妖精アーミの退屈な世界~アーミラリ天球儀~
高校二年生のマナミの前に、手の平に乗るほどの小さな天球儀がある。それはくるくる回りながら、キラキラと光を反射する。
「マナミ、本当にいいの? 確かにこのアーミラリ天球儀は、今のあんたのいる世界とは別の世界のあんたを見る事ができる。でも……」
そう言ったのは、このアーミラリ天球儀に憑いている妖精のアーミだ。背丈は二十センチメートルほどの人型で、虫の翅のような半透明な羽が四枚生えている。なぜかその姿はマナミにしか見えていないらしい。雑貨屋さんで一目惚れして購入したこの天球儀の陰に隠れていた。
マナミはもう三度、この天球儀を使用している。星の位置を調べたという意味ではない。妖精アーミの言う別の世界――パラレル世界を見るために使用したという意味だ。
ちょっと風邪気味だったテストの日、もし行っていたら結果はどうなっていたか。友達に一緒に駅前のカフェにパンケーキを食べようと誘われた時、塾をさぼって行っていたらどうなっていたか。お父さんに釣りに誘われた日曜、宿題を放って行っていたらどうなっていたか。
パラレル世界を覗いたら、テストは散々になってたし、塾をさぼった事をお母さんにばれてひどく怒られた。そして釣りは途中で雨が降って結局途中で引き返してきた。マナミは自分の選択が間違っていなかったのだと安堵してきた。
そして今、自分の部屋の机の前に座っているマナミは、思いつめた顔でアーミラリ天球儀を見つめている。
「マナミ、あんた、同級生に呼び出されてるんでしょ?」
「うん……」
アーミはマナミを睨むように見つめている。
「たぶん……告白されると思う」
同級生のユウマはクラスは違うけれど、マナミと同じ生徒会役員で、秀才だと名高い男子だ。この夏、アメリカへ留学する事になっていて、その旅立つ日が今日なのだ。マナミはユウマに見送りに来てほしいと言われていた。
「じゃあぐずぐずしてないで、早く行きなよ!」
アーミは苛立ちを抑えきれないように声を上げる。けれどマナミはもぞもぞと体を小さくするだけで、動こうとしない。
「ユウマくんに告白されたら、わたし、OKしちゃうと思う」
「両想いって事じゃん! なんで早く行かないんだよ!」
マナミはアーミが聞き取るのがやっとの小さな声で呟く。
「一つだけ……後悔している事があるの」
マナミは今年の春に卒業してしまった先輩を思い出していた。テニス部のエースだった彼は、引っ込み思案なマナミにも気軽に声をかけてくれる爽やかな人で、マナミは密かに憧れていた。最後のバレンタインの日、思い切って告白しようとまで思いつめていた。
でもマナミはできなかった。たくさんの女の子に囲まれている先輩に近寄っていく事すらできなかった。その未練を今でも引きずっている。
「だからパラレル世界を見たいっての? もし告白できてたらどうなってたかって?」
アーミの口調は厳しい。アーミは荒々しい手つきで天球儀を回した。
「マナミ、一つだけ教えておくよ。チャンスってのはあんたの未来の中にしかないんだよ」
マナミはゆっくりとまどろみの海に沈んでいった。
あ、わたし、先輩の隣を歩いてる。
マナミは先輩と手を繋いで歩いていた。マナミより頭一つ背の高い先輩の顔が近い。
やっぱりあの時、告白していればよかったんだ。
マナミはやはり後悔したが、それでも今、夢の中だけでも先輩の隣にいられる事に幸福感が湧いてきていた。
ああ、このまま……
そう思った時だった。前から女性がつかつかと歩いてきて、いきなり先輩の頬に平手打ちを食らわせた。
「最低! 浮気してたのね!」
女性がそう叫ぶ。
え? 浮気?
訳もわからずマナミがおろおろしていると、先輩は「この子はただの遊びだよ! 本命はおまえだけさ!」と言い放った。マナミがようやく事態を把握してぽろっと涙を零した時、マナミは目が覚めた。
アーミが相変わらずきつい視線を投げかけている。どうだった? なんて声もかけない。
マナミはぽろぽろと涙を流していたが、ふと思い出して立ち上がった。
「わたし、ユウマくんを見送りに行かなきゃ……!」
マナミが急いで部屋の外に駆けだしていくのを、アーミはそのまま見送った。
アーミは天球儀をくるくる回す。
「人間ってのは本当に愚かだ」
取り戻せない過去に縋って、未来のチャンスを逃す。数時間の内にマナミが間に合わなかったと言って泣いて戻ってくるのなんてわかりきっていた。
そしてまた言うのだ。あの時、先輩の夢を見なかったらどうなってた? ユウマくんを見送りに行く事を優先していたらどうなっていた? と。
過去の別の分岐を見た者はみな、ああしなくてよかったと安堵する。でもその内こうすればどうなっていた? どうしてあれを選ばなかったのかと後悔を見るようになる。
そうなればどうなるか? もうその人間は自分で選択する事ができなくなるのだ。そして何かのチャンスが来ても、動くのを恐れてただそれを見送るようになる。そしてまた天球儀を見るのだ。あの時、ああしていれば……と。
「バッカバカしい!」
アーミはそんな人間を何人も見てきた。もううんざりだった。
マナミが戻ってきた。
「間に合わなかったんだね?」
「うん……」
やっぱりか。アーミはため息をつく。そしてマナミの次の言葉を待つ。もうアーミにはわかりきった言葉を。
しかしマナミは何も言わなかった。何か真剣な表情でずっと考えている。そして不意にマナミは参考書を取り出して勉強しだした。
「何してるんだ?」
思わずアーミはそう聞いていた。自分がユウマくんを見送りに行ったパラレル世界を見たくないのか?
「わたし、勉強するの。今度こそユウマくんにちゃんと顔向けできる人間になっていたい」
「もう手遅れかもしれないのに?」
「それでもいいの。振られてもいいの。ただユウマくんが帰ってきた時、あなたが好きでしたってちゃんと伝えたいの」
マナミはもう天球儀には見向きもしない。アーミは自分の役目が終わった事を悟った。
「今までありがとう」
背中を向けたアーミに、マナミはにっこり笑ってそう言った。
アーミは天球儀を抱えて飛んでいく。なぜだか頬が緩んでいるのがわかる。
「なんだ。案外、人間も捨てたもんじゃないじゃないか!」
完
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