伯爵令嬢の結婚。
不慮の事故により、バルデン伯爵が亡くなった。
遺されたのは一人娘のエリーシアのみ。
幸い、と言ってはなんだが、伯爵は手広く事業を行っておりそれによって生じた莫大な財産はエリーシアが受け継ぎ、生活に困るような事態にはならなかった。
だが。
「……本当に、どうしたものかしら」
帰りの馬車の中でエリーシアは頭を抱えていた。
もう期限までに時間がないというのに。
この国では女性も爵位を継ぐ事が可能である。
だが、それには成人している事が条件であった。
15の誕生日を迎えたばかりのエリーシアが成人と認められるには、結婚して夫を迎える必要があった。
しかし親子揃って迂闊な事に、エリーシアにはいまだ婚約者すら決まっていなかったのだ。
早くに母親を亡くしたエリーシアを不憫に思ったのか、バルデン伯爵は事業の視察にも娘を共に連れて行った。
幼い頃より父親の手腕を間近に見てきたおかげか、エリーシアの仕事ぶりはなかなかのものであった。
最近ではいくつかの事業経営も任せてもらっていたほどである。
だが、このままでは伯爵家を継ぐ事が出来ない。
結婚相手を探そうとエリーシアは今まで避けていた社交界に顔を出し、そこで自分に対する悪評を知ったのである。
曰く、贅沢三昧で、高価な宝飾品やドレスで着飾っている。
使用人達を虐げ、気に入らない者は追い出す。
素性のよくない男性達を侍らせている。
取り引き先の相手に心付けを強要する。
高価な宝飾品やドレスを身に着けている事以外は、全て事実無根である。
高価な宝飾品はバルデン伯爵領の鉱山から出た宝石を加工し、エリーシアがデザインした試作品である。
また、ドレスは取り引きのある隣国から仕入れた絹をやはりエリーシアがデザインして仕立てたもので、着心地を確かめるためであった。
エリーシアが身に着けていたのは、宣伝も兼ねての事である。
だが、着飾ったエリーシアを見て、貴族達は悪い噂は全て本当だと思い込んでしまった。
これでは結婚相手など見つかるはずがない。
噂を流した者については心当たりがある。
以前から裕福なバルデン伯爵家の財産を欲していた親族達が吹聴したものだろう。
結婚しなければエリーシアは爵位を継ぐ事はできない。
そうなった場合、親族達の誰かが後継となるからだ。
「冗談じゃないわ」
エリーシアは膝の上で固く拳を握り締めた。
浪費するしか能がない彼らが伯爵家を継ごうものなら、瞬く間に事業は行き詰まるだろう。
そんな事は、絶対にさせない。
エリーシアは改めてそう決意した。
馬車が止まり、扉が開く。
いつの間にか家に戻ってきていたようだ。
す、と手が差し出された。
エリーシアの護衛を務めているフレッドだ。
手を預け、馬車を降りる。
幼馴染のように育った彼の背が、自分を追い越したのはいつの頃だったろうか。
フレッドの赤い髪を見ながら、エリーシアはそんな事をぼんやりと思っていた。
「お帰りなさいませ」
フレッドも家の者達も、エリーシアの様子から成果が芳しくなかった事を察したのか余計な事を口にする者はいなかった。
ぎりっ、とエリーシアは唇を噛み締めた。
もし、このまま結婚相手が見つからなければエリーシアが爵位を継ぐ事は出来ない。
そうなれば、この家に勤めている者達とはもう一緒にいる事は出来なくなるのだ。
早くに母を失ったエリーシアを大事に育ててくれた乳母代わりのメイド長。
いつも陽気な料理長。
厳格に家の中を取り仕切ってくれる執事。
無口な庭師。
メイドや騎士達。
それと。
エリーシアは、自分の半歩前を歩くフレッドの背中を見た。
なんで、前をあるくの? 主人である私がうしろなんておかしくない?
