† † 悪役令嬢のめざめ † †
「こっちへ来るな、ばけものめっ!」
さけぶ男は、真夜中の教会の中を逃げていく。
手にナイフをにぎり、みっともなく両手を振りまわすシルエットは、まるで周囲にまとわりつく闇をはらっているようだ。
「来るな、来るな、来るなっ!」
がむしゃらに走る男は、まっすぐのびる回廊の突きあたり、開いた扉のまえに人影を見た。
それは漆黒のドレス姿の少女だった。
室内にもかかわらず黒い日傘をさして、壁の聖母子画を見上げている。
「おい、お前! 中に入るんだ! はやくしろ!」
男は、少女を扉の向こうに押しだしてバタンと閉じる。
取っ手のあいだにナイフを通して錠前の代わりにした瞬間、扉はガタンガタンと激しく振動した。
男は「もう追いつきやがったっ」と慌てて扉をおさえる。
扉を押し引きしていた追っ手は、やがて開けられないと悟ったようで、ぴたりと静かになった。
「どうなさったの、ミスター? 教会のなかで騒がしくしたら、せっかく寝息を立てはじめた天使が起きてしまうわ」
傘の下から扉と男を交互に見る少女に、男は言う。
「あんた、ここのシスターか? いま、悪魔の手先に追われてるんだ」
「悪魔の手先?」
「悪魔に『烙印』を押された、地獄落ちが決まってる連中のことだ。ここに悪魔が嫌う教会があってよかったぜ。神なんて信じちゃいないが、これからは主にでも聖母にでも祈ってやらあ」
唇をにいと引く男につられて、少女も赤い唇をほころばせる。
「ミスター、ご存じ? 地獄に落ちるのは罪人ですのよ」
少女が傘を下ろす。
あらわになったのは、ワインのように真っ赤な瞳だった。
艶やかに赤い髪は、腰より下でまっすぐに切りそろえられている。
細い首にはめたチョーカーやレースのカフスの下には、真っ白い肌が透けている。
その姿は、まるで継ぎ目のない球体関節人形のよう。
この世のものとは思えない美しさに、男はごくりと喉をならす。
「《《彼ら》》は、悪いことをした人間をこらしめるために追ってきますのよ。あなたは、ご自分がいかに罪深いかご存じでしょう?」
気高い表情で言いきった少女は、肩にかけていたポシェットから、口径の小さな拳銃を取りだしてかまえた。
「お、お前もあいつらの一員なのか!」
男の声と共鳴するように、扉がガタガタと立てついた。その振動で、取っ手にはまっていたナイフが、ゆっくりと傾いでいく。
「さあ、懺悔なさい」
「うるせえっ!」
少女が引き金に指をかけると同時に、男は反撃に出た。
殴りかかってきた腕をよけた少女は、壁にゴツンと頭をぶつける。
「痛っ!」
思わずうめいたその瞬間、『近づいてくる車のヘッドライト』が脳裏をかすめた。
懐かしい記憶。けれど、むかしのお話ではない。
(ああ、これは私の、前世のことだわ……)
ざあざあ降りの雨の夜。
路上で動けなくなっていた黒い子猫を助けた、かつての少女――私は、運悪く車にひかれてしまった。
「そして、転生したんだわ。大好きな『悪役アリスの恋人』の中に――」
それは世にも珍しい、悪役令嬢を主役にした乙女ゲームだ。
私は、主人公の『アリス』として16年もの歳月を生きながら、今のいままで自分が転生者だと気づかずにいた。
信じきれずに窓を覗きこんだ私は、夜の街を背景にして映し出された姿に歓声をあげる。
「待って、待って! 神絵師が描いた通りの美少女になってるんだけど! こぼれ落ちそうな大きな瞳と、陶器のようにツルツルの美白肌! 内臓がないとしか思えない細さのウエスト!! なにこれ現実!?」
「お、お前なに言ってんだ。きもちわりいな」
オタク特有の超早口で独り言をくりだす私に、男はどん引きだ。
うっかり『アリス』らしからぬ行動を取ってしまった私は、仕切り直しとばかりに美しく微笑んだ。
「ほほほ、お待たせしてごめんあそばせ。もうすぐ次の展開がくるはずよ――」
