07. 視ているぞ
食堂を出てしばらく。
薄暗い廊下を進むうち、私は侍女が寝室に向かっていないことに気付いた。
どこに行く気か訊ねようにも、彼女は口が利けない。
とりあえず後についていってみると、通路の暗がりに隠れていた階段を降りて地下へと案内された。
地下通路の奥には大きなアーチがあり、それをくぐって中に入ってみると、白い煙が漏れ出てくる扉が目に留まる。
「あれは一体……」
私が警戒していると、侍女がその扉を開いた。
すると、中から一気に煙が噴き出してきて私の全身を包み込む。
毒ガスの類か!?
とっさに飛び退いたものの、煙を吸い込んでも特に何も感じない。
否。そもそも咳き込むようなこともない。
「煙じゃない? ……まさか」
開かれた扉を覗き込んでみると、暗闇の中から白い霧のようなものが漂ってきているのがわかる。
これは……湯気だ。
侍女がランタンで照らすと、大理石の床の先に大きな浴槽が見えた。
湯気はその浴槽を満たしたお湯から立ち上っていたのだ。
「やはり浴場……!」
呆気に取られていると、突然、侍女が私のドレスを脱がし始めた。
冷たい指先に驚いたけど、それ以上にドレスを脱がされることに焦りを覚えた。
スカートの下には短剣を隠している。
それが見つかったら厄介なことになるに違いない。
「ひ、一人で脱げるわっ」
そう言って侍女から離れると、心なしか彼女は寂しそうに一礼し、部屋の外へと出ていった。
扉が閉まったのを確認し、私は大きな溜め息をつく。
……危ないところだった。
「城内を歩く時は暗器だけにした方がよさそう……」
私はドレスを脱いだ後、短剣をそれでくるんでテーブルの上に置いた。
その後、下着やアクセサリを外した後、恐る恐る浴槽へと近づく。
浴場は侍女が置いていってくれたランタンのおかげで真っ暗ではないけど、青い光に照らされているため不気味さは残る。
しかし、浴槽に張られていたお湯を見て印象が変わった。
「綺麗」
城の周りにある沼地を見ていたから、どんなに濁ったお湯なのだろうと思ったけれど、そこで見たのは透き通るような綺麗なお湯だった。
お湯は壁に彫刻された悪魔のような石像の口から流れ出ている。
おそらく水を沸かしたものだろうけど、こんな荒廃した土地のどこにこれほど綺麗な水が湧いているのか不思議でならない。
あるいは、温泉でもあったりするのだろうか……?
とにもかくにも立派な浴槽に浸かれるのは幸い。
私は床に置かれていた桶で体を洗い流し、さっそく浴槽に浸かった。
「はぁ~。気持ちいいい~」
本物のお湯だ。
これほど心身共に癒されるお風呂なんて初めて。
なんだか暗殺任務であることを忘れてしまいそう。
「せめてもう少し明るければ……」
晩餐の時に城内をもっと明るくしてほしいと要望を出せばよかった。
でも、それはまた次の機会に。
今しばらくはこの安らぎに浸っていたい。
◇
……扉の閉まる音で眠気が覚めた。
いけない。
浴槽が余りにも気持ちよくて、どうやらうつらうつらしてしまったよう。
入り口の方に振り返った時、ランタンの照らす明かりが消えた。
視界は真っ暗となり、浴場には壁から流れ落ちるお湯の音だけが聞こえるのみ。
「侍女さん? どうかしたのですか?」
私は侍女が入ってきたのだと思った。
彼女は口が利けないから、私が呼びかけても返事はできない。
むしろこの暗闇の中、突然目の前に現れたらぞっとしてしまう。
もしかして、背中を流すために入ってきたとか?
だったらランタンの火を消す意味がないな。
浴場には誰の気配も感じない。
もしやランタンの蝋が切れただけ?
でも、たしかに扉が閉まる音が聞こえたような――私の勘違いか?
