第10話.妹への誘い
「…………妹?」
ぽかんと呟くナナオの声が掻き消されるほどのざわめきが、教室内へと走る。
「え? ――えっと?」
ナナオが困ったときの知恵袋ことフミカを見遣ると、彼女は呆れた顔をしつつもこっそりと教えてくれた。
「……姉妹契約。アルーニャ女学院特有の制度。上級生と下級生で姉妹の契りを結び、学院や寮での生活をほとんど共にして親密な関係を築く……だけでなく、姉が卒院するときは、基本的に妹も同時に卒院して同じパーティに所属することでも有名。
だから実力ある上級生から声が掛けられるのは、下級生にとっては誉れ高いコト……なんだって」
それってほぼスール制度じゃん!
という心の中の声は何とか叫ばずに堪えたナナオだったが、フミカの説明を聞き咎めたらしく、ポニテ女子は眉間に皺を寄せている。
「……ナナオさんは姉妹契約のことも知らないの? アルーニャ女学院に入学したのに」
「あ、あはは……田舎の出身でして……」
冷や汗を掻くナナオに「まぁ、いいわ」とポニテ女子が溜息を吐く。
「それで? 返事は? まさかノーとは言わないわよね?」
「……えっと、俺、名前も知らない女性の妹になる気はないっていうか」
「私の名前? 私はラン・ヘーゲンバーグ……魔法科二年、次席のランよ」
そこでまた、俄に教室内が騒がしくなった。
「ヘーゲンバーグって、あの?」
「貴族の中でも最上級といわれる特権階級の……」
「聞いたことあるわ。生徒会長に次ぐ実力者として知られてるって……」
ひそひそと会話を交わしながら畏怖と敬意の目を向けてくる下級生たちの様子に、口元に笑みを浮かべたランや取り巻きの女子たちは気分良さそうだ。
「物知らずなナナオさんも、さすがに私の名前を知らないってことはないでしょ?」
ナナオは笑顔のランに向かって、申し訳ない気持ちだった。
椅子から立ち上がり、ぺこりと小さく頭を下げる。
「……勉強不足ですみません。存じ上げません……」
「…………え?」
「でも、何というかその――ハンバーグっぽくて良い名前ですね!」
そのとき確かに空気が凍りついた。
誰もが呼吸さえ止めた。緊張のあまり吐き気を覚えた生徒も少なくは無かった。
その瞬間、唇を引き結んだラン・ヘーゲンバーグの表情は――それほどまでに、恐ろしい形相だったからである。
ただしその場でただひとり――ナナオだけは違った。というかナナオ的にはそれどころではなかった。
ランの名前のことをまったく知らなかったという申し訳なさから、とにかくなにかしら褒めなくては! と思っていたのである。
「俺、ハンバーグ大好物ですよ。肉汁がたっぷりなのが良いですよね、ハンバーグ」
「……む。ナナオくん、トマトが好きなんじゃないの?」
「もちろんトマトは大好きだよ、フミカ! ハンバーグの付け合わせにトマトがあるとテンション上がるし!」
「……つまりトマトはおまけ。私は弄ばれた」
「人聞きが悪すぎる!? いや、俺が言いたいのはトマトがハンバーグを支え、ハンバーグがトマトを支え、人の生活は栄えて経済は循環するってことであって――」
「…………ふっ」
そして凍てついた空気の中、ほのぼのと漫才のような遣り取りをするナナオとフミカの姿に、堪えきれずに噴き出した人物が居た。
レティシア・ニャ・アルーニャ――輝かしい美貌のアルーニャ王国第九王女だった。
「……レティシアッ!」
ギロリ、とランが鋭い目つきでそんなレティシアを睨みつける。
口元を抑えていたレティシアは「ああ、失礼」と優雅に微笑んでみせた。
「それとお久しぶりです、えっと、お名前は確か……ラン・ハンバーグさん、でしたか?」
顔を歪めたランが、怒りのあまりかぶるぶると唇を震わせる。
「……このっ……! 王族の面汚しめ!」
「そうよ! 下等にして劣悪な血!」
「アンタなんかがアルーニャを騙るなんて許されないのよ!」
ランが吠えるように言うと、追従するようにして後ろのふたりが叫ぶ。
その口汚い罵りに、レティシアは涼しい顔をしている。それこそ負け犬の遠吠えを聞いているかのように表情ひとつ変えないのだ。
だがそんな余裕の態度が、ますますランは気に食わないようだった。
頬の筋肉を引き攣らせながらも、レティシアに近づいたランが――その耳元へと、嘲笑うかのように歪んだ唇を寄せる。
「――ねぇ、レティシア王女? ミヤウチ・ナナオ……彼女があなたのお気に入りだって、聞いているのよ私」
「……信用ならない情報網ですわね。新しい従者を雇うのをおすすめします」
「声がちょっと震えてるわね、お姫様。あのね、よく聞いて? 私――だから、あなたから彼女を奪ってあげるの。哀れで小汚い第九王女には、ひとりぼっちがお似合いだものね?」
密かに交わされたらしい遣り取りを訝しみ、ナナオは眉を寄せる。
声はほとんど聞こえなかった。だが……レティシアの表情が揺らいだのを、見逃さなかったのだ。
ナナオはレティシアに声を掛けようとした。
だがその機先を制するかのように、柏手を打つ大仰な仕草と共に、ランが大きく口を開いた。
「そうそう! 先日、従姉妹が主催したお茶会で小耳に挟んだのよ私」
「…………」
「ねぇレティシア王女? 数年前に他界した、レティシア王女の惨めったらしいお父様って――王城に入る前は――春を売って日銭を稼いでらしたって、本当なの?」
示し合わせたように。
どっ! と笑い声を上げた取り巻きたちに合わせて、ランがクスクスといやらしく笑う。
レティシアが黙っているのをいいことに、ランはさらに高笑いをし、
「もう! 本当に嫌よね。そんな汚らわしい男に育てられた第九王女も、もしかして同じく世にも恐ろしい振る舞いをしてらっしゃるんじゃないかって、私――」
――ゴッッッ!
