第一話 目覚めと喪失
どれだけ長い時間眠っていたのだろうか。
そこには絵に描いたような美しい青空が広がっていた。
寝ぼける目を擦りながらも身体を起こそうとすると、何かに頭をぶつけてしまった。
弾力のある、柔らかい…
「女性の胸に許可なく触れるなんて、随分と大胆なのね」
「は!え?む、むね!?」
慌てて飛び起きると、見知らぬ女性がそこにはいた。
どこか妖艶な雰囲気をまとうその女性は、ベンチに姿勢良く腰掛けていた。
そして俺が今いる場所もまた、ベンチの上だった。
さらに気づいてしまった。
つい先程まで俺の頭があった位置、それは彼女の太ももの上、つまり…
「初めての試みだったのだけれど、どうだったかしら、私の膝枕は?」
え、ちょ、ど、どうゆうことだ?なんで俺は知らない女性に膝枕してもらってるんだ?
「だって、あなたここで倒れてたのよ?放っておくわけにもいかないじゃない」
まるで俺の思考を見透かしたかのような彼女の言葉に一瞬驚くも、それ以上に今は頭が混乱している。
そもそもどこなんだここは?全く見覚えがない。
それに彼女の話によると俺はここで倒れていたらしいが、その理由にも全く心当たりがない。別に飲み会で酔い潰れた帰り道、なんてこともあるまい。酒を飲んだ記憶なんてないからな。しかしそうすると最後の記憶は…
「あなた、名前はなんていうのかしら?」
「………」
「ああ、ごめんなさい。まずは私から名乗るべきだったかしら。私は天宮ナナミ。はい、それであなたは?」
「俺は、俺の名前は……わからない…」
気づいてしまった。俺には記憶が何一つない。
ここに至った経緯はおろか、自分の身元すら思い出せない。
「まさか、記憶喪失ってこと?」
「ああ、家も名前も、これまでの俺の人生の記憶が何一つ思い出せない。そもそもこの体自体、まるで自分じゃないみたいっていうか、その、なんていうか、自分の顔すらわからないんだ」
「そう、それは困ったわね」
「ああ…」
淡白な返事の後に、少しの間沈黙が訪れる。
ここで一つ、疑問に思ったことがある。
それは自分の心情についてだ。記憶喪失だとわかって、本来であればもう少し慌てたり、不安になったりしそうなものだが、俺の気持ちは至って普通。むしろどこか穏やかな気分になっていた。
案外これが、記憶を失った人間のリアルな感情なのだろうか…
「ねえ」
沈黙を破り、突然立ち上がった彼女は俺に手を伸ばしてこう言った。
「私の事務所に来ない?見せたいものがあるの」
***
「着いたわ。ここよ」
彼女の事務所は先ほどの公園から歩いて五分ほどの場所にあった。
公園のあった住宅街を抜けた大通り、その道沿いにある路地裏の雑居ビル。
狭いの路地のため日差しが入らず、かなり暗い。
建物も少し古いためか、少し不気味な場所だ。
しかし、見せたいものというのはどうも気になる。
「なあ、そろそろ教えてくれないか?」
「そう焦ることないわ。すぐにわかるわよ」
先程からこの調子で、その見せたいものとやらをなかなか教えようとしてくれない。
そういえば、何故彼女は倒れている俺を見つけた時、真っ先に救急車を呼ばなかったのだろうか。
そしてなぜ見ず知らずの俺をここまで連れてきた?
何か目的があるのか?或いはもしかして俺と彼女の間には以前から何か関わりがあったのか?
いや、先ほどの会話からしてそれはないはずだ。
彼女の考えが読めない。正直言って少し怪しい。
「どうしたの?私のことをじっと見つめて。何か気に触るようなことを言ったかしら?それとも単に考え事?」
しまった。悟られたか。
「いや、なんでもない」
「そう?まあいいわ。この階段を降りた先にあるのが私の事務所よ」
まずいな、あれこれ考えている時間はないみたいだ。
このままここで立ち止まっていては彼女に不審がられてしまう。
しかしどうする。本当についていっていいのか?
抵抗はある。だが、記憶が一ミリもない以上、彼女だけが今の俺にとって唯一の手がかり。
俺が倒れていた時の詳細をはじめに、彼女の持っている情報は必ず必要だ。
ならば仕方あるまい。
リスクとリターンを比べた結果。俺は階段を降りることにした。
そもそも俺が過剰に警戒しすぎているだけなのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、彼女が開いた扉の先、事務所の中へと足を踏み入れた。
「事務所って言うけどよ、あんたはいったい何をしてる人なんだ?」
そこは俺が予想していたよりもずっと狭く、殺風景な部屋だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁、最低限置かれたソファやデスクなどの家具、それを照らす天井の蛍光灯。
まるで地下シェルターだ。
「ここよ」
俺の問いかけには答えず、彼女は部屋の奥にあるもう一つの扉の横で立ち止まった。
「おい、いい加減俺の質問に答えてくれ。はっきり言って…」
「いいから、つべこべ言わず黙ってついてきなさい」
俺の言葉を遮った彼女の言葉は、これまでの妖艶な、穏やかな印象とは全く逆の、殺意じみたような恐ろしさのある、強い語気を持っていた。
動揺する俺を横目に、彼女はドアノブを握り、ゆっくりと扉を開いた。
その瞬間、血の匂いが俺の鼻腔を刺激した。
「え…?」
開かれた扉。その先にあった光景。
自分の目を疑った。
その部屋には人がいた。
背の高い若い男がいた。
男は手足を縛られ、口をガムテープで塞がれていた。
逃げなければ。
そう思った瞬間には体が動いていた。
今すぐここを出なくては!
……嘘だろ。
出口がない。ついさっき事務所に入った時の扉がない。なくなっている。
その時だった。
破裂するような大きい音が、狭いこの部屋に鳴り響いた。
「…へ?」
耳の奥に鋭い痛みが走り、世界の音が遠のいた。
振り返るとそこには、動かなくなった男がいた。
天宮ナナミ。彼女の右手には一丁の拳銃が握られていた。