「……!」
否。勘違いじゃない。
視線を感じる。
どこからか私を視ている者がいる。
私は周囲を警戒しながら、浴場を見渡せるように壁側へと背中をつけた。
真っ暗だから目が慣れるまでは何も見えないのだけど、それでも気持ちを落ち着かせるためには必要なことだった。
「誰?」
私の呼びかけに誰も応じない。
これはあの侍女じゃない――もっと別の何かだ。
その時、私の首筋に何か冷たい物が触れた。
「……っ!?」
これは刃物だ。
今、私の首に刃が当てられている。
この私がまったく気付かなかった。
いつの間に……どうやって私に近づいたんだ!?
「嫁入り道具にシテは、物騒なモノを持ち込んだナ」
頭上からしゃがれた声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、温まっていた全身を一気に寒気が襲う。
「だ、誰……?」
「質問に答えロ。ナゼ城内にこんなモノを持ち込んダ?」
こんな物、とはおそらく短剣のことか。
もしや私の首筋に当てられている刃はそれ?
この城の全員が私を歓迎してくれるとは思わなかったけど、想像以上の過激派がいることがわかった。
声の主の質問には細心の注意を払って答えなければ……。
「護身用のものです」
「護身用? オマエにその必要があるカ?」
「それは……私が何の力もない人間の女だからです。魔王陛下の人柄を知らない私が、警戒して武装することは罪でしょうか?」
「理由次第ダ。ソシテ、陛下に仇なすコトは罪!」
「敵対の意思はありません。本当です」
「オマエは聖女ダロウ。人間ドモは、何を企んでオマエをココによこシタ?」
「何も企んでなどいません。私は、人間も魔物も双方の平和のために――」
「嘘ダ! オマエ達人間は何か企んでるに違いナイ。正直に言わナイと、コノ首を掻っ切るゾ!?」
本気か?
この魔物の声からは怒気が伝わってくる。
納得させることができなければ、私はここで殺されるかもしれない。
「あなたの迂闊な判断で、陛下の伴侶たる私を殺してよいものでしょうか」
「迂闊ダト? このワタシの判断が迂闊?」
「私は魔王陛下に嫁いできた女。これから愛を育んでいこうという時に、なぜ邪魔をするのです」
「黙レ! 人間のオマエに陛下を愛せるワケがナイ!!」
「なぜです? 私はその覚悟を持ってこの城にやってきました。あの方はまだ幼いけれど……人間の私を受け入れてくれる器量の持ち主です。愛せないはずがありません」
「フザケルな! 人間の……オマエに……陛下をっ!!」
……誤ったか?
声の主は明らかに興奮している。
このまま感情に駆られて刃を引かれでもしたら……。
「……ずっと視ているゾ」
「え?」
「ワタシはずっとオマエを視てイル。陛下に仇名した時ニハ、その命でモッテ償ってもらうゾ!」
「いいでしょう。その時が来たならば」
「人間の……女などニ……ッ」
声が遠ざかっていく。
同時に、私の首に触れていた刃が湯面へ落ちる。
「!?」
ザザザッと何かが天井を走る音が聞こえた。
見上げると、暗闇の中を髪の毛のようなものが入り口へ走っていくのが見えた。
それは乱暴に扉を開くや、そのまま廊下へと出て行ってしまう。
少しして、ランタンを持った侍女が中を覗き込んできた。
その身振りから察するに、彼女も困惑している様子。
……ひとまずは助かったか。
「まったく冷やりとしたな」
私は再びお湯へと身を沈めた。
すっかり冷え込んだ体がすぐに暖かくなっていく。
しかし、呑気してはいられない。
まだ初日だと言うのに、さっそく問題が現れた。
魔王と宰相が私を受け入れたとは言え、私をよく思っていない連中が少なからず存在する。
これは暗殺任務の大きな障害となる。
どうしたものか……。
ああでも、今しばらくはこの安らぎに浸っていたい。