番外編1.ニャンニャンとハンバーグ
――その麗しい王女様と初めて会ったのは、今から約十年前のこと。
当時七歳だったランは、ヘーゲンバーグ家の代表として、母と共に王族主催のお茶会に招かれた。
上級貴族といっても、先祖はただの兵卒で、そこから少しずつ剣の腕を磨いて、着実に功績を上げていったのがヘーゲンバーグ家である。
正直、他の貴族に比べると経済的にも劣っていて、みすぼらしい家だと陰口を叩かれることもしばしばあった。そんなヘーゲンバーグ家にとって、王族に直接招かれる機会はそうそうないことで、だからそのときは不仲な両親さえも、手を合わせて喜んでいたくらいだった。
華やかな社交界でのデビューに、ランはこれ以上ないほど緊張していた。
母が選んだドレスを纏い、髪をメイドにきれいに結ってもらって、少しのメイクを施してもらって家を出た。
王城の広い庭は見たこともないような大勢の人で賑わっていて、母とはぐれてしまったランは、ひとり落ち着かず周囲を見回していた。
貴族の子息たちはそれぞれ、派閥で固まっていたり、隅の方で遊んでいたりしたが、そのどの輪にもランは加わることができなかった。場違いな気がして、ずっと恥ずかしくて目を伏せて縮こまっていたのだ。
そんなときに、不思議と人混みから浮き出たようにして、ひとりで居る女の子を目にした。
――レティシア・ニャ・アルーニャ。
レティシアは、おとぎ話の中の住人のように可憐な少女であった。
金糸を紡いだかのような髪の毛が、太陽のひかりを反射して輝いている。
頭の横についた水色のリボンはかわいらしくて、王族特有の碧眼にもよく似合う色合いだった。
それに春らしい白と青色を基調としたワンピース。ふわりと膨らんだその衣装が、痩せ細った身体を隠すためのものだとは、そのときのランは気づきはしなかったけれど。
子どもながらに完成された美貌を目にして、ランは――すっかり心を奪われていた。
その女の子の周りだけ、何だか世界が華やいで見えるようだ。それほどの存在感を有した少女に、今までランは出会った経験などなかった。
気がつけば、ランは孤独に佇むレティシアの元へと歩き出していた。
何か、明確な意図があったわけではない。ただ、その碧眼に見つめられたらどんなにか素敵だろうと、そんなことを考えて。
――『ご……ごきげんよう。あの……お美しい、王女さま』
慣れない、ぎこちない口調で話しかけた。――確かそうだったと思う。
ぺこりと礼をするランに向かって、王女様はほんの少し目を見開いてから、
――『ありがとう、かわいらしい方』
スカートの裾を軽やかにつまんで、ランに挨拶を返してくれた。
そんなことが、ひどく、ひどく、うれしくて仕方がなかったのだ。
+ + + + +
「――え……ヘーゲンバーグ先輩?」
ドアを開いた直後。
レティシアがまず発したのは、驚きに満ちた声音だった。
開かないドアの前で数時間を過ごしていたランは、いよいよ待ち人が姿を現したことに緊張しつつも、何度も何度も頭の中で繰り返した言葉を間髪入れずに口にした。
「あの、話をしたいの。……部屋に入れてもらえないかしら」
新入生――ミヤウチ・ナナオとの決闘に敗れた、その日の夜のことだ。
ほとんど口に入らない夕食を終えたランは、覚悟を決めてレティシアの部屋へと向かった。
決闘に負けた場合はレティシアに謝ってほしい、とはナナオの言葉だ。その約束を違えるつもりはなかった。というより、すぐにでも謝罪をしなければ自分の気が済まなかったのかもしれない。
だが、申し出が断られる覚悟はしていた。というより、その方が自然だと重々承知していた。
誰だって、自分に害意を持った相手と面と向かって話したいなどと思わない。そんなことは当たり前で、だからレティシアが拒絶するならば、それも致し方ないことだと思っていた。
しかしレティシアの返事を聞く前に、ランの目にある物が留まった。
「それは……?」
レティシアは制服姿のまま、重そうなキャリーケースを引きずっていたのだ。
この時間に、どこかに出かけるというわけではあるまい。不審に思うと、開いたドアの隙間から部屋の中の様子が窺えた。
「え……?」
ランはその光景を目にし、しばし言葉を失う。
レティシアの部屋には、うず高く積まれたキャリーケースの山があった。
もはや本来の生活空間を圧迫するほどの荷物。王族といえども、さすがに非常識な量のように思えるが……
「ああ、見られてしまいましたわね」
事も無げにレティシアがそう言い、肩を竦める。
パタン、とドアを後ろ手に締めてから、レティシアはその美しい碧眼でランを見上げてきた。
「申し訳ございませんが――このあと野暮用がありまして。お話はまた今度でも構いませんか?」
「……私も一緒に行ってはいけないかしら」
