第三話 トリガー
やっぱり、男の死体はなかった。
「からくりはわからない。けど、さっき見たものは本当に全部嘘だったんだな」
「そうよ。まさか、見破られるとは思わなかったけどね」
そう言ってタバコに火をつけた天宮。どうやら種明かしをするつもりはないらしい。
「さっきの話、もし本気で言ってるのならお断りだ」
話というのは一緒に殺し屋をやろうという誘いのことだ。
殺されかけたかと思えば、今度は殺し屋の勧誘。そもそも俺は記憶喪失だ。もはや夢なんじゃないかと思うほどの非日常の連続に脳の処理が追いつかない。
「まぁ、そう結論を急ぐことはないわ。あなたにとっても悪い話じゃないはずよ」
「だったら教えてくれ。自分が何者なのかもわからないこの状況で人殺しの手伝いをしたところで、俺に何のメリットがある?」
「衣食住の保証に加えて、相場の倍の給料を出すわ」
「話にならないな。確かにこのままじゃ俺は路頭に迷うだけかもしれない。だが、然るべき機関で事情を話せば、不自由なく暮らしていくための扶助は受けられるはずだ。お前の犯罪に加担して危ない綱渡りをするような真似、できるわけないだろ」
国や施設を頼っていく上で、多少の面倒はあるだろう。ただ、最低限の生活の確保のためにこいつの話に乗るのはあまりにもリスクが大きすぎる。賢い選択とは言えない。
大体こんな底の知れない不気味な女とは一刻も早く関係を断ち切るべきだ。
「そう」
俺の返事に対し、彼女はつまらなそうにそうつぶやいた。
「あなたの考えはわかったわ」
それからしばらくの間、沈黙の時間が訪れる。
むせかえるようなタバコの臭いがこの狭い部屋を満たして、煙が俺の視界をくもらせた。
彼女の表情はよく見えない。
一分、二分。
何故か彼女の次の言葉を待っていた。
古臭い置き時計が刻む秒針の音すらも耳に馴染んで気にならなくなってきた刻。
沈黙を破ったのは彼女の言葉ではなかった。
轟音と共に、目の前の煙が押し出されるように横に流される。
「マジかよ…」
突如開かれた入り口のドアから飛び込んできた物体が、そのまま壁に強くぶつかり、大きな音と共に部屋を揺らしたのだ。
「お、おい、今度はなんの冗談だ?」
これも天宮の仕掛けた何かだろう。そう思いながら天宮の表情を伺う。
「悪いけど、これに関しては私じゃないわ」
「だったら何だよこれ。なんで死体が吹っ飛んできたんだよ!」
部屋に飛び込んできたのは若い女だった。
二メートルほどの薙刀が女の胸には突き刺さっており、刃の部分が貫通して女の体を壁に釘付けにしていた。
「厄介なことになったわね」
トレンチコートの胸ポケットから取り出した携帯灰皿にタバコを捨てると、天宮はゆっくりとソファから立ち上がった。
「魔女狩りだ!」
突如として、ドアの向こうから声がした。
感情を昂らせた男の声。おそらく、あの女を殺した奴だろう。
「残念だけど、あなたにある選択肢は最初から一つだけよ」
敵襲を前にしても、天宮は先ほどまでと変わらず冷静だった。
選択肢とは、俺がこの女の殺し屋の誘いに乗るか否か、のことを指しているのだろう。
「あなた、ここであいつに殺されるか、或いはあとで私に殺されるか、どっちがいいかしら?」
「どっちも嫌に決まってるだろ」
「そう。なら決まりね。あなたには共犯になってもらうわ」
「なんだよこれ」
「持っていなさい。身を守る術は必要よ」
その言葉を聞いて渋々受け取ったのは先ほど天宮が使っていた拳銃だ。これでどうやって身を守れというのだ。使い方すらまともに知らないぞ。
「安心しなさい。弾はちゃんと込めたから」
「いやでもそもそも撃ち方だって…」
「引き金を引くだけで弾が撃てるようにしてあるから、そこは心配しなくて大丈夫よ」
「いやでも…!」
撃てたとしてもそれを相手に当てる技術は俺にはない。そもそも人を撃つつもりだってない。そう訴えようとしたときにはすでに男が部屋に侵入してきていた。
女の胸に刺さった薙刀を勢いよく引き抜くと、それを構えて高らかに宣言する。
「我が名は草薙マキヒコ!薙刀使いの殺し屋にして、『審判』の名を継ぐ者!『魔術師』天宮ナナミよ。私は依頼を受け、お前を殺すためにここに来た」
男の身長は180、いや90はあるだろうか。
長く伸ばした金髪を後頭部でまとめ、服装は陣羽織と、いかにも和といった感じの見た目をしている。
その見た目から受ける印象は、話し方や立ち振る舞いもあってか、非常に豪快な熱血漢と言ったところだろうか。
「もしその薙刀で戦うつもりなら、この部屋は少し狭すぎるんじゃないかしら?」
確かに、この地下室の天井はそれほど高くない。
二メートルの薙刀を振り回すにはあまりにも狭すぎる。
ゆえに奴にとってここでの戦いは明らか不利に見える。それでも自分からここに足を踏み入れたということは、何か策があるのか、或いは単にバカなのか。
「心配御無用!確かに今のままでは窮屈だ。しかし、これならばどうだ!」
今から秘策を披露する。そう意気込んだ男は何を血迷ったのか突然手にしていた薙刀を半分にへし折った。
「それがあなたの秘策なの?確かに長さは短くなって振りやすいかもしれないわね。でもそれだと薙刀である意味がないじゃない」
「まぁ見たまえ」
折れて二本になった薙刀。それは眩い光を放ち、たちまち二本の短い薙刀へと変化した。
こいつも天宮と同じような奇術を使えるってことか?
