知者の引き際
孫子の兵法十三篇を著したのは、春秋時代の呉の軍師、孫武である。
兵士の用い方とはなんたるかを兵法書に残した。その最初の一文はこういうものだ。
『戦争すれば、国を潰すリスクがある。そう簡単にするべきではない』と。
その後にも、『勝ち続けるというのは決していいことではない』『戦わないで勝つことが兵士活用の仕方だ』と書いているのだ。
本当にその通りだ。二千年以上も前に、孫武はすでにそれを知っていたのに、現代を生きる我々には進歩がない。
さて、その孫子が呉王の前に面接した際に、「誰でも兵士に出来るか?」と下問された。孫子は自信を持って答えた。
「もちろんですとも」
呉王はそれを聞いて続けた。
「私の妻たちでも?」
これはイタズラだ。女では火急の役に立つ兵士には出来ないではないかと後から言うつもりなのだ。
しかし孫子は答える。
「お見せしましょう」
兵士の調練場に、呉王の妻妾が矛を持ってズラリと並ぶ。そこに孫子は説明した。
「右といえば右を向き、左と言えば左を向く。前と言えば前を向き、後ろと言えば後ろを向きなさい」
妻妾たちは、玉のようにコロコロと笑って答えた。
「では右!」
孫子が旗を振ると、妻妾たちは大笑い。長袖で顔を抑える容色ある姿は調練場に花が咲いたようだ。
孫子は呉王に詫びた。
「これは私の命令がきちんと届いていませんでした。これは将の責任です。もう一度説明いたします」
そういってもう一度、妻妾たちに説明をした。そしてまたもや旗を振る。
「右!」
高らかに鳴る太鼓の音。しかしここは調練場にも関わらず、女性の笑い声で完全に支配された。呉王も妻妾たちのありさまにともに笑った。
しかし孫子は妻妾たちにこういった。
「命令が行き届いていないのは将の責任だが、命令が届いているにも関わらず、動かないのは兵士の責任だ。よってお前たちを処刑する。ただし、全員を処刑しては軍とはなれない。よって隊長を処刑する!」
そう言われて呉王は慌てた。なにしろ、隊長は一番寵愛している妻だったのだ。
すぐさま処刑を止めるよう命令したが、孫子は意に介さない。
「軍が外にいる場合は、君命でも聞けません」
そういって、さっさと処刑してしまい、新たに隊長を任じた。
女たちは震え上がってしまい、孫子の号令を違えたりしなかった。
孫子は見学している呉王へと伝えた。
「ここに最強の軍隊は出来上がりました。呉王さま。ここに来て命じて下されば、兵士たちはたとえ火の中でも水の中でも飛び込みましょう」
しかし妻を殺された呉王は腸が煮えくりかえっていたので、席を蹴って行ってしまった。
だがその後、呉王は孫子が正しいことを理解し、将軍へと任じた。
孫子は呉で活躍し、呉の国を隆盛させたが職を辞して田舎に引っ込んでしまった。
彼の友人は、彼を訪ねて理由を聞いた。
「なぜ志半ばで辞めてしまうのか。これから呉王の寵愛は思うがまま。臣下の最高位になれるのだって夢じゃないのに」
「いや、呉王さまは勝つ度に慢心するようになってしまった。そのうちに重臣たちは処刑されるだろう。だから退いたのだ」
孫子の言うとおり、訪ねた友人は処刑される運命となってしまった。
孫子の身の引き方は、まさに知者の身の引き方であっただろう。
◇◇◇◇◇
孫子の兵法に並ぶのに、呉子の兵法がある。著者は呉起。しかし日本では孫子ほど有名ではない。
呉起は兵法家、政治家として有名ではあるものの、そのエピソードは感心できるものではなかった。
学問の途中、母が死んだ。しかし彼は母の葬儀の時に家にも帰らなかった。これに先生は怒って、彼を破門とした。
その後、その手腕を買われて魯に仕えたが在任中に斉が攻めてきた。魯公は彼を将軍にしようとしたが、彼の妻は斉の人だと讒言するものがいた。
