第52話.北の戦い
すべての時間が止まったかのようだった。
実際は、そんなわけはなかったはずなのに、ナナオはそう感じていた。
唇に触れている、今まで触れたことのないくらいもの。
何やらとんでもなく柔らかな――レティシアのそれの感触が、あまりに非現実的すぎて。
お互いに見開いた目もばっちりと合っていて、ナナオは呆然とレティシアの瞳を覗き込みながら、なぜか呑気に考え事をしていた。
「レティシア、睫毛すっごく長いな……」とか、そういうことだ。少女漫画とかでたまに見るヤツ。自分がそんなことを考える日が来るなんて、思ってもみなかったけど。
「…………!」
が、やっぱり、時間は止まってはいなかった。
ガチ、とお互いの歯がぶつかった音を聞き、ナナオは反射的に身を退いた。
このままムリに受け止めようとしたら、たぶんお互いにダメージを食う。主に前歯に罅が入るとかそういう形で。
そのため、衝撃を殺そうと地面にわざと倒れ、落ちてくるレティシアを両手に受け止める。
「痛ッ……!!」
が、衝撃のすべては緩和できず、防御せず地面に激突した後頭部に鋭い痛みが走る。
一瞬、目の前に星が散ったようなクラッとする痛みに顔を顰めつつ、それでもレティシアを抱きしめる手を離さないナナオ。
「ゆ……百合! これはとんでもなく上質な、百合よぉ!」
そこで、謎めいた悲鳴を叫びつつポアナが走り去っていく。
ユリって何のことだろう。それに鼻を抑えていたが、鼻血でも出たのだろうか。
ポアナのことはちょっぴり心配ではあったが、まずはニャンニャンことレティシアの方が気になるナナオ。
「シア……大丈夫? どこか怪我とかしてない?」
返事はしばらく返ってこなかった。やはりどこか打ってしまったんだろうか?
ナナオが心配になって腕の中に目をやると、両腕に抱えられて小さく丸くなっていたレティシアが、おずおずと頭を持ち上げる。
ナナオの胸板にぺたんと張りついた頬が、リンゴのように赤い。乱れた金髪の中に埋もれるようにして、整った顔が覗いていた。
「……し、してませんわ」
「それは良かった」
「あ、ありがとうございま――じゃない。いえ、感謝は――してますけどもっ」
「ん?」
そこでレティシアはがばりと勢いよく跳ね起きた。
といいつつも地面に腕をついて、ナナオの身体に負担をかけないよう気遣ったのはレティシアらしい。だがそうして立ち上がった彼女の表情は、憤怒に燃えていた。
「…………たった今起きた出来事は、すべて忘れなさい。いいですわね?」
いや。憤怒というか――羞恥?
どうやら恥ずかしさで怒り狂いそうなところを、無理やり抑えている様子のレティシアである。
そんなクラスメイトからの要請を、ナナオは真剣に吟味した上で首を捻った。
「それは――ちょっと、難しいような」
「わ・す・れ・な・さ・い」
「……は、はい……」
だが、人差し指を突きつけられて迫られては、頷く他はない。というか近い。レティシア近い。
レティシアはまだ疑い深げに、じーっっと険しい目でナナオを見つめていたが、やがてくるっと背を向けた。
「ユニコーン、行きますわよ。まだ試験は続いているのですから」
上半身を起こしたナナオは、そんなレティシアの姿に感心する。さすが王女。あんなことがあったというのに実にクールだ。
「は、初めてだったのに……!」
そう思いきやそんな小さな呟きがきこえてきたので、ナナオは思わず言い放ってしまった。
「俺もだよ!」
ゴン!