「これでこちらの準備は整った。お前達は何で戦う?そっちの男は拳銃か。それで『魔術師』、お前は何を使う?その準備くらいは待ってやろう。丸腰の相手を斬るのは我が武士道に反するからな」
「あら、流石は『審判』。随分と余裕なのね。ただこう見えて私の方も既に準備はできているわ」
「ほう?お前の方こそ随分と余裕だな。それで、そっちの男はどうなんだ?依頼されたのは『魔術師』の首のみ。大人しく立ち去るというのなら見逃してやらんこともないが」
「ほ、本当か!今すぐ立ち去れば見逃してっ」「彼は私のパートナーよ。もし私を殺すつもりなら、私と彼の二人を同時に相手取ることになるけれど、それでもいいのかしら?」
俺の言葉を遮ってこいつは無理やり意味不明なことを言いやがった。
「いや、ちがっ!」「無論だ!いいだろう、二人同時にかかってこい。その方が楽しめそうだ!」
「だからっ!」「危なくなったらその銃を使うのよ。普通の拳銃にはない特別な力を付与してあるから」
「では行くぞ!『魔術師』とそのパートナーよ!その命貰い受ける!」
必死の叫びも虚しく、俺の主張は全て見事に跳ね除けられ、戦いは始まってしまった。
最初に攻撃を仕掛けたのは草薙の方。
一歩目の大きなステップで一気に距離を詰めると右手に手にしていた薙刀を天宮の首に目掛け大きく振りかぶる。
それを受けた天宮の方は。
腕を組んだまま突っ立っているだけ。
攻撃を避ける素振りは一切ない。そもそも武器すら持っていないように見えるが、どうするつもりなのだろうか。
まさかこのまま殺される?いや、天宮が使う奇術、詳細はわからないが、この攻撃もあの奇術を使うことで躱す、あるいは反撃を取るはずだ。
「もらった!」
草薙の渾身の横薙ぎが繰り出される。
その刀身は天宮の首元に迫り、そしてそのまま貫通してしまった。
グサリ という、生々しい音を立てて。
「な…ぜ…!」
ほんの刹那。瞬きをしただけの時間差。
首を斬られたかに見えた天宮の姿が、気づけば草薙の胸にナイフを突き刺していた。
「呆気ないわね」
「いいやまだだ!これしきのことでは私は倒れん!」
「確かに、あなたならこの程度の刺し傷、気合いで耐えそうなものね。でも残念、刺し傷に加えて、そこに毒が塗ってあったら、流石のあなたも耐えられないんじゃないかしら?」
「ど、毒だと!?」
すごい…あの一瞬で天宮が何をしたのか、俺には全くわからなかった。
戦いが始まったと思ったら、その直後には床に這いつくばって毒による苦しみに悶える草薙の姿があった。
「さぁ、今よ。トドメをさしなさい」
「え?」
「彼は今、毒が効いててまともに体が動かなくなっているわ。せっかく狙いやすくしてあげたんだから、丁度いい実践訓練になるじゃない?」
トドメって、まさか、俺にこいつを撃てってことか?
「冗談じゃない。俺は殺しはやらない!そもそも、お前の仲間になるつもりはない!」
「言ったはずよ。ここで殺されるか、それとも殺すのか。答えはもう出てるはずよ。もしも愚かにも死ぬことを望んで選ぶのなら、あなたはあのまま私に殺されていたはずよ。だけどあなたは死ななかった。あの時、あなたは確かに生きることを望んだんでしょ?私があなたを殺すはずがないって、信じたんでしょ?」
「だとしても、生きることを望むことが、誰かを殺していい口実になっていいわけじゃない!もううんざりなんだよ!殺すとか、殺されるとか。目が覚めたら記憶なくて、あんたにここまで連れてこられて、殺されかけて、殺さなくちゃいけないとか言われて、もう、こんなのおかしいだろ!」
もう、頭ぐちゃぐちゃだ。どうして俺はこんな目に…
気づけば俺の目には大粒の涙が浮かんでいた。
涙でぼやけて映る視界の先には、どこか寂しげな顔をした天宮の姿があった。
「うおおおおお!!」
先程まで動かなくなっていた草薙が、突如大声をあげながら立ち上がった。
「『魔術師』天宮ナナミ…わけのわからん能力を持っていることは噂に聞いていたが、まさかここまでとはな…」
「あら、あそこからどうやって回復したのかしら」
「我が『審判』の示す力の象徴は復活、再生、変革!私は何度でも蘇るのだよ。そして、『魔術師』よ。お前との戦いを続ける前に、まずは邪魔なギャラリーの排除を優先させてもらう」
再び攻撃の構えをとった草薙。大きな一歩による一直線の詰め寄り、ではなく。不規則なステップを踏みながら今度は俺の方へと向かってくる。
まずいな。このままじゃ確実に殺される。
もし一振り目を躱せたとしても、やつは両手に薙刀を持っている。ノータイムで繰り出されるであろう二撃目を喰らうのは確実。
「もう一度、私を信じてみなさい」
敵の体が目の前に迫る中、天宮の言葉を受け、なぜだか俺は戦いが始まる直前のあの言葉を思い出していた。
『危なくなったらその銃を使うのよ。普通の拳銃にはない特別な力を付与してあるから』
……
「その命、貰い受ける!」
奴が振り降ろした薙刀が俺の首に到達する直前。
俺は引き金を引いた。