第71話.二度目の死
しかし、ナナオがフミカを逃がすと決断したとき。
フミカもまた、自力で行動を起こしていた。
それに、ナナオを含めてその場の誰も、しばらく気づいていなかった。とうの昔に、フミカは額を抉られたダメージからは復活していたというのに。
蹲ったフミカの唇が、小さく動く。
その瞬間、フミカの全身を覆うようにして――闇色のリボンの切れ端のようなものが、重力に逆らっていくつも浮かび上がった。
「!? これは――魔道具か!」
気づいたレイが目を眇める。背後の兵士は何人か、未知なる魔道具の発動に怯んだようだった。
だが、少し離れた位置のレイが抜刀する前に動いた人物が居た。
生徒会長だ。
「足掻くね、赤目のネズミちゃん」
彼女は、確かに口元に笑みを浮かべていた。誰もが見惚れてしまいそうなほどに壮絶に美しい笑みを。
その手には長剣が握られている。そして生徒会長が問答無用に振り下ろさんとする先に、フミカが蹲っているのが……ナナオの目にははっきりと見えていた。
躊躇いはなかった。
ナナオはふたりの間に、割って入るようにして飛び込んだ。
そうしなければ、生徒会長は容赦なく、フミカの首を落としていただろう。その剣には、これまた恐ろしいことに殺意の欠片も宿ってはいなかったのだが、寸止めされないということがナナオには確信できていた。
だから、あと僅かにでも迷っていたなら、きっと間に合わなかったに違いない。
だがナナオは無事、間に合った。
頸動脈が切られた。
凄まじい量の血が天井に向かって噴き出したので、きっとそうだろう。ナナオは何故かそんなことを呑気に考えた。
誰かが顔を覆う。悲鳴を上げる。
斬りつけた張本人である生徒会長は、ナナオの行動に驚いたように目を見開いていたが、それがすぐ、面白いものを見つけた子どものような笑みに変わっていた。……やっぱ怖いなこの人。
しかし肝心なのはフミカだ。どうなってる?
倒れ伏したナナオが目だけを動かして確認すると、フミカは、呆然と目を見開いて……ナナオのことを見つめていた。
「あ、ああ。ナナオ……君……ナナオ君……」
その身体は、少しずつ透け始めているようだ。
そうか。さっきの魔道具は、転移の魔法道具か何かなのだろうか? それならきっとフミカは別の場所に退避できるだろう。なら良かった。当面の危機は去ったと言えるだろう。
だがフミカは喜ぶどころか、わなわなと身体を震わせ、ひたすらナナオを見下ろしているだけだった。
大丈夫だよ、フミカ。
そう伝えたつもりだったが、声はうまく出なかった。
そして目を開いているのも億劫になってくる。視界がひどくかすんでいるし、頭がとんでもなく重いのだ。
もうこのまま寝てしまおうかな。身体が冷たくて仕方がない。こういうときは温かい布団にくるまって寝るに限るんだ。だから……。
ナナオはゆっくりと目を閉じた。
それで、終わりだった。
宮内七緒は、死んだ。
――――――
――――
――
「……もし、もし。大丈夫~?」
目が覚めて、まず目にしたのは脂肪の塊だった。
……などという呼び方では失礼極まりない。夢とロマン溢れる大きな胸が、ナナオの顔のすぐ上で、たゆんたゆんと揺れているのである。
新手のご褒美? しかし、どういう反応が正しいのか分からないので罰ゲームでもあるか。眼福なのは間違いないのだが、目を開けてはじめに飛び込んできた光景がコレだと、いまいちまともな反応が返せない。
「起きて、かわいいお嬢さん。私も暇じゃないのよ~」
ナナオはむくりと起き上がった。
というのも、その言葉尻と共に、目の前に浮かんだ巨乳がスッと身を引いたからだ。おかげで身体を起こせた。最初の時点で起き上がっていたら、まず間違いなく悲鳴を上げられていたに違いない。
未だ混乱さめやらぬナナオの目の前では、琥珀色のウェーブがかった長髪をした、妖艶な美女が佇んでいた。歳は二十代後半くらいだろうか? あまりに大人っぽくて色気のある人なので、なかなか正確なところが掴めないけど。
そして目のやり場に困るほど、胸と脚の露出が激しい女性である。