呉起は魯公を安心させるために妻を殺し、将軍となった。
しかしそれが元で、さらに人非人との讒言が激しくなり命の危険を感じたので魏に逃げた。
魏でも呉起は重用され将軍となった。
彼は兵士とともに寝て同じ食事をしたので、兵士からの人気は高まった。
あるとき兵士の一人の傷口が膿んで膿が流れたので、呉起はそれを口で吸ってやった。兵士たちは感動して涙を流した。
その話を、兵士の母にするものがいた。兵士の母は泣き出したので、これは将軍に恩を感じてのことだろうと思ったが違った。
「私の夫も将軍から同じように膿を吸って貰い、感激して奮戦し死んでしまいました。私の息子もどこかで将軍のために死ぬのでしょう」と。
呉起は魏に対して戦功を上げ、魏侯は彼を褒めたたえた。しかしその魏侯が身罷ると、その子が即位した。
新君主が宰相に選んだのは田文というもので、呉起は不服だった。彼が一人になったときに抗議して退任させようとした。
「外に出ては外敵を破り、内にあっては国を守る。また諸侯に睨みを利かすのに、あなたと私、どちらが優れてますか?」
それに田文は答えた。
「それはあなただ」
呉起はわが事なれりと微笑んだ。
「ではその私よりも、なぜあなたが上の位なのでしょう? おかしいと感じませんか?」
「そうですな。では、今度は私がお聞きしましょう」
「???」
「我が君は若く実績がない。あなたは国中から功績を讃えられている。その若君を支えるのはあなたと私、どちらが適任ですか?」
それは呉起が宰相となったら、誰も新君主を敬わないと言うことだ。呉起はその言葉を受けて田文にうやうやしく頭を下げた。
「閣下。あなたが適任でござる」
「お分かり頂ければありがたい」
やがて田文が死ぬと、今度は別の男が宰相となったが、この男は呉起を失脚させたいと思っていた。
この男は魏侯の娘を嫁として貰っていたので、それで一計を案じた。
まず魏侯に「呉起は功績高いので、公女を妻合わせようと言うのです。それを受ければ彼は魏に骨を埋めるつもりでしょう。断れば他国に出奔するつもりです。信用できません」と言ったのだ。魏侯もなるほどと納得した。
次に男は呉起を家に招いた。かねてより打ち合わせ通りに妻に言い聞かせていたために、彼の妻は彼をなじり、下男のように命じたりした。それを見た呉起は、公女など嫁に貰うべきではないと思った。
その矢先、魏侯から公女を嫁す打診があったが、呉起はそれを丁寧に断った。
しかしそれ以来、魏侯は呉起の言うことを信用しなくなり献策も用いなくなった。
それがために呉起は、魏を出て楚に向かったのであった。
楚は名声の高い呉起を快く迎え、宰相とした。呉起はそれに応えて国にとって優良な政策を打ち出した。それによって楚は大きく栄えたのであった。
しかし、その政策によって甘い汁を吸えなくなった貴族たちは呉起を深く恨んだ。
そして、楚王が身罷ると真っ先に呉起を襲撃し、これを殺害した。
◇◇◇◇◇
秦を天下統一への基盤を作ったのは、公孫鞅という知者である。
彼は最初、魏の宰相の食客となった。
魏王は宰相へ訪ねた。
「君も歳だ。万一の時、君の後継は誰が良いだろう」
「さすれば、私の食客である公孫鞅に全てを聞きなされ。もしもその気がないのなら、他国に流れれば厄介な敵。殺してしまいなされ」
しかし魏王は、食客に政治を任すなど宰相も老いたと本気にしなかった。
宰相は、魏王に殺せと言ったが、やはり公孫鞅が惜しくなり、殺される前に逃げろと言ったが、公孫鞅は断った。
「重用せよという言葉を信用しなかったのですから、殺せという言葉も信用してませんよ」と。それは本当にその通りで、宰相が死ぬまでその言葉は実現されず、公孫鞅は魏を出て秦へと仕官した。
