第69話.麗しのお姉様
フミカの背中から湧き上がる、闇のオーラを前にして。
ナナオは――信じられない思いで目を見開いていた。
それもそのはずだ。
だって目の前の光景は、たったひとつの事実を示唆しているのだから。
それは、つまり……
「フミカ、闇魔法も使えたの!?」
「…………えっ」
ナナオの歓声に、シリアスモードに突入していたフミカはぽかんとしてしまった。
「水と風じゃなく闇魔法まで!? フミカさん、すごいや……!」
ナナオの言葉に、ティオまでもがフミカに尊敬の眼差しを向ける。そんなティオにナナオは頷いた。
「ああティオ! でもそれだけじゃない。水と風の属性を合わせれば氷魔法も使えるようになるって、フミカ前に言ってた!」
「じゃあいずれ四つの種類の魔法が使えるようになるってこと!?」
「……えっと、あの」
盛り上がるナナオとティオを前に、おろおろしだすフミカ。動揺のためか、立ちのぼっていたはずの闇のオーラまでがいつのまにか消えかけている。
遣り取りを聞いていたキュキュは、ぐすっと鼻を啜りながらも呆れた調子で言った。
「あのねぇ、あなたたち――つまりフミカ・アサイムは、本当は闇魔法の使い手である自分とこの男たちの間には、何らかの繋がりがあるって言いたいんでしょ?」
「そう。それ」という顔でコクコク頷くフミカ。
「あ、そういうことね」とナナオとティオはひとまず黙った。魔法科補習組のふたり、てっきりフミカは新しく覚えた魔法属性を見せびらかしてくれたのかと思っていたのである。
「……私は、ナナオ君たちを騙していたの。キュキュが酷い目に遭ったのも、元はといえば……私のせい。だから――」
「え? だとしてもさ。何か事情があったんだよね?」
フミカはそこで絶句した。ナナオは構わず続ける。
だって仮にキュキュの言う通りで、フミカが語った通りだとしても、だ。
「何の理由もなく、フミカがそんなことするとは俺には思えないよ」
呆然とした水色の瞳が、ナナオを見る。
ナナオの気のせいでなければ、その目は微かに潤んでいるようだった。
「……どうして、ナナオ君はそうなの」
やがて、ぽつり――とフミカがほんの小さな声で呟いた。
「何で、当たり前みたいに私を信じてくれるの。どうして笑いかけてくれるの。どうして――」
「それは――フミカが俺にとって、大切な友だちだからだよ」
「……大切な……?」
今すぐにでも泣き出しそうに顔を歪めて、フミカがナナオを見つめる。
ナナオはそんなフミカの視線をまっすぐに受け止めて、微笑みかけた。
「フミカが俺を信じてくれるから、俺もフミカを信じてる。いや、フミカが俺を信じられなくなっても、俺はずっとフミカのことを信じるよ」
「……ナナオ君……」
ナナオの言葉を聞いたフミカはとても苦しげだった。
――『……いつか、私が困ったときも……ナナオ君は、今日みたいに助けてくれる?』
今まさに、フミカはきっと、助けてほしいと願っているのだ。
それがナナオには強く感じられた。そしてそのときが来たならば必ず助けると誓った言葉は、まったく揺らいだりしていない。これからもその予定はなかった。
だから、とフミカに向かって手を伸ばす。
フミカはその手を、目を見開いて見つめる。足はほんの僅か、ナナオの方へと進んでこようとしているのが分かる。
ナナオもそんなフミカを迎えようと、彼女に向かって一歩を踏み出した。
だが――ふたりの手が触れ合うことはなかった。
目にも止まらぬ速さだった。
「…………え?」
フミカが呆然と呟く。
その額から、たらり……と何かが垂れた。
そう見えた瞬間だった。
フミカの装着していた眼鏡、そのブリッジの部分がまっすぐに割れたのだ。
魔道具として本来の色を隠す役割を持っていた眼鏡が、真っ二つに割られてずり落ちた瞬間、フミカの瞳の色は水色から紅の色――それこそ血のような色へと変じる。
そして、それを合図にしたかのように、フミカの小さな額から血液が噴き出る。
「う、うぅっ……!?」
苦しげにフミカが呻く。額を抑えているが、両手の合間からボタボタと血が伝い、夥しい量の血液が地面に散った。
そんな異常な光景の中……その人物は、まるで舞踏会に颯爽と現れる王子のような堂々とした足取りで、入口に姿を現した。
「話は聞こえていたよ」
洞窟内の淀んだ暗闇を、凛と貫くような美声だった。
そしてその声の持ち主は、蹲るフミカには目もくれず、洞窟の中を見遣って……抱き合ったままのキュキュとリュリュの姿を見止めると、柔らかな吐息を洩らしたのだった。
「やあ。僕の可愛い妹たち。怪我はないかい?」
「「お――お姉様っっっ!」」
どうやらその人物は、キュキュとリュリュの親しい知り合いのようだ。
だが、もはやそれどころではなかった。
そんな些細なことを考慮するような余裕はなかった。
ナナオは爆発的な力で地面を蹴飛ばし、炎熱の剣を上段から振りかざして――その人物へと斬り掛かっていた。
「おっと」
「ッ!」
しかし、受け止められる。
キン! と金属同士が鋭くぶつかり合う感触。その謎めいた人物は、ナナオが容赦なく手向けた刃を、自らの剣で受け止めてみせたのだ。
フミカの顔を傷つけたその剣で!
