第59話.小悪魔な後輩との出遭い
正面玄関を突破したナナオは、とりあえず森の方角へと向かうことにした。
サリバ以外にも、他の教師や上級生なんかが追っ手になる可能性を考慮すると、障害物が花壇くらいしか無い学院内に留まるわけにはいかないからだ。
正門を抜けると勢いよく地面を蹴り跳躍し、鬱蒼とした森の中へと躊躇なく飛び込む。
難なく枝の上に着地したナナオは、そこからまたいくつか木を伝って学院から距離を取ってから、ようやく後ろを確認した。
「……誰もついてきてない、か」
幾分かほっとする。
そもそもが動物じみた身体能力を駆使した、他の誰も真似できないレベルの芸当なのだが、今だその自覚が薄いナナオにとっては、わりとハラハラした逃走劇なのだった。
枝を手すりのようにして地面に飛び降りると、ナナオは今さらのように考え始めた。
何となく予感が働いて、こうして学院を飛び出してきてしまったが――これからどうするか。
サリバの言う通り、何のヒントもない状況でナナオの出来ることは限られている。ミイラ取りがミイラになる、なんてことになったら目も当てられないのだ。
とりあえずキュキュを乗せた馬車が確認されたという、王都の方まで行ってみるか……。
そう考え方向転換したときだった。
ザザッ――と背後から、草を掻き分けるような音がした。
「!?」
ナナオが振り向いて構えると同時。
「な、ナナくん!」
背の高い草の間から、ひょっこりと――見馴れた毛糸の帽子が覗く。
その人物の姿を確認したナナオは、完全に警戒を解く。
「ティオ。どうしたの?」
「どうしたの、ではないけど……! その……ボクも心配だからついてきちゃったよ」
前半は慌てつつ、後半は照れくさそうに言うティオ。
心配だ、というのは、もちろんキュキュのこともあるだろうが、きっと後先考えず飛び出したナナオのことも、ティオは思ってくれたのだろう。そう思うと気持ちが和んだ。
制服についた露や土を軽く払うようにしているティオに、ナナオは訊いた。
「他のみんなは?」
「ええと、レティシア王女も同じタイミングで教室を出ようとしたんだけど……サリバ先生に捕まっちゃったみたいで……」
さすがに助けられなくて、としょんぼりするティオ。
確かに、ティオほどの運動神経の持ち主ならばともかく、レティシアひとりならサリバに抑え込まれてしまっただろう。
フミカはどうしたのかも訊こうとして、ナナオは何となく踏み止まった。
ティオやレティシアがナナオの身を必要以上に案じてくれたからといって、フミカも自分の危険を顧みずにそうしてほしい、などとは思えなかった。
こうなったら自分に出来ることはただ、キュキュを連れてあの魔法科の教室に無傷で戻ることだけだ。
「ティオは……俺に力を貸してくれるの?」
「当たり前だよっ!」
ナナオの問いに、ティオは少し怒ったように応じてみせた。
「キュキュさんの行方を追うんだよね? ボク、役に立つかは分からないけど……ナナくんの助けになりたいからさ!」
「――ありがとう、ティオ」
ナナオは心から頭を下げた。もしかしたら自分でも少し、心細かったのかもしれない。
するとティオはほんのり顔を赤くして、「大したことじゃないよ」とごにょごにょ口ごもった。
口元に笑みを浮かべ、ナナオは改めて当面の目的地を口にする。
「――よし。じゃあさっそくだけど、まず王都に向かおう」
「キュキュさんの足取りを追うんだね?」
ふたりは横に並び、さっそく歩き出した。
「うん。俺とティオなら、走っていけば一時間弱くらいで王都には着くと思うから――」
「ちょっとぉ~! ねぇ~!」
……だがその足の動きが、ぴたっと止まる。
「だから、待ってくださいってば~」
ついさっき離れたアルーニャ女学院の方向から、その声はきこえる。
だが既に学院の敷地ではなく、森に入ってきているようで、時折がさがさと、草を掻き分けるような音がする。それに虫にでも驚いているのか、「きゃあ」とか「ひゃあ」みたいな悲鳴も。
まだその姿は見えないが、声に聞き覚えはない。いや、より正確に言うなら、つい数分前に聞いたような気もするが……。
だが、そんなことを考えている場合ではない。何せ時間がないのだ。
いっそ、声の主のことは無視して王都に向かうべきだろうか?