僅かにレティシアが目を見開く。ランの真意を計りかねているようだ。
「この件は誰にも言わないから。ヘーゲンバーグ家の名に誓って」
家の名を出したのは、それほどの覚悟があるとレティシアに伝えたかったからだ。
わざわざ人目のない時間を選んだということは、レティシアにはそうせざるを得ない事情があったということなのだから。
やがて、レティシアはランの申し出に頷いてくれたのだった。
無言のまま、ふたりは寮の外に出た。
レティシアの事情を把握しているらしく、寮母のカレンは「暗いから気をつけてね」と声を掛けてきただけだった。どうやら野暮用とやらは、今日一日限りのことではないようである。
黙って後ろについていくだけのランだったが、外に出てすぐ、レティシアがぴたりと立ち止まった。
寮の裏手にある物置小屋の、さらに後ろ。柵と小屋の間の小さく狭いスペースの目の前である。誰も立ち寄らないような、暗くてつまらない、何もない場所だ。
ここで何をするのか全く分からず戸惑うランの前で、レティシアはキャリーケースを慣れた手つきで開いた。
そうしてからその場で上下の向きをひっくり返したので、ランはわけが分からず驚いたが……それよりも驚くべきことがあった。
キャリーケースの中身は――土だった。
大きなケースの中に、あふれ出るほど大量の土が詰まっていた。理解不能の光景だった。
言葉もなく固まるランに、レティシアは振り返らないまま口を開く。
「一気に捨てに行くと、目立つでしょう。だから一日に数個だけ運んでおりますの」
「何でそんなもの……」
「女学院に入学するわたくしへの、姉妹たちからの素敵な贈り物です」
ランは絶句した。
背後からでも見えるレティシアの口元には、笑みが浮かんでいた。ただし異様に冷たい。張りつめた痛みだけが居残ったような、そんな形ばかりの微笑みだった。
「部屋にあったあれら全て、中身は同じようなものです。他には虫の死骸や残飯など、異臭のするものも入っておりましたのでそれらは早めに捨てました。偶然ですが、ルームメイトが居なくて僥倖でしたわ」
苦笑するレティシア。ランはうまく言葉が出てこなくて、ケースの中身を地面に落とし続ける後ろ姿を、ただ見ていることしかできなかった。
遠い日の記憶が、ランの脳裏に甦っていた。
「――レティシア様って、とても美しい方なのね! お母さま!」
お茶会の後。
そんな風にはしゃぐランを、澱んだ瞳で母は見下ろしていた。
「まるでそう、天使のように見目麗しい方で……」
「……何を言っているの、ラン」
「え? 何って……」
「あれはね。あの第九王女は――呪われた存在なのよ」
幼いランは、母親が何を言っているかわからず固まってしまう。
そんな娘に向けて、畳みかけるようにして母は続けた。
「どこの馬の骨とも知れない男と、女王との間に何かの間違いで生まれた子ども。いえ、むしろ女王の子どもなのかも怪しいわ。だから二度とあの子どものことを、美しいなどと言うのはやめなさい。あれは悪魔の子なのです」
それから母はしゃがむと、ランの肩に両手を置いた。
腕には骨が軋むほどの力が込められていて、ランはすぐに怯え出した。自分の目を間近から覗き込んでくる母の、異様に見開かれた瞳孔も、恐ろしくてがたがたと震えていた。
「あんな汚らしい王女に負けてはダメ。あなたはヘーゲンバーグ家の人間として絶対に勝利するの。私たちの家の人間は魔力には恵まれていませんが、剣の腕であれば王族にだって負けはしません」
「お母さま。お母さま、痛い……」
「ほら! 早くそんなドレスは脱いで、さっさと着替えなさい。剣の稽古の時間でしょう、今日のお茶会で遅れた分を取り戻すのよ! 早く! また折檻を受けたいの!?」
「ごめんなさい。すぐやります、すぐに動きます。死ぬ気で努力をします。だからお母さま、どうか、どうかもうぶたないで……」
ヒステリックに叫ぶ母を前にして、いつものようにランは身体を震わせ許しを乞うた。
レティシアのことを褒めたせいか、その日はいつにもまして過酷な稽古となった。否、その日以降、日に日に厳しさは増していき、一日の終わりにはランは立ち上がることさえできないほど弱り果てた。しかし母は少しでも気に食わないことがあると、そんな衰弱したランを引っ張っていっては折檻を加えるのだった。
――地獄の日々だった。
それから一度も、ランはレティシアに会うことはなかった。
例のお茶会のすぐ後に、レティシアは父親を亡くしたのだという。しかしそれを知った頃には、ランのレティシアに対する感情は変質していた。
十年間の間、レティシアに対して募るのは暗い憎悪だけだった。あんな優秀な子と同世代に生まれたばかりに、自分はこんなにも苦しんで、毎日泣いている。すべてはあの汚れた王女の所為だ。すべてレティシアの責任なのだ……。