そうたずねたエリーシアに、「あなたをまもるためです」と言ってくれた幼いフレッド。
「……!」
その時の事を思い出した瞬間、涙が溢れてきた。
(駄目よ、泣いては駄目)
せめて部屋に戻るまで、一人になるまではこらえなくては。
涙で視界が滲む。
(ああ、だめ……)
涙で滲んで前がよく見えない。
エリーシアは自分の頬が濡れている事を自覚した。
(気づかれてはだめ)
「エリーシア様」
「え?」
名前で呼ばれた事に驚き、エリーシアは思わず足を止めた。
幼い頃はともかく、フレッドはいつからかエリーシアの事をお嬢様と呼ぶようになっていた。
「……今だけ、背中をお貸しします」
そう言うと、フレッドは自分の手を前に出しぎゅっと握った。
「……」
思い出した。
幼い頃、母を思い出しては泣いていたエリーシアにフレッドはこうやって背中を貸してくれていた。
父やまわりの人達に気づかれないように。
そして、間違ってエリーシアに触れたりしないように小さな手を自分の身体の前で強く握りしめていたのを。
今思えば、大人達は多分エリーシアが泣いていた事に気付いていたのだろうとは思うが。
おそらく、泣き顔を見せまいとするエリーシアと、それを守ろうとしていた小さなナイトの気持ちを汲んで見て見ぬふりをしていてくれたのだろう。
唇が震える。
思わずフレッドの方へ手を伸ばしていた。
エリーシアはフレッドの背中に顔をうずめて泣いた。
声を押し殺して泣いた。
エリーシアは小さくため息をついた。
久しぶりに泣いてしまった。
しかもフレッドの背で。
彼に触れていた手のひらに、そっと唇を押し当てた。
分かってはいる。
この気持ちは隠さねばならない。
幼い頃の可愛らしい恋心ならばともかく、今やエリーシアは次期バルデン伯という立場にあるのだから。
それも、あと半年の内に結婚相手が見つかればの話のだが。
前当主が亡くなったあとの猶予は約9ヶ月。その内3ヶ月は喪に服すのが常識である。
エリーシアは残された事業などのために、その3ヶ月も働いていた。
父が亡くなった事を悲しむ暇もなかった。
「多分、心が弱っていたのね……」
まだ15才の小娘だ。
商売相手に侮られぬように、と気を張り続けていた。
おまけに、社交界での心ない噂にエリーシアの心は限界に近かったのだ。
「大丈夫。私はまだ頑張れるわ」
エリーシアは両手で顔をおおった。
この、秘めた恋に誓って。
また前を向くのだから。
「何ですって……!」
手紙を読み、エリーシアは思わず声を上げた。
その様子にただならぬものを感じ、普段ならば決して余計な事を言わない執事が声をかけてきた。
「どうなさいました?」
「私に縁談の申し込みがあったのよ」
それは本来なら喜ぶべき事なのだろうが、若き女主人の様子からして歓迎すべき相手ではなさそうだ。
「相手は再従兄弟のユリシーズよ」
「それは……」
再従兄弟とはいっても、エリーシアの亡くなった母の親族である。
つまりバルデン伯爵とは全く血の繋がりはない。
エリーシアが爵位を継げなくても、ユリシーズの家には何の関係もないのだ。
「商売に口を出す女など、なんてはしたないんだ、と罵られた事もあったのよ。それなのに……」
エリーシアがきつく手紙を握りしめる。
エリーシアと結婚する事で爵位と事業を手に入れるつもりなのだろう。
貴族の結婚というものは基本的に家同士の契約である。
そこには確かに何らかの恩恵があるものだが、あまりにあからさますぎる。
ましてや、エリーシアが結婚相手を探し始めたものの難航している今の状況においてだ。
「……噂を流したのはユリシーズの家かもしれないわね」
最初から全て計算ずくという可能性が高い。
「思い通りになど、させてたまるものですか」
だが、エリーシアの決意に対し状況は芳しくなかった。
結婚相手は見つからないまま、すでに2ヶ月が経過していた。
このままではエリーシアが爵位を継ぐ事が出来ない。
焦りつつも、事業の方の手を抜く事も出来ず膠着状態に陥っていた。
そんな時、突然の来訪者をメイド長から告げられた。
本来、先触れもなく訪れるということは礼を失しているのだが、幅広い事業を行っているバルデン家では稀にある事であった。
訪問者は隣国のルーカス伯爵で、やはりバルデン家と取り引きのある家であった。
エリーシアも父親と一緒に何度か会った事がある。
「お悔やみ申し上げます」
応接間の椅子から立ち上がり、ルーカス伯爵が言った。
親子ほども年の離れているエリーシアに対しても丁寧な相手である。
「わざわざ父のために……。ありがとうございます」
頭を下げるエリーシアに、ルーカス伯爵はふっと笑ってみせた。
