番外編2.リル様の優雅なる一日 そのいち
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
雪のように白い子猫は、ふわふわとした毛を優雅に揺らしながら、てくてくと寮内を闊歩していた。
途中、何人かの女生徒に「あっ見てみて」「猫ちゃんだ」と呼び止められるが、そのたび一瞥をくれてやるだけで、そっけなく目の前を通り過ぎていく。
なぜなら、吾輩は女神である。名前は……そう、リル。
リルは現在、正真正銘の猫なのだが、その隠された正体は高貴なるもの――女神なのだから。
人間たちに愛想を振ってやる必要性は微塵もないのだ。もちろん、「かわいい」「キレイ」などの素直な賛辞には、尻尾くらいはブンブン振ってやるけども。
リルは、それこそ星の数ほど存在する数々の世界の頂点とされる天界に住んで、穏やかな毎日を送っていた。
だがそんな日々はほんの数瞬間前、呆気なく崩れ去った。
地球と呼ばれる惑星に住む平凡な少年ミヤウチ・ナナオを『タナリス』――剣と魔法ある、そして女子ばかりが魔法が使えるという特殊な世界――に転生させたまでは良かった。
だが思いがけず、何とナナオは、リルのことを使い魔として『タナリス』に召喚してしまったのだ。
結果的にリルは、自分が作った猫のぬいぐるみの中に入り、ナナオの使い魔の役目を果たす羽目に陥ってしまった。女神ともあろう者が、人間風情に使われる側に落ちたのである。
しかもこの仮初めの身体に入っている以上は、主の魔力のみを頼りに行動することができるので、ナナオから送られる魔力の供給が途絶えた場合はすぐに天界に逆戻りと来た。
おかげでリルは天界にて、ナナオの様子がリアルタイムで映し出される『異世界モニター』を観ながら「そろそろ呼ばれるかな?」とハラハラしたり、逆に『タナリス』にいるときは「天界はいまどんな感じかな?」とソワソワするという、落ち着かない生活を送ることとなっていた。
――まったく、憎々しいったらありゃしない。
ってな感じではあったが……まぁ、いざ入ってみると、猫の身体も意外に便利だったりする。
身軽だし、身体能力は抜群だし、狭い場所にもするすると入っていけるし。
それに、ほとんど天界で引きこもり同然の生活を余儀なくされている身としては、『タナリス』での生活も悪くはない。以前はモニターの先に広がっているだけだった、人間たちが歩き回る世界に自分も紛れ込んだようで――
『……なんて、そんなことはどーでもいいのよ』
ぼそりと呟いたリルは、はっと開いたばかりの口を閉ざした。
寮内だというのに思わず人間の言葉を発声してしまった。誰にも見られてはいないようだが、細心の注意を払わねばナナオに怒られてしまう。
この世界では人の言葉を用いる生き物を神獣として扱い、あがめ奉っているという。目立つのを嫌うナナオの言いつけで、リルも周囲に人がいる場合は喋らないようにと、口を酸っぱくして言われていて……
――って、なんでアタシはナナオなんかの命令を守ろうとしてるワケ!?
自分で自分にキレるリル。
そういえばナナオの自室を飛び出してきたのも、アイツと口喧嘩したからだった。
「なぁリル、ちょっとでいいからモフモフさせてくれ。こっちの世界に来てから猫カフェに行けてないから、猫さん欠乏症で目眩動悸息切れがひどいんだ……」などとおねだりしてくるナナオから、リルは全力ダッシュで逃亡した。
だからアタシは猫じゃないっての!
ムカつきは時間が経つにつれ増していく。魔力が切れるまで、しばらくどこかで時間を潰していたい。
そんなことをぼんやりと考えつつ、リルは目の前の生徒たちが開けたドアの隙間から、そろりと寮の外へ出て行く。
どうせ暇なのだ。こうなったらいろんなところを冒険して、暇つぶしでもしようじゃないか。
+ + + + +
カキンッ、カキンッ。
激しく何かがぶつかり合うようなそんな音を、よくきこえる大きな耳で聞き取ったリルは、その音のする方向へと顔を向ける。
寮の建物を迂回するような形で回っていき、外壁から顔を出して覗いてみると、寮の庭で木刀で打ち合っていたのは――ラフな私服姿のレティシアとラン。リルも知っているふたりの女子生徒だった。
「はっ!」
「くっ……」
鋭いランの木刀から逃れられず、じり、と後ろに下がらざるを得ないレティシア。
――構えが甘い。そう見物人ならぬ見物猫のリルが感じると同時、ランは一気呵成に勝負を決めにかかっていた。
「はぁーッ!」
気合いの乗った叫びと共に、さらに踏み込むラン。
彼女の木刀の先端が一瞬、ブレたように見えたかと思えば、目にも止まらぬ速さで移動していた木刀は、レティシアのそれを弾いていた。
「きゃあっ」
手首に痛みが走ったのだろう、慌ててレティシアは手を引っ込める。
弾かれた木刀は明後日の方向へと飛んでいって――そのときにはランの突き出した木刀の切っ先は、レティシアの喉元へと突きつけられていた。
一拍遅れて、宙を舞った木刀が地面に落ちる。
「勝負あり、ね」
にやり、と笑ったランは、あっさりと木刀を引き、その平面を自身の手の平の上で軽くトントン、と叩いてみせた。
粒ぞろいの魔法科一年生の中でも一きわ魔力の扱いに長けているレティシアだが、そんな彼女も、剣の扱いはあまり得意ではないのか。
