来ますが」
「チッ……ここに来た意味がねぇじゃねぇか。おい、そっちのテーブルの分こっちに回せ」
「流石にそれは……」
「ああん!? 俺達をないがしろにしてると『また天罰』が下るぜ?」
「っ!」
……なにかやったんだな? さては。
地上げ屋か、それともただの営業妨害か。なんにしても気分のいいモノではないの。
「皆の衆、今あるものを食べ終わったらお暇しようかの?」
「……そうですね」
「っ……ああ」
「わ、わかりました」
先程運ばれて来たばかりの魚の皿。が、どうやらそれに手を付けるのを躊躇しているようだった。
……ただ一人を除いては。
「今度はチーズだけたっぷり挟んでー……あむ! オニオン抜きも美味しいわ! なんだか凄く贅沢! このワインも甘くて美味しい! なんだかぽかぽかふらふらするけど!」
我関せずに、新しく運ばれてきた魚の燻製に、たっぷりチーズを挟んで齧り付くメルトちゃん。
非常に美味しそうで幸せそうな姿ではあるが、今この場においては『挑発』に取られても仕方のない行動だった。
「ちょ、メルトちゃん!」
「なになに?」
「っ! 不味い、こちらに来るぞ」
案の定、集団の中から男が二人、こちらのテーブルにやってくる。
「随分豪勢なテーブルじゃねぇかガキども。おいジジイ、お前が保護者だな? 今回は許してやるからこのテーブルまるごと渡しな」
「え? え? なになに!? おじさん誰かしら!? 何かお話してた!? 私なにも聞いてなかった……! お魚美味しくて……」
「……あん? 上玉じゃねぇか。よし、お前らこっちに来い、こっちで食うぞ。他のガキは帰って良いぞ、ジジイ、お前もだ。この獣人だけ残して帰れ」
「え? え? 一緒に食べるの? でもダメよ、みんな一緒に食べてるからまたね?」
酔いが回ってきているのか、いつもより更にズレたことを言うメルトちゃん。
……ふむ、流石にそろそろ動くか。
「すまんの、諦めてくれい」
立ち上がり、男二人に穏便に言葉をかける。
「あん? ジジイなら手加減してもらえると思ったか? 殺すぞ」
「すまんの、諦めてくれい」
「ボケてんのかジジイ! おら、とっとと帰れ。お前らこっち来い、このボケジジイに分からせてやれ」
「すまんの、諦めてくれい」
テーブルに残っていた四人もこちらに歩み寄ってくる。
まるで、面白い見世物でも始まるかのように、どこか下卑た笑みを浮かべながら。
「でっかいじいさんだな。こいつやっちまっていいんだ?」
「ああ。ガキ共、お前らも混ざるか? 帰らないなら一緒にお勉強させてやるよ」
「っ! オイお前らいい加減にしろよ! なんで俺達が帰らないといけないんだよ!」
カッシュ君が我慢の限界を迎え反論するも、すぐに拳が飛んでくる。
それを、彼の顔直前で受け止めてやる。
「すまんの、諦めてくれい」
「!? てめ、離しやが――」
「すまんの、諦めてくれい」
拳を壊す。もう二度と、その拳は開かない。
指の動きを司る筋を、完全に圧殺してやる。
「ギャ!」
「メルトちゃんや、テーブルごと隅の方に移動しておいてくれるかの?」
「うーん、分かった! ……先に食べてるわ……」
「あらら……ホットワインは思いの外酔いが回りやすいからのう」
すっかり顔を赤くしたメルトちゃんと、カッシュ君達がテーブルを移動させる。
「なんだやる気かジジイ! 表出ろ!」
「逃がさねぇからな? おら、こっちこい」
む、つまみがダメになるのを避けたいのかの? せっかく場所を開けたのに外に出るんかい。
ふぅむ。出来ればベストコンディションで検証がしたかったんだが。
若干、酔いが回っておるのう。この世界のワインは基本、酒精強化ワインなんじゃろうか?