目が合うと、にっこりと笑う。
「こんにちは、初めまして。私、天界で女神なんかを務めています、タリアといいます」
女神。
言われてみれば確かに、タリア――の格好は、リルのギリシャの女神然とした服装とどこか似通っている。
だが、ペチャ・ペチャ・ボン! 体型の安産型女神リルと異なり、タリアは見事なボン・キュッ・ボン! のセクシー系女神様だ。
ナナオはすっかり困惑していたが、わりと礼儀正しい少年なので、相手が挨拶したからには自分も同じように返してしまう。
「……ナナオです」
挨拶してから、ナナオは周囲を見回した。
地球で子猫を助けてトラック転生した際に導かれたのは、虹色の雲がふわふわ漂う宮殿の下だったはずだ。荘厳な音楽も延々と流れていて、まさしくここは天界です~、と言わんばかりの光景が広がっていたハズ。
だがここは違う。真っ暗闇だ。光を放っているのか、ナナオとタリアの姿だけは闇の中に浮かび上がっているが、他には何も見えない。ここが何かの部屋なのか、部屋だとしてどの程度の大きさなのか――そんなことも、ナナオには皆目見当がつかなかった。
ナナオの戸惑った様子から察したのだろう、タリアは白い両手を広げておおらかに言った。
「ここは、さっき話した通りの天界――と異界の狭間の空間。というのも一度死んじゃったのよ、キミ」
「…………」
「あ、一度じゃないのね。どうやら二度目っぽい?」
「…………」
「今回は『タナリス』で死んで――前は『地球』、かぁ。そうか、転生者だから自分が死んだのにそんなに落ち着いているのね~」
「いや、これは動揺しすぎて固まっているだけです」
「あら、そうなの」
そうなの~、となにが面白いのかタリアは繰り返し、にこにこ笑っている。
「それで、どうしましょうかわいいお嬢さん。『タナリス』に戻る? また別の世界に転生する~? 橋を渡って成仏する? それとも……」
「あの、その前に……俺はお嬢さんではなくて正真正銘の男です」
「まぁ」
タリアがお上品に手で口を覆う。大袈裟な反応に、思わずナナオは渋い顔をしてしまった。
「そうなの? そんなに可愛らしくてきれいな顔立ちをしているのに……目を閉じているキミを最初に見たとき、羽のない天使が眠っているのかと思ったくらいなのよ~」
冗談なのか本音なのかは微妙だが、タリアの言葉はナナオにはむず痒かった。というのもこの人、同じ女神であるはずがあの堕女神……駄女神リルさんと違いすぎるのだ。
リルが女神の顔をした邪悪で小悪党な子鬼ならば、タリアは聖母の顔をした神聖なる神の化身そのものである。おっと? なにか寒気が……。
「では、お坊ちゃま」
「ナナオです」
「ナナオ。この後はどうする?」
この後の予定どう? みたいな軽い感じで聞いてくるお色気女神のタリアさん。
ナナオの戸惑いはますます増していく。どうにもこの人の言っていることが、うまく呑み込めない。というのも――
「タリアさん、ひとつ伺いたいんですが……俺は死んだんですよね」
「そうね~」
この暗闇の中に佇むナナオの身体に異常はないが、元の世界であったことは、直前のことなのではっきりと覚えている。
生徒会長とやらの振り下ろした長剣に、背後から頸動脈ぶった切られて死んだのだ。痛さを熱さが上回っていたから、あまり実感はないけれど。
「それなのに……あの世界にまた、戻れるんですか?」
「出来るわよ~。キミ、超特別級に徳が高い子だから」
マジか。よく分からないけど、それはかなりのラッキーだ。
「これでリルに怒られなくて済む……」
「リル?」
耳ざとくタリアが訊き返してきたので、ああ、とナナオは苦笑と共に頷いた。
「俺をその、『タナリス』? に送り込んだ駄……女神のリルです」
もしかしたらタリアとも知り合いなんじゃなかろうか。だとしたら、リルにはタリアの爪の垢を煎じてガブ飲みしてほしいところである。
しかしそんなナナオの予想は、思いがけない形で裏切られた。
「リル? えっと、そんな名前の女神は居ないわよ~?」
…………は?