「もちろんそれもありますが、私は息子に会いに来たのです」
「息子さん、ですか?」
ルーカス伯爵の息子は、すでに父親の右腕として一緒に働いていたはずだが。
「ええ、フレッドに会いに来ました」
そう言ってルーカス伯爵は、護衛としてエリーシアの背後に控えていたフレッドを見た。
「え……」
「フレッドが……?」
どういう事なのだろうか。
フレッドの父は領地を持たない騎士爵のはずだ。
エリーシアは家族全員を知っているが、兄弟は皆父親によく似ている。
「フレッド、どういうこと……?」
エリーシアが振り返って尋ねると、フレッド自身も呆気にとられているようだった。
「おそれながら、人違いでは……」
フレッドがそう言うと、ルーカス伯爵はふふっと笑った。
「いや、君で間違いないよ。私の息子になったのは」
「え?」
今ルーカス伯爵は、息子に「なった」と言わなかっただろうか。
困惑するエリーシア達を見ながら、ルーカス伯爵は紅茶に口をつけゆっくりと飲んだ。
どうも、この状況を楽しんでいるようだ。
「実はバルデン伯爵から頼まれていてね」
「父から?」
「自分の娘と、私の息子を結婚させてほしいと」
「!」
「……ただし、息子といっても義理の息子だが」
フレッドをルーカス伯爵と養子縁組をさせる。
そして、ルーカス伯爵の息子となったフレッドがエリーシアと結婚して婿養子になる。
バルデン伯爵が何年か前から準備していたのだ、とルーカス伯爵から告げられた。
「国内の貴族と養子縁組をすると邪魔が入りそうだから、隣国の貴族である私を選んだらしい」
だから商売相手であり信頼のおける友人でもある君に頼むのだ、とバルデン伯爵は言っていたとルーカス伯爵は誇らしげに笑ってみせた。
「手続きの途中でバルデン伯爵の訃報を聞いて、なるべく早くと思って来たのだよ」
「な、何で……」
エリーシアはそう言うのがやっとであった。
そんな都合のいい話があるだろうか。
「娘の幼い頃からの恋を叶えてやりたい、という親心だよ」
ルーカス伯爵が優しく笑ってみせた。
ほかにも行く所があるからと、ルーカス伯爵は慌ただしくバルデン家を去って行った。
彼が持ってきた書類は正規のもので、それによれば確かにフレッドはルーカス伯爵の義理の息子となっていた。
エリーシアは応接間の椅子に腰掛けたまま、深いため息をついた。
(お父様ったら、全てお見通しだったのね……)
自分がもし急逝した場合、エリーシアがどのような立場になるのか。
親族達がどのような手を使ってくるのか。
そして、エリーシアの秘めた恋心も。
(お父様の準備してくれたものに従えば、何もかもうまくいく。でも……)
それはあくまでもエリーシアに取ってだ。
(フレッドの気持ちは?)
忠誠心の厚い彼の事だ。
エリーシアのためなら、結婚だろうが婿養子だろうが断らないだろう。
(でも、私のためにフレッドの気持ちを犠牲にしていいの……?)
フレッドにも想いを寄せている女性がいたかもしれない。
それを考えると、胸の奥がぎゅうっと切なくなるけれど。
怖いけれど確かめなければならない。
けれど、何と切り出せばいいのだろうか。
「お嬢様」
エリーシアが悩んでいると、フレッドの方から声をかけてきた。
「実は、前にお館様とした会話を思い出しまして」
「会話って、どんな?」
何年か前の事らしいが、バルデン伯爵がフレッドにこう尋ねたのだそうだ。
「エリーシアを一生守ると誓えるか?」と。
その時は護衛としての心構えを確認されていると思ったらしいが。
「もしかしたら、今回の事だったのかもしれません」
「お父様ったら、そんな事を……」
ふとフレッドと視線が合い、思わず逸らしてしまった。
「それで、あなたはなんて答えたの?」
「必ずお守りします。この先どんな事があっても、と」
フレッドがエリーシアの前に回り込み膝をついた。
「私ではご不満かもしれませんが、必ずエリーシア様をお守りします。どうか私と結婚していただけませんか?」
「それは、お父様の言いつけだから?」
「いえ、私の幼き恋に誓って」
その言葉を聞きエリーシアは一瞬顔をほころばせたが、すぐに拗ねたような表情になった。
「幼い時だけ?」
「……いいえ」
そう言うと、フレッドは立ち上がって笑ってみせた。
「私の一生の恋に誓って」
「フレッド……」
見つめ合うエリーシアの目から涙がこぼれた。
思わずフレッドへと手を伸ばす。
そして、背中ではなく彼の胸で泣いた。
「……触れてもよろしいでしょうか?」
「当たり前でしょ」
フレッドはぎこちなくエリーシアを抱きしめた。
「……ずっと、こうしたかった」
「私もよ」
フレッドの腕の温もりを感じながら、エリーシアは微笑んだ。
伯爵令嬢の幸せな結婚 終。