「お前ッ! 何のつもりだ、何でフミカを!」
炎熱によって照らされ、間近で見るその人物――おそらく女性――であろう人物の顔は、その声のイメージ通り、恐ろしいほど端整に整っていた。美麗、という言葉がこれ以上なく似合う、中性的な美少女だ。質素な鎧姿をしているのに、まるでステージに上がった舞台女優のような華と気迫を感じさせる。
そして剣に力を込めながらも激昂するナナオへの返事は、実に淡白だった。
「言っただろう? 僕は君たちの話を聞いていたんだ。そこの彼女は、自らの犯行を自白しているようだったし……それに」
ちらっ、とフミカに視線をやって、フ、と口の端に優美な微笑を乗せる。
「その子は、魔族だね」
「……っ!」
その指摘に、フミカが強く唇を噛んだのが、ナナオの視界の端でも見て取れた。
キュキュとリュリュ、それにティオも、そんなフミカを見て息を呑んでいる。
その双眸が、暗闇でも見間違えないほど真っ赤な色――魔族特有のそれを、宿していたからだろう。
「そして美しい翡翠の瞳のお嬢さん。君はそれを知っていたようだ」
「だったら何だ……!」
「いいや? 愛おしい女性を守るのは騎士の務めだからね。ボクは君の感情を尊いものだと思うよ」
くすり、と微笑んだその女性は、ナナオの炎熱の剣をこれ見よがしに押し返してみせた。
外見からは想像もつかないほどの力だ。このまま押し込んでも勝機は薄いかと、ナナオは三歩ほど後ろへ飛び退る。そんなナナオを、女性の背後に蹲ったままのフミカは、縋るような瞳で見ていた。
本当はすぐにでも近くに行って、フミカを守りたかった。
怪我の治療だってしなくてはならない。だが……目の前に相対する女性には、恐ろしく隙がなかった。何気なくただ、その場に立っているだけに見えるのに。
ランの何度も繰り返し修練を積むことで研ぎ澄まされた剣術とはまた違う。もっと別の、得体の知れない何か――
「ねぇ、かわいい妹たち。この子、何かすごい剣持ってるし、得体の知れない使い手みたいだけど……手紙に書いてあった、君たちのクラスメイトかい?」
……お互いに得体の知れなさを感じてるのか、とちょっと渋くなるナナオの表情。
どこかのほほんとした口調でその女性が問うと、キュキュとリュリュが立ち上がって激しく頷いた。
「ええそうですお姉様! その赤茶色の髪をしたのが、ミヤウチ・ナナオ――魔王を単独で撃退した生徒です!」
「お姉様。それに。ナナオは神獣を召喚したし」
「最強魔法も使えるのです、お姉様!」
「お姉様。ナナオすごく危険。お姉様ならゼッタイ負けないけど。でも心配」
息の合った双子の報告を受け、ふんふん、と頷いてから、
「そうか、なるほどね。――道理で簡単に征服できないわけだ」
「お姉様」はぺろり、と赤い舌で唇を舐めてみせた。
その様を見て、ぞくりとナナオの背筋が粟立つ。
――何だろう、この人。
魔王を目の前にしてさえ、こんな感覚は芽生えたことはなかった。それなのに……
しかし考え込む時間はなかった。
こちらの方向に向かって、大量の足音が近づいてきていた。