ナナオは今度こそ固まった。何だって? いま、タリアは何て言ったのだ?
「だから、リルなんて名前の女神は居ないわ。『タナリス』を管理していた女神は確かに居たのだけれど、天界から姿をくらませちゃったのよ~」
「でも俺、最初に死んだときそのリルに、『タナリス』で魔王を倒せって言われたんですけど」
「う~んと……よく分からないけれど、私はただ、死んで放置された魂が異界と天界の間を彷徨っているから、迎えに来てあげただけなのよ」
唖然とするナナオに、タリアは頬に手を当てて続ける。
「本来はそういう魂を導くのが、管轄する女神の仕事なの。でも『タナリス』の担当女神はどこかに行ってしまったから……空き時間に、たまに私が様子を見に来るの」
異界ふたつを同時に見るなんて疲れちゃう、毎日肩が凝っちゃう、と疲れた顔をするタリア。肩が凝るのは、なにか別の要因な気がするが。
しかし『タナリス』、この人の空き時間に監視されてるだけなの? だいぶ手抜きされてない? って、いやいや……問題はそこではない。
いま、ナナオが当たり前のように信じていた事実が、根本から覆りつつあるのだ。
「だからその、女神を名乗っているその子、あまり信頼するとまずいんじゃないかしら~……たぶんね……」
ナナオは絶句した。
嘘だろ。女神らしくないとはかねてから思っていたが、まさか本当に、リルは女神ではないのか?
しかしこれ以上、タリアは何も情報は知らないようだ。そうなるとナナオはリルに直接、話を聞くしかないが……それ、結構リスキーではないか? 『タナリス』でのリルはドラ〇もん的な便利さを誇る何でも屋に過ぎないが、逆上したら何をされるか分からない。
急に戻るのが怖くなってきたナナオ。
だが、この何も無い空間にぼけーっと留まっているわけにもいくまい。フミカやみんなのことも気になるし……ここは戻るしかないか。
「で、『タナリス』に戻るでいいのよね? ごめんだけど私も忙しいから、早く持ち場に戻らないとでね」
タリアに命じられ、ナナオは再び、意識を取り戻したときと同じように暗闇に寝そべり、おずおずと目を閉じた。
あとはタリアが女神パワー的なものを用いて、『タナリス』へとナナオを送り届けてくれるらしい。何という高等技術。この人はやはり、『どこでも異世界ドア』なんていうパチモンアイテムは使わないんだな……。より一層、リルへの疑いが深まっていく。
「じゃあ、行ってらっしゃい。あと一回くらいはどうにかなるかもだけど、そろそろキミに残された回数も厳しいから、これからは気をつけてね」
回数、というのは、タリアの話を鑑みるに、今後生き返れる回数ということか?
もちろん気をつけます、とナナオは心に刻み込む。そう何度も何度も死んでたまるか。いや、もう二
回も死んじゃってるけど……。
しかしナナオはそのとき、いろんなことに気を取られ、大事なことを聞きそびれたことに最後まで気づかなかった。
タリアは最初、ナナオに対してこう言いかけたのだ。
『タナリス』に戻るか。また別の世界に転生するか。成仏するか。それとも――と。