秦では公孫鞅を重用したので、公孫鞅はそれに応えて旧態を改め法律による政治を行ったので、国は強くなったがやはり呉起のように貴族に恨まれるようになった。
やがて公孫鞅は功績により商の地に封ぜられたので、人は彼を商鞅と呼ぶようになった。
公孫鞅はさらに法律による政治を強固なものとした。
やがて秦公が倒れると、その子が即位したが、新君主は公孫鞅によって側近を処罰されていたので、これを深く恨み、でっち上げで公孫鞅を逮捕しようとした。
公孫鞅は恐れて逃亡し、途中の宿屋で休息をしようとしたが、宿屋は公孫鞅が決めた法律で、旅券を持たないものは泊めてはならないとあるので泊められないと断ったので、公孫鞅は自分が決めた法律が余りにも過酷だと知ったが後の祭りだった。
それでも封地である商に戻って、対抗すべく挙兵したが鎮圧され公孫鞅は殺され、その死体は見せしめに車裂きの刑となった。
◇◇◇◇◇
その公孫鞅の後に宰相となったのは張儀である。
彼は不遇な時代、楚にあって袋叩きにあった。傷だらけになった彼は妻にたずねる。
「おお痛い。だが儂の舌はまだあるか?」
「何言ってんの? 当然有るでしょう?」
「なら十分だ。舌さえあれば働ける」
これは自らに知略と弁舌があることを自信を持っていたからだ。
彼は秦の宰相となった。秦は公孫鞅が作った法律により、強国となっていたので周りの国は秦を恐れていた。
張儀は、恨みある楚をどうにかしてやりたいと知略を巡らせる。まず土地をやるから斉との同盟を破棄して欲しいと言うと、楚は飛び付いてきたが、張儀は約束の土地を出そうとはしなかった。
怒った楚は秦に攻めてきたが、これを打ち破った。秦は譲歩して土地をやるから和睦しようと持ちかけたが、楚は聞かなかった。
「土地などいらん。張儀をよこせ!」
と言ってきたのだ。秦王は断ろうとしたが、張儀は自ら楚に赴いて何とかすると秦王に進言し、楚に向かった。
楚王は張儀を牢につないで殺そうとするが張儀は裏から手を回す。人を使って楚王の寵姫に伝えたのだ。
「秦王は私を取り戻すために、金銀と美女を楚に贈ってくるでしょう。そうなればあなたは今の地位にはおれませんよ」
これは秦から美女が来て、楚王はそっちを寵愛するという意味だった。寵姫は慌てて楚王に進言した。
「張儀などつまらぬ弁舌の男になぜそこまで執着するのです。あんなもの早々に秦に返してしまいませ。そんなことよりも私と楽しい遊びをしましょうよ」
楚王はそれに従って張儀を秦に返還した。張儀は、楚と斉を不仲にし楚を打ち破り、さらに和睦を成立させたのだった。
その後、秦王は斃れ新たに新王が立った。呉起、公孫鞅の流れと同じく、新たに王が立つと、災害がくる。
しかし張儀は、すぐに職を辞して他国に行ってしまい、その寿命を全うした。
◇◇◇◇◇
当時と今を比べるのはナンセンスではあるものの、知者といえども身の引き際を誤れば死ぬ。なんとも哀れだ。
漢代であれば、韓信は知勇に優れた将であり、富貴を手に入れたが晩年は不遇となり最終的には処刑されてしまった。
麻雀の役満国士無双とは「国に二人といない」という彼を指す言葉だ。
逆に陳平は兄に働かせ、自分は勉学に励むと見せかけ、兄の嫁と寝ていたという不道徳な男であった。
しかし漢帝国の臣下の最高位に就き天寿を全うした。
◇◇◇◇◇
ずる賢いから生き残れるのか? と言われればそうではない。
知がある、勇がある、義がある、仁があるといっても、運命はいたずらに命を奪って行く。
だがその運命の僅かな隙間をくぐり抜けることが出来るものが──。
本物の知者なのかもしれない。