レティシアが目の前の大木に真っ正面から勢いよく激突した。
「きゅうっ」
小動物のような悲鳴を上げ、レティシアがその場にバタンと仰向けに倒れる。
うわっ、と驚き、ナナオが慌てて近づくと、既にレティシアは目を回して気絶していた。
近くまで帰ってきたユニコーンはそんなレティシアの心配をするのかと思いきや、「チャンス!」とばかりにその懐に収まってすっかりくつろぎモードに入ってしまっている。使い魔失格では?
『……何だったのかしら』
ぼそっとリルが言う。さぁ、とナナオは首を傾げた。
レティシアを助け起こして、木の幹に身体を預けるようにして座らせる。アルーニャ女学院の管理下にある森には危険な魔物などは棲息していないので、このまま放って置いてもおそらく心配はないはずだ。
「……とりあえず腕輪、三つもらっておこう」
レティシアの分。それにレティシアに首を擦りつけているユニコーンが持っていたのを二つ回収。
残りの三つは、レティシアの細い腕にそっと嵌めてやって、ナナオとリルは静かにその場を離れたのだった。
+ + + + +
ナナオとレティシアが事故キスに陥っていたのとほぼ同時刻。
ナナオたちの居る東の森からは離れた、北方向にて――多数の生徒による戦闘行為が勃発していた。
総勢、約十名。ほぼクラスの半数に当たる人数である。
「【火炎弾】ッ!」
「【風刃】!」
「何の! 【落下石】ッ」
人数が人数なので絵面もとにかくド派手だ。さっきから頭上はいくつもの魔法が飛び交い、そこかしこから爆発音や破砕音が響いている。
ちょうど戦場の真ん中が土砂崩れしていて、一部の木々が流されているので、東西の木々の中に生徒がちょうど半数くらいに分かれているのである。お互いの姿はほとんど確認できないが、声の人数からして全員がそういうものと把握していた。
従ってうまく陣地も分かれているのかと思いきやそういうわけでもなく、同じ方面に隠れた者同士でもたまに警戒して魔法をぶつけ合ったりしているので、もうほぼ混沌だった。
そんな危険極まりないフィールドにて、十人の内のひとりであるティオ・マグネス――自己強化魔法を得意とする少女は、西側の森の中、すっかり困り果てていた。
「どうしよう!」
小声で叫びながらも、足元に飛来する火の弾を避け、水のビームを躱し、と俊敏な動きを見せるティオ。かなり視界が悪い中なので、狙いが定かじゃないのだ。正直どんな攻撃が来てもこれなら当たる気はしない。
ただ、これではジリ貧だった。試験中の行動も上空の飛行魔道具で逐一チェックされているようだから、決して回避がマイナスというわけではないだろうが、それよりもまず腕輪だ。
ひとつでも多くの腕輪を入手したいのに、まだティオは自分の分のひとつしか持ち合わせていなかった。残された時間は、あまり無いというのに……自分を含めた九人の状況は、完全に膠着してしまっている。
――ティオの武器はメリケンサック。
遠距離から攻撃する手段を一切持たないティオが可能とするのは、近接攻撃のみである。
しかしこの状況下ではまともに相手に近づけないし、誰かに近づこうと踏ん張っても迎撃されるか、流れ弾に当たってしまう危険もある。ティオにとっては、かなり不利な地形だ。
声のする方角はだんだんと掴めてきているので、この粗い包囲網を突破さえできれば勝負できるのだが……。
「……ティオ」
名を呼ばれ、びくっと木陰に隠れるティオ。
背後から音もなく近づいていたのは――フミカだった。淡い水色の髪の毛に、同色の眠たげな瞳をした少女。
「ふ、フミカさん……!」
試験が始まる直前、今回は敵同士だ、と互いに誓い合った相手のひとりだ。
当然、ティオは彼女の行動を警戒する。この場で鎬を削り合っていたメンバーの中に、もともとフミカは入っていなかったはずだ。
だが同時に、チャンスでもある、と思う。フミカの魔法は脅威だが、動きはそう素早くはない。
隙を突けば懐に潜り込み、腕輪を奪える!