言っているそばから扉のナイフが外れた。
扉はバンと開け放たれる。
入ってきた黒い影は、男の四方に降り立った。
ひよこ頭の小さな子供が左右に。
ピンク色のストールを巻いた若い男が後ろに。
前に立ちふさがったのは、頭からつま先まで漆黒の少年だ。
彼は、冷たい目つきでサーベルの切っ先を男の喉元にあてる。
「観念しろ、ロンドン塔放火犯ドズリー。もう地獄の蓋は空いてるぞ」
「お、お、俺は公爵家の長男だぞ! 英国警察の奴らだって貴族にはそうそう手を出せない。それを知ってんだろうな!」
「存じておりますわ、ドズリーさま。警察に捕えられたあなたは、お父上である公爵が賄賂を渡したことにより無罪放免になった。けれど、そんな人間はこの大英帝国に必要ありません」
私の口からは、台本なしでも台詞がすらすら出てくる。
前世で、何度も同じシーンをプレイしたからだ。
この『ロンドン塔放火事件』は、ゲームの中では序盤にある共通ルート。
ここでの選択肢によって、各攻略キャラクターの個別ルートに入ることができるのだ。
「これをお渡ししますわ」
私は、真っ赤なハートの封蝋が押された封筒を取り出して、男の足下に落とした。
四方をかこむ黒枠は訃報の印だ。
封筒をやぶって中身を引きだした男は、便箋に記された『ダン・ドズリー逝去のお知らせ』を見て、目をむいた。
「こんなものまで用意して……。おまえら、いったいなんなんだ!」
「ご紹介が遅れました。私は『アリス』。罪人を処刑するリデル・ファミリーの当主です。覚えていただかなくて結構ですわ。だってあなた、もうすぐ死ぬのだもの」
「くそっ! この『悪魔の子』どもめっ!」
男は懐に手をつっこみ、隠し持っていたもう一本のナイフを突きだした。
しかし、刃の先が私のドレスに触れるより、四方からの攻撃が早かった。
男は、断末魔もあげずに息絶える。
「ごきげんよう、ドズリーさま。いつか業火の向こうでお逢いしましょうね」
決め台詞を言い切った私は、心の中でぐっと拳をにぎった。
(よし、きまったっ!!)
悪者を、正義の味方ではなく、あえて《《悪役》》の手法でやっつける、この格好良さ!
本当に『アリス』になれたんだなぁと、私の心は感動でジーンとうずいた。
(さあ、ここからは恋愛のターンよ!)
上機嫌で拳銃をしまった私は、日傘を広げ、じわじわと広がる血だまりに背を向けて、闇の奥へと進みだす。
このあと、先ほどの四人(全員攻略キャラクター)が追いかけてきて、個別ルートに入るための選択肢が出るはず……!
けれど、暗い廊下を進めど進めど、誰も追ってこなかった。
選択肢もポップアップしない。
「あれ?」
不思議に思った私がとって返すと、四人は後始末に追われていた。
片付けまでがお仕事です、ってことだ。
とってもお利口だけれど、乙女ゲームのキャラクターがヒロインを放っておいて片付けなんて。
さすがに優先順位をまちがっている。
「ちょっとみんな、何か忘れてない?」
私が声をかけると、四人はきょとんとした。
口を開いたのは、返り血を頬につけた漆黒の少年だ。
「掃除ならやっておくから、先に帰っていいぞ」
「そうじゃなくて! 私が一人で歩いていったら追ってくるべきじゃない!? そこで『怖い思いをさせてすまない…』とか『お嬢はいつも強いな』とか、甘ったるく言ってくれないと個別ルートに入れないのよ!」
「個別ルートってなんだ……? 悪いが、みんな疲れてるんだ。話は明日でもいいだろ?」
「え、ちょっと、まっ……!」
ずるずると引きずられて馬車に乗せられた私は、いささか乱暴な運転で自分の屋敷に帰りついた。
むろん一人で、だ。
屋敷のまえに立った私は、拳をにぎりしめて悶絶した。
「乙女ゲームの主人公なのに、どうしてこうなるのよ……!」
こうして私――『アリス』が自身を転生者だと思い出した夜は、誰の好感度を上げることもなく過ぎていったのである――。