「いま思えば……いえ、最初から分かっていた。私があなたに抱いていた感情は、ぜんぶ八つ当たりに過ぎないのだと」
アルーニャ女学院。
由緒正しき魔法学院、その魔法科への配属が決まったとき、母は喜んでくれた。母の喜ぶ顔なんて見るのは数年ぶりのことで、ランもそのときばかりは何だか誇らしい気持ちになれた。
それに全寮制の学院に入れるなんて! それならば母の束縛からはようやく解放されるだろう。そう思うと、舞い上がるほどの喜びで眩暈がするくらいであった。
だがそれも、ほんの一時のことだった。
ランはそこでも、一位を取りなさいと母に命じられていたが――入学以降一度も、その命令を果たせなかったからだ。
あるひとりの超人の存在により、ランの存在は霞んだ。
剣の腕でも、魔法の練度でも、そして座学においても、ランは完膚無きまでの敗北を繰り返し味わうこととなった。努力しても駄目だった。どうにもならない才能の差というのが、格の違いというものが、歴然として横たわっていた。
そして追い打ちをかけるように今年……一学年下に、レティシアが新入生として入学したのだ。
逃げ場が次々となくなっていくような感覚だった。毎週末のように家に帰ることを義務づけられていたこともあり、生活に大きな変化はなかったし、ますます暗鬱でさえあった。
そうして、再会したレティシアを陥れようとしたランだったが――その策さえも失敗に終わった。
得意な剣で敗北したのだ。ミヤウチ・ナナオという名の、レティシアに近しい少女によって。
「……ごめんなさい」
黙ったままのレティシアに、ランは頭を下げた。
「ごめんなさい、レティシア王女。私は自分勝手な理由で、あなたと、あなたのお父上を侮辱した。許されることではないとわかっています、でもどうか……謝罪させてください」
「了承しました。ヘーゲンバーグ先輩の謝罪を受け入れます」
「もちろん、簡単に受け入れられないのは理解して…………」
驚きのあまりランは顔を上げた。
すると淡い月光にのみに照らされた秀麗な横顔が振り返り、ランに対して微笑みを浮かべた。
「――正直な気持ちをお伝えしますと、ヘーゲンバーグ先輩の嫌がらせはわかりやすく直球ですので。わたくしの陰湿極まりない姉妹たちに比べればずっとマシです」
「マシって……」
そんなはずはなかった。だが、ランはそこで言葉を呑み込む。
王族内の騒動は、世間では面白おかしく語られる。特にレティシアに関してはそれは顕著だ。
父親が他界してからのレティシアの生活は、それはもう悲惨なものだったと聞く。姉や妹から凄惨な虐めを受ける第九王女の話は涙ながらに、あるいは笑い話として語られてきた。そしてランも同じように、真実かどうかも分からないそんな物語に嘲笑を向けてきたのだ。
当の本人が、どれほどの思いで、ひとりの味方もいない日々を生き抜いてきたかなんて――考えもしなかったのだ。たったの一度も。
「ですから、これ以上の謝罪は不要です。この言葉には嘘偽りはありませんわ」
レティシアの口調は淡々としていた。その言葉通りに。
ようやく土の処理を終えたレティシアが、空っぽになったキャリーケースをパタンと閉じる。
またそれを引きずって歩き出したレティシアを、無言のまま見送りかけて――ランは、震える口を開いた。
「ねえ、聞いてもいいかしら」
レティシアが振り返る。初めて会った頃よりも格段に美しく、気高い王女が。
ランは勇気をかき集めて、ずっと気になっていた言葉を彼女にぶつけた。
「レティシア王女。あなたは……十年前に私と会ったことを、憶えていたの?」
一年生の教室に押し掛けたとき、レティシアはランを見て「お久しぶりです」と言った。
そのことがずっと、ランには引っ掛かっていた。レティシアとランが会ったのは、ただの一度きり――あのお茶会の日だけだったからだ。
「……ええ。だって、忘れようがありませんわ」
「それは――私がみすぼらしかったから?」
「いいえ」
くすり、とレティシアが柔らかく笑う。
いつかの笑顔と同じ顔で。
「あんな風に輝いた目をして、わたくしに美しいと言ってくれた女の子は、アナタが初めてでしたから」
「――――、」
「ごく最近、わたくしを可愛いと言った誰かさんには、他の女性と比べられたりしましたけれど。ですからわたくし、とてもうれしかったのです。……理由はそれだけですわ」
頬に流れる涙の筋を、何度もランは制服の袖で拭った。
それから、レティシアの背中を追いかけた。まだ話したいことが、たくさんあるような気がしていた。
次回からは第2章に入ります。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
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