鍼の先
黒い手
部屋中が、暗く、空気が重く、ひどい臭いに包まれた。
僕には見えた気がした。
人の身体から、ブワッっとどす黒い、霧のような泥のような、何かが溢れだすのを。数えきれない数の小さな黒い手がびゅうと伸びて師匠の両手にしがみついたのを。
師匠は釣りに似てると言った。
鍼を落としてそれがかかるときがある。
不思議だとも言った。
鍼の先が、曲がっていたら、いや、そもそも、まっすぐじゃないと『そこに』打てないか。
面白そうに笑って。
学生の僕にはまだ、難しいことは何もわからない。
でも師匠は普通とは違う気がする。
師匠は眼が悪い、見えないとか障害があるとかではない、ど近眼なのだ。メガネがないと何も見えないらしい。メガネをかけても『それは』見えないらしい。
見えないから普通でいられるのかもね。そうも言って笑ってた。
僕の見えるものを、肯定も否定もしない。
師匠は、立ち上がってそれをつかんで引きずり出す。気持ちの悪いどす黒い塊はズルリと人の身体から、鍼の刺さったところから、 まるで生き物のように跳ねたりグニャリと動きながら師匠の腕にとりすがる。
あらかた引きずり出すと、師匠はなれた手付きで床に向かって腕をふる。
勢いよく飛び付いたそれは身体から離れた瞬間、力をなくして弱くなるようで、まるで泥の塊のように床にベチャリと叩きつけられてしまう。
いくつもの小さな黒い手が力なく空をつかんで揺れている。
返す手で、素早く鍼を抜いて、指で押さえる。
消毒して、軽く揉む。
「せんせえ、気持ちええわー。軽うなった。」
ベッドで半裸で寝ている初老の男は嬉しそうに、気持ち良さそうに、声をあげた。
僕がまだ床をみているから、師匠はそれを見て嫌な顔をした。
腹立たしげにそれを踏みつける。
それはだんだんと弱って白い煙りのような蒸気のようなものをあげながら小さくなってきえていく。
師匠が足をどけると黒い煤のような汚れがふわりとかききえた。
僕が変なものが見えると言ってから、なんとなく師匠は以前より丁寧に手を洗っているような気がする。
綺麗好きなんだろう。
「魚もなかなか臭いとれないよね。あの生臭い臭い。」
「今日のは臭かったですね。」
「そう?」
「何か焦げ臭い感じ。」
「ああ、」
師匠は何か思い当たる風で、
「じゃあまだ出るね、多分。」
とちょっと悲しそうな顔をした。
生臭いは厄介。
焦げ臭いのは、悲しそうだけど。
腐れ臭いのは、嫌いらしい。
どうにもしようがないものをどうにかするなんて無理だろう?
吐き捨てるように言っていた。
面白くないのだそうだ。
何処から何処までか曖昧で、途中でやめたこともあるそうだ。ああ、もうダメだ、と思ったよ。
この人は救えない、その場しのぎも、キッカケを作ることも無理だろうと。
そういう人は、死がちかい。
大抵の場合近々にそれを知らされる。
「若い頃は何もわからないから、自分がなんでもできる気がするもんだ。」
「私はバカで若かったから、無駄に人の寿命を削ってしまったこともあったんじゃないかと思う。」
汚いものを取り除くことに成功したとしても、残ったものだけで生命が維持できないこともある。
「老人はいい。
子供はだめだ。
自分の大事なもんまで持っていかれる気がする。」
師匠はたばこの白い煙をはきながら言った。
「子供はダメだ。できれば見たくない。ここではね。」
僕はさっきみた黒い小さな手を思い出した。
子供とか、赤ちゃんくらいの小さな手。
必死にもがいているような。