ナナオは迷った。だが、その迷いこそが命取りだったのかもしれない。
困惑するナナオとティオの元に、その声の主はいくらか時間をかけて、追いついてきてしまったからだ。
ぜえぜえ、と肩で息をしながら――先ほどのティオと同じように、その人物はナナオたちの前に姿を現した。
「さいしょから、もう、待ってって言ってるじゃないですかぁ……ひどいですぅ……」
……誰!? この子!
嘘みたいに鮮やかな桃色の髪の毛を、肩まで伸ばした女の子だ。
内巻きの髪に彩られた顔はおそろしく小さいが、造形もまたおそろしく整っている。青みがかった黒目はぱっちりと大きな二重で、鼻はちょこんと小さく、唇は愛らしいさくらんぼの色。離れた距離でも、艶やかな色合いが目を引いた。
そして服装はといえばまったく見覚えのない、黒を基調とした落ち着いたデザインのものだが、考えずともそれが学校の制服であるのは明らかだった。リルが作製したナナオ専用の特注フリル制服と負けず劣らず、フリルやレースに彩られたかわいらしい衣装だ。
ナナオとティオの困惑の目を受けて、少女は動揺するどころか、むしろにこやかに口を開いてみせた。
「あー、あたしですかぁ? ハノンノ・シフォンです。よろしくお願いしまぁす」
砂糖をぶちまけたような甘ったるい声音で自己紹介をして、ハノンノというらしい少女が柔らかな笑みを浮かべる。
名乗られてしまうとさすがに無視するわけにはいかないので、ナナオとティオも顔を見合わせてから、それぞれハノンノに言葉を返すことにした。
「ミヤウチ・ナナオだ」
「……ボクはティオ・マグネス」
「ななせんぱいと、ティオ先輩ですね。よろしくお願いしまぁす」
軽く頭を下げられるので、とりあえずナナオたちも「よろしくお願いしまぁす」と返した。語尾がのんびりと伸びてしまったのは、完全に影響されてのことだったが。
いや、でも……結局、誰?
ますます困るナナオに対し、ハノンノはやはり何でもない風に自分の顔を指差してこうつけ加えた。
「あー、あたし、クローティウス学園の生徒です。交換留学代表生徒、ってヤツですね」
「ああ……」
そういえば、と今さらながらナナオは思い出す。
サリバの横をすり抜けて教室を出たとき、誰かに呼び止められたような気がしたのだ。もちろん立ち止まりはしなかったが、あれはサリバの後をついて教室の前までやって来ていたハノンノの声だったのかもしれない。
だが、そこまでは納得しても、まだナナオには分からないことがあった。
即ち――交換留学生であるハノンノが、何故こうして森の中にまで、ナナオたちを追ってきたのか。
「あのさ、君がどこまでサリバ先生に話を聞いているかは分からないんだけど」
「はい、把握してます。あたしと同じ交換留学生だったキュキュ・サイルさんが、行方知れずなんですよね」
どうやらそのあたりの事情はハノンノも承知していたらしい。
淀みなくそう言われ、ナナオは頷く。
「……そう。だから俺たちはこれから、キュキュを探しに行くんだ」
「やめた方がいいですよぅ。そういうのはプロに任せておくのが一番なんじゃないですか?」
ハノンノがそう返してくるのは予想通りだった。
だからこそナナオは「その通りだから放っておいてくれ」という主旨の返事をするつもりだったのだが――その予定は、あっさりと覆された。
「……っていうのが、一般的な反応でしょうけどね」
「え……?」
にんまり――と口元に笑みを浮かべたハノンノが、こんな提案をしてきたからである。
それはその後、ナナオが繰り返し何度も目にすることになる、天使級の愛らしさを持つ、ハノンノの小悪魔的な笑顔だった。
「なーなせーんぱい。……それ、あたしも連れていってくれませんか?」
彼女は甘えたようにそう言って、あどけなく小首を傾げたのだった。