その強烈な音の意味合いを正しく理解できた者は、その場には居なかっただろう。
否――正しくは、ひとりだけ。
すぐ至近距離であまりに痛烈に響いたその音に、恐怖のあまり腰を抜かした人物が居た。
「え……あ……?」
尻餅をついたラン・ヘーゲンバーグ。
彼女は震える手を、そっと自分の頬へとやった。
「わ、私……殴、られ……?」
そう。だって。
確かに、骨がメリメリと凹んで、軋んだ音がした。
自分が何者かにぶたれたのだ、とランは信じて疑わなかった。殴ったのはきっと父親の悪口を言われたレティシアだろう、とも思っていたのだ。
だがその予想――あるいは認識は、何もかもが外れていた。
レティシアは両手を重ねて膝に置いたままであり。
そして、ランの頬はどちらも腫れてはいなかった。
ようやく事実を認識するに至ったランは、のろのろと力なく顔を持ち上げる。
その先に立っていた。
自分の右の頬を、自ら殴りつけた下級生――ナナオが、無表情で立っていた。
だがその光景の意味がまったく分からず、ランはひどく混乱した。
ナナオが、自分で自分を殴った?
でも、何で? 何で彼女は突然そんなことを?
「な……い、いったい何を……」
震える声で問われたナナオは、頬にめり込んだ拳をようやく外す。
ランはごくり、と思わず唾を呑んだ。
……ナナオの頬はひどく腫れ上がっていた。
赤く腫れ、痛々しく変形した頬。切れた口端からは赤い血が滴って、今も床に点々と散っている。
だけど――そこまで微塵の容赦もなく自分自身を殴ることなんて、できるのか?
得体の知れないものに対する恐怖か、何か別の感情によって硬直するランに、何でもないようにナナオは言ってのけた。
「――ちょっと今、先輩に対してムカついちゃったんですけど。女性を傷つけるわけにはいかないので、自分を殴って我慢することにしました」
「え? あ、あなただって女……」
「で、先輩。質問ですが――先輩は俺を妹にしたいんですよね?」
血を流しながらも、淡々とナナオはそんなことを口にする。
ランはどうしようもなく……ナナオの問いに対し、頷くことしかできなかった。
レティシアを苦しめるための策、その手段のひとつとして利用するはずだった下級生が、いつの間に主導権を握っていることにランは気づいていなかった。
ふぅー、と長く息を吐いたナナオが、場にそぐわないにこやかな表情で告げる。
「わかりました。なら――勝負しましょう」
「……勝負?」
そこでナナオは、自身の胸元に手を伸ばした。
そして何事かと目を丸くするランやクラスメイトたちの前で、ナナオは制服のネクタイを解き――それを床に叩きつけるようにして、振り払ってみせたのだ。
ナナオは深い意味があって、その動作を行ったわけではなかった。
だが、そこに込められた強い意志を誰もが感じ取っていただろう。
そう、姉妹契約を結ぶことを決断したふたりは、始まりの儀として通常、お互いの制服のタイを交換し合うのである。
そのネクタイを、躊躇なく床に捨ててみせたのは――明らかに、契約を申し出たランの顔に泥を塗る行為であり、ナナオの敵対の意志を示している。
ぱっぱ、と手を払ったナナオが、にやりと笑う。
「決闘です。勝負の方法は先輩が決めてください」
「ちょっ……アナタ何を!」
硬直が解けたかのように立ち上がったレティシアを、ナナオが目で制す。
次第に落ち着きを取り戻してきたランも身体を起こすと、思わず笑みを洩らす。
「あら……喧嘩は買わないんじゃなかった?」
「そうですね。でも、今回は喧嘩を売ってるだけなので」
さらに飄々とナナオが言い放つ。
「先輩が勝ったときは、俺はおとなしく先輩の妹になりますよ」
「あなたが勝ったときは?」
それはもちろん、とナナオが続ける。
「俺が勝ったときは、――レティシアに謝ってもらいます」
……こうして。
魔法力試験で魔法訓練場を半壊せしめた規格外の新入生、の噂に――新たな、しかも特大の話題が加わったのだった。