非常に美味ではあるが、なかなか危険だ。というかこの店のホットワインが美味すぎるのだ。
……まぁなんにしても、酒で上機嫌なのが幸いしたのう。
少しだけ堪忍袋がいつもより頑丈になっておるようだ。
店の外に出ると、すぐさま六人に取り囲まれる。
残念ながら、ワシの得物は椅子の横に置いてきてしもうた。
が、問題ない。
「くそ……手が開かねぇ! もうこいつ殺しちまおう! マジでキレちまったよ!」
「だ、そうだ。悪いが老い先短いテメェの命、急遽今日で終わりみたいだぜ?」
回復魔法でも恐らく治せんだろう。筋を潰し、骨の隙間に入れ込んだのだから。
治っても筋や腱の位置は戻らんだろう。
「すまんの、諦めてくれい」
派手な動きも、強烈な技も、素早い動きもない、ただ歩き、躱し、手を伸ばすのみ。
すっかり人通りの少なくなった巣窟。だがそれでも、無法者六人が一人の老人を囲む姿は人目を引き付ける。
だがそれは奇妙な光景だった。
老人の動きは、傍目からはただ歩いているだけ、攻撃を回避する技量はすさまじいものを感じるも、それだけだった。
なのに、襲い掛かる男が一人、また一人と地面に座り込むのだ。
まるで、足の使い方を忘れたように。まるで、まだ立てない赤子のように。
「なにしやがったテメェ!」
既に三人、地面に座り込み動けなくなってしまったというのに、男は更に殴り掛かる。
見れば、懐にはナイフを忍ばせており、殴り掛かる手とは逆の手で、密かにそのナイフを手に潜ませる。
襲い掛かる拳を避けた瞬間に、反対の手で死角から放たれる斬撃。
だがルーエにとって死角は関係ないのか、平然とそれも躱す……否、斬撃が途中で止まっていた。
回避際に、ただ一瞬親指を高速で相手に打ち込んだだけ。
目にも止まらぬ、指圧と呼ぶには強力過ぎる一撃が、男の肩と鎖骨の境目、そして二の腕の一部を強烈に突いただけ。
「ガ!」
「すまんの」
男はナイフを取り落とし、ダラリと右腕を垂らし脱力する。
まるで、もう動かなくなってしまったかのように。
「諦めてくれい」
近くに歩み寄り、ルーエは無事な左腕で殴り掛かる男に、ダメ押しとして素早く手を振るう。
周囲に聞こえるくらい、綺麗な『コキャッ』という、乾いた音と湿った音が混じったような音色が男から響く。
その瞬間、男の首は可動域を超えて右に傾き、平衡感覚を失ったようにフラフラと、力の入らない右腕を揺らしながら数歩、往来を歩く。
やがて――完全に沈黙し、倒れたまま動かなくなる。
「ヒィ! なんだこのジジイ! 今何しやがった! 魔法か!?」
「ずらかれ! 倒れてる連中は放っとけ!」
深追いはせず、ただ倒れた男衆を、相手自身が着ている服を使い縛り上げ拘束する。
「……正確に動きが見えるのう。これならばワシの攻撃は……技を使うまでもなく必殺か」
ルーエは、何かを確信したかのように小さくつぶやく。
そこに、誰かが通報したのか、巡回の騎士が駆けつけるのであった――
無法者達を追い返し、残りを騎士に引き渡したワシは、店に戻り晩酌の続きをしようとする。
が、どうやらグラントくんとカッシュくんは助太刀に来てくれるつもりだったのか、武器を片手に今にも飛び出そうとしているところだった。
「もう終わったぞい。ささ、続きじゃ続きじゃ」
「な……武器を届けに向かおうとしたんです、ルーエさんに」
「うっかりしていたわい。だがこれでよかったじゃよ。武器ありでは加減が難しいからの。ふむ……ワインも冷えてしもうたな。魚は……おおう……メルトちゃん、ワシの分も食べてしもうたのか」
「うん、そうみたい。お酒もすっかり回って眠っちゃったみたいだから……今日はここでお開きにしません?」
確かに、店の中が荒らされるようなことはなかったが、営業を続けるにはちっと騒ぎが大きくなりすぎたかもしれん。
それに、報復の可能性もある……か。
「……よし、三人の家に送って行こう。何かあると大変じゃからな。メルトちゃんは……」
すっかりテーブルに突っ伏して、気持ちよさそうに寝息を立てているメルトちゃんをおんぶする。
ぽっかぽかだ。お酒で身体が温まってしまったようだ。
「悪いじいさん……手伝えなくてよ」
「んー、カッシュくんではまだ難しい相手だったと思うぞい? 気持ちだけで充分じゃよ」
「確かに……あれは恐らく素人じゃないですね。傭兵崩れ……でしょうかね」
「恐らくそうじゃろう。さて……店主さん、騒がせてしまったのう。少し多めに払うから勘弁してくれい」
ワシは、大金貨一枚を指で弾き、店主さんに支払う。
「お、お客さん……」
「なに、迷惑料じゃよ」
「いえ……その、背中のお嬢さんがワインを何度もおかわりしたので……その、足りないです」
「なんとぉ!?」
もう一枚追加でピン! 正確に店主の手の平に飛び込む大金貨。
どうだ、これなら流石に間に合うはず!
「こっちも大金貨! 流石に受け取れませんって!」
「よいよい。念の為、今日はここで店じまいにするんじゃ。店からは離れておいた方が良い。これはその補填みたいなものじゃ」
「なるほど……そうですね、了解です」
さてさて……送り狼だと思われないと良いのだが。
「ほれ、三人とも行くぞい。まずは居住区じゃろ?」
「あ、ああ。じゃあ頼む、じいさん」
「お願いします」
「自分は途中の宿ですね。お願いします」
しかしあの連中、何の目的でこんなに露骨に暴れておるんかのう?
国の動きが心配にならんのか?
それとも……国が強く出られない理由でもあるとでも言うんかの?
「まぁそれも……今夜で終わりじゃがの」
……すまんの――
明日を生きるのを諦めてくれい――