第58話.消失した影
――キュキュ・サイルが、行方不明になりました。
サリバの言葉に、しばらくは誰も、まともな反応を返すことはできなかった。
あまりに突然すぎて、理解が追いつかなかったのだ。
だが、混乱が次第に解けていくにつれ、教室にはざわめきが広がり始めた。不安と戸惑いの色の濃い、何とも言えないような呟きが。
「キュキュが行方不明って……どういう、ことですか?」
力なくナナオが問うと、サリバは暗い面持ちで口にした。
「……みなさんご存知の通り、ミス・サイルは昨日の朝、学院を出発しました。予定では昨夜にはイシュバに到着し、予約した宿屋で一泊する予定でしたが、いつまで経っても彼女が現れないため、宿屋の主が不審に思ったようです」
「でもそれは――例えば、別の宿に間違えて泊まってる、とか……」
「……いえ。それは無いでしょうね。というのも、ミス・サイルだけではなく、彼女が乗った馬車ごと、行方をくらましていますから」
「え……?」
「王都を通過したという記録は残っているのですが、その先の行方が知れないのです。今も冒険者を雇って調査を進めてもらっていますが……結果は芳しくありません」
それは、つまり――どういうことだろう。
例えば、馬車の御者が悪人で、上級貴族であるキュキュを連れ去ったとか?
昨日見かけた限り、馬車の御者は年嵩の男性ひとりだけで、他にキュキュの護衛なんかは一切居ないようだった。
だが、その理由がナナオにはよく分かる。そもそも魔力の使い手である女性には本来、護衛は必要ないのだ。自分の身を守るくらい容易いからこそ、キュキュのように優秀な生徒が単独で交換留学の代表生徒に選ばれたとも言えよう。
でも、例えば……。
本当に例えばだが、キュキュが何者かに誘拐されたとして――相手が複数の女性だったら?
それならばキュキュひとりでは対抗できないかもしれない。だが、そんな危険勢力が王都付近に存在するとは、平和なアルーニャ王国では考えにくいような気がするが……。
……いや。
そもそもこれは、そんなに単純なことなんだろうか?
急遽、クローティウス学園との交換留学の話が決定し、すぐさまキュキュが選出されて。
そのキュキュがこうして、出発直後に行方をくらませてしまった。筋書きとしては単純だが、もしこれが誘拐事件なのだとしたら、その何者かはキュキュが、昨日アルーニャ学院を出発すると知っていたということになる。
そしてそんな存在は、昨日の時点でもかなり限られていたはずなのだ。
シンプルに考えるなら、アルーニャ女学院と、クローティウス学園の関係者。
その中に、キュキュの行方に関わる人物が居るのだろうか?
だが、どうやったらその候補が絞り込めるのか、ナナオにはなかなか思いつかなかった。
「……!」
そこでナナオははっとして、キュキュの妹である――リュリュの方を見遣った。
前の席であるリュリュの表情は確認できなかったが、その小さな背中が小刻みに震えているのが遠目からでも分かった。
サリバも、どこか気遣わしげな顔つきで、そんなリュリュを見つめている。
だがそれでも、サリバはこう話を締め括った。
「……この件に関してはこちらで調査を進めますので、皆さんは不必要に動揺しないように。以上です」
「以上、って」
「私たち教師側としても、これ以上現時点でお伝えできる情報がないのです。あとはこちらに任せてください」
生徒たちのざわめきが静まり、教室内に沈黙が満ちる。
その中で、リュリュがふらふらと……力なく、首を持ち上げた。
後ろからでは表情は見えない。だが、そのときリュリュがどんな顔をしているか、ナナオには手に取るように分かった。
「――俺、早退します」
気がつけばナナオは立ち上がって、そう宣言していた。
「ナナオっ?」
「……ナナオ君……!」
友人たちが名を呼んでくるが、今は応える余裕もない。
だがそのまま教室を出ようとするナナオの前に、立ちはだかった人物が居た。サリバである。
「……ミス・ミヤウチ」
険しい顔つきだった。普段のナナオならば、それだけで肩をびくっとさせて震えていたことだろう。
しかし今回ばかりは引くことも、譲ることもできない。何となくだが、ナナオにはそうしてはならないという予感があった。大それたことは出来ずとも、女神にチート能力を授かったナナオだからこそ出来ることがあるはずだと。
ナナオが黙って見返すと、サリバは反抗的な態度を前にしてさらに眉間に深い皺を寄せた。
「馬鹿な真似はよしなさい」
「俺、早退するだけですよ」
「貴女の考えそうなことは嫌でも分かります。王国内は広いのです、当てもなく探し回って尋ね人がすぐに見つかると本気で思っているのですか?」
サリバの言葉を聞き、背後で数人が息を呑んだようだった。
その通り、ナナオは今から学院を出て、キュキュを探しに行くつもりだった。繰り返されるナナオの珍行動に、サリバはさすがに慣れて来た様子だ。
「通してください、サリバ先生。誰に止められても行きますから」
「それで許可できるわけないでしょう。貴女は理解していないかもしれませんが、これは場合によっては国際レベルに発展する大事件です。本校のみならず、サイル家やクローティウス学園、それどころか王国も巻き込む事態となるかもしれない」
強い口調でそう言い放つサリバは、やはり、ナナオが考えたようなことをもう何度も考慮した後のようだ。そして思った通り、キュキュは誘拐された可能性が高いということだろう。
そんな危険な状況の中、生徒を捜索に参加させるわけにはいかない。教師としての義務感を持って、サリバはそうナナオに忠告してくれているのである。
……しかし、ナナオは引かなかった。
「俺――キュキュとは特別に仲が良いわけじゃないし、どちらかというと嫌われてるとは思うんですけど」
そう、正直に思っていたことを言うと、サリバはかなり困惑したようだった。
「……では、何故? 何故自分にとってそのような間柄の人間を、わざわざ危険を冒して探しに行こうというのです?」
「うーん……クラスメイトだから、ですかね」
サリバは眼鏡の下の瞳を唖然と見開いた。途方に暮れたような顔つきだった。
「本気で……言っているんですか?」
「だいぶ本気です。誰が行方不明になっても、きっと俺はこう言うと思います」
――今だ、とナナオは決断した。
体勢を低くした直後、サリバの横の空間を滑り込むようにして移動する。
弾かれたようにサリバが振り返り、腕を伸ばしてきたときには、既にそこにナナオは居ない。
「……ミス・ミヤウチ!」
怒声にも立ち止まらず、扉を開けたナナオは一目散に駆け出した。
ここで少しでも躊躇えば、サリバは氷魔法や使い魔を駆使して問答無用でナナオを止めようとするだろう。今この場で捕まることだけは避けなければならなかった。
キュキュの行方を掴んで、その無事を確認するまでは、誰に引き留められても立ち止まるつもりはない。
「――あっ! ちょっとっ!」
そのとき、扉の脇に居た誰かに呼び止められたような気もしたが、ナナオは振り向かずに一気に正面玄関へとダッシュしたのだった。