そう意外に思いかけるリルだったが、「……違うか」とすぐその評価を訂正する。
レティシアが弱いのではない。ランが強いのだ。
もともと、入学直後のナナオに喧嘩を売り、決闘にて完膚なきまでに敗れた姿が印象的だったのだが――実際のところ、あれはナナオが圧倒的すぎただけだ。
それを稽古の相手だったレティシアも、十分すぎるほど理解しているのだろう。
「……はぁ。やはり、そう簡単には勝てませんわね」
肩を竦めて溜め息を吐いているものの、どこかランの腕に感心したような口ぶりだ。
確かリルの記憶では、このふたりの仲はサイアクだった気もするのだが、既にそんな面影はない。傍から見ていると、仲の良い先輩と後輩そのものである。
「少し休みましょう」と庭の隅に置かれたベンチを指さすラン。ふたりはその背に並んでかけていた白いタオルを手に取ると、腰を下ろしながら、額や首筋の汗を拭っている。
「――で。最近、彼女とはどうなの?」
「はい? 彼女、ですか?」
きょとんとするレティシアの耳元で、こっそりとランが囁く。
もちろん、その声はリルにはしっかり届いていたのだが。
「――当たり前でしょ。ミヤウチ・ナナオ、よ」
「は……!?」
そこでリルは決めた。面白そうなので、しばらくこのままふたりの会話を盗み聞こう。
「ど、どうも何も……ナナオとは、良いゆうじ……いえ、好敵手ですわ」
「そういうのじゃなくて。もうキスくらいはしたの?」
「き、きッ……?! とつぜん何を仰いますの!?」
リンゴのように真っ赤な顔をして慌てて立ち上がってしまうレティシア。
その腕を容赦なく捕まえて再び座らせると、ランは「ふむ」と訳知り顔で頷いた。
「その様子だとまだみたいね。まぁふたりとも初心そうだから……もっとハードルを下げたほうがいいかもね」
「あ、あのっ、仰ってる意味がわかりません!」
「来週、【中央第二遺跡】で課外訓練が実施されるでしょ? そこでもっと自分をアピールしましょう。まずは手を繋ぐとか、どうかしら?」
「手を……? ナナオとわたくしが? 手を繋ぐ?」
目を回すように呟くだけのレティシアに、「そう!」と力強く肯定するラン。
「私の見立てだとライバルは相当多いからね。今のうちにポイントを稼いでおくの」
「あ、あう。あうあう……」
「大丈夫、狼狽えてないでもっと自信を持って。アナタは本当に美人でかわいいんだから」
どんどん会話の内容がズレていっているが、ヒートアップしていくランは気づいてないようだ。
……女子が最強なこの世界では、何というか、女子同士のそういった交流も多いという。特に婚礼前の女子にとっては、学生という今こそが最も自由に性を解放できる時分でもあるだろう。
そのため、ナナオの正体を知らないとはいえ、ランがそうレティシアを急かすのも決しておかしなことではない。ちょっとばかり、過激ではあるかもしれないが。
だが当の本人であるレティシアには、堪ったものじゃないだろう。そろそろ頭から湯気でも出して、沸騰してしまいそうな様子だ。
実はその課題訓練の舞台にて、本当にふたりは何気なく手を繋ぐことになったりもするんだけども――その頃のランやレティシアも、そしてリル自身も、その時点では知る由も無いことであった。
「……ねこ」
突然。
背後からきこえてきた声に、ビクーッ! とリルは背中の毛を逆立てた。
レティシアとランのやりとりに夢中になるあまり、注意がおろそかになっていたらしい。
背後に佇んでいたのはフミカ。ナナオのルームメイトにして魔族の少女である。
日陰の中で薄く滲んでいきそうな淡い水色の髪の毛に、同色の水色の瞳。
ただしその瞳は、魔道具である赤フレームの眼鏡によって、本来の赤色を隠されたものらしいが……そんな瞳が、無感情にリルを見つめている。
「……ナナオくんのねこ。こんなところで、何してるの?」
静かに語りかけてくるフミカ。
いやアタシはアイツの猫じゃないけど、と反論しかけたところでリルは踏みとどまった。今はそんなことに目くじらを立てている場合ではないのだ。
彼女のこの小声はいつものことなので、どうやら庭のレティシアたちに気づいて声を潜めているわけではなさそうだ。
というかどちらかが気づいてしまった場合、リルの予想では、たぶん言い争い的な方向に話は進むだろう。もちろん鈍感なレティシアは置いて、ランとフミカの両者によって。
そうなると何というか、けっこう面倒である。
つまり何もかも、ぜんぶナナオのせい!
『…………』
「……今日は、しゃべらないの?」
その場にしゃがみ、首を傾げるフミカ。
短いスカートから覗く真っ白な膝小僧と、意外と色気のあるデザインの下着がばっちりとリルの視界に映し出される。
ナナオだったらはしゃぐかも分からないけど、アタシには効果なしよ……なんて心の中で唱えつつ、リルは決断した。
――さっさと逃げようっと!
意志を固めた後のリルの行動は俊敏である。
フミカの脇をすり抜けて、その後は脱兎ならぬ、脱猫のごとく駆け出す。
「あっ……」
呟きと共にフミカは手を伸ばしてきたようだったが、その頃にはリルの後ろ姿は遠かっただろう。
こうしてリルは何とか面倒な事態を回避した。文句のつけようのない、紛うことなき逃走である。
「……行っちゃった」
ポツンとひとり取り残されたフミカは、ちょっと寂しげだったという。