90話 初めての目覚め
快適な目覚めだった。A界の目覚めよりこちらの方が格段に良い。何て言ったって十分に天日干しされたふかふかの布団にぱりっと糊の効いたまっさらなシーツ、奈津子の愛情がたっぷり詰まっている。前に述べたが、A界の眠りに就いた場所から2キロ以上離れていれば、B界で眠りに就いても目覚めるのはB界だ。
A界の家族の布団は万年床、嫁は寝られさえすればいいと思っている。天日干しなど全くしたことがないしする気もないが、シーツだけは年間数回ほど洗ってくれていることだけが救いか。おかげで夏場の俺は身体中ダニに噛まれている。まぁ清潔な布団で寝れることにこしたことはないが、眠れるなら俺はそう頓着しない。定年して金が無く、飯が食えず、ホームレスになったときの予行練習と思えばいい。有り得ないことはない。A界での俺は、小説が世間の目に留まって映画化され、印税で飯が食える奇跡をひたすら願う。
目覚めた俺は楽しかった歓迎会の余韻に浸る。皆で久留米に帰り着いたときは深夜2時を過ぎていた。アルコールも入っていたし部屋に入るなりバタンキューだ。ウインドファンの取り込む適度な風で寝汗はそう掻かなかった。
コンコンとノックのあと、「お兄ちゃんもう起きたぁ?」
俺の、「おう」という返事とともに奈津子が入って来る。
カーテンを束ねてレースカーテン を残すと、晩夏の柔らかい陽射しが部屋いっぱいに差し込む。
「お兄ちゃん汗掻いたやろ。朝風呂入るぅ?沸いてるよ」
俺は下半身にタオルケットを掛けて身体を起こした。
「お前らも昨日入る時間なかったやろ」
奈津子はにこやかに、「一番風呂はお兄ちゃん」
俺はにやっと笑って、「光栄やな」
「脱衣所に下着置いとるけんね」
「朝ご飯用意出来てとるけん」
浩二も美穂ちゃんも既に起きて居間のテーブルに着いていた。浩二は、俺がこの家に居るときは俺を立て、年下の義理の弟としての礼儀を守る。だから、必ず朝は俺より早く起きる筈だ。
この家に滞在すれば俺は我儘し放題、この環境なら俺に結婚など不要だろう。奈津子が身の回りのことは嫌な顔一つせず甲斐甲斐しくやってくれる。二人は心から俺のことを愛してくれている。まぁ俺が何の取り柄もないパラサイトだったら話も違ってくるだろうが、なんといっても俺は世界に冠たる大作家・木村大悟なのだから。
美穂ちゃんはリビングに入ってきた奈津子にテレビに遣っていた視線を向けて、「伯父さん起きたん?」
「今お風呂に行ったよ」
――でも夢の世界から夢の世界に目覚めるってどんな感じなんやろ。不思議な気分なんやろな。叔父さん言ってたよね。A界の自分の本体がある2キロ以内で眠りに就かないと戻れんって。ここは本当に夢の世界なん?やったら、夢って好い加減な世界やから私の指が6本あっても不思議やないんやけど。
自分の両手を繁々と見詰める。美穂ちゃんは、今回のパフォーマンスで、俺の言うことを完全に信じ込んだ。というより信じざるを得ない。誠心会のチンピラのドスは完璧に俺の腹部を貫通していたが、血の一滴も路上に落ちなかった。万が一、あれが俺一流のマジックだったと思い込もうとしても、交通量の多い幹線道路での大道芸など意味が無いだろうから。
奈津子が、「美穂ちゃん、自分の手なんか見詰めてどうかしたと?」
「う~ん何でもない」
KBC九州朝日放送の朝の情報番組では今年の甲子園の総括をやっている。
「いやぁ今年の決勝戦は静岡高校と広島商業でしたね。緊迫した良い試合でした。結果は1対0で広島商業の優勝でしたが、さすが夏の広商と言われるだけあって、緻密な野球で1点差を守り抜いて見事5回目の優勝を果たしました。でも、九州勢は残念でした。日田林工が九州勢最後の砦として頑張ってくれて、3回戦で広島商業をあとちょっとのところまで追い詰めたんですが、決勝と同じく1点差で敗れてしまいました」
別のコメンテーターが、「でも去年は見事大分代表津久見高校が優勝してくれましたから良しとしましょう。九州勢では昭和40年第47回大会で原監督に率いられて優勝した三池工業以来ですからねぇ」
「終戦直後の学制改革で甲子園が全国高等学校野球選手権大会となって、一回目の優勝校が福岡県の小倉高校でしたので、津久見高校の優勝で全国球児の憧れの深紅の優勝旗が三度も関門海峡を渡ってくれたんですから」
浩二が新聞から視線をテレビに移して感慨深く、「三池高校の優勝が8年前かぁ。九州勢も強くなったもんやなぁ」
美穂ちゃんが、「ねぇお父さん、私と賭けしてみない?」
浩二は怪訝な顔で、「美穂、唐突にどげんしたんか?」
「お父さんちょっと待っとって。トイレ」
美穂ちゃんはトイレに行く振りして浴室のドアをノックした。
小声で、「伯父さんお願いがあるん。今日の巨人阪神戦の試合結果教えて」
「どしたん?」
「うんちょっと必要なん」
「延長10回、4対5で阪神の勝ちや」
「ありがとう伯父さん」
「お父さんお待たせ」
「単純な賭けだよ。今日の巨人阪神戦の試合結果だよ。私が延長10回4対3で阪神の勝ちに掛けるけん、もしスコアが間違ってたらお父さんの勝ち」
浩二が訝しげに、「スコアまでって美穂が不利やろ?」
美穂ちゃんは、「それが不利じゃないん」とにこっと笑う。
「1万円でどうお?」
小耳に挟んだ奈津子が、「1万円って大きく出たわね。そんな大金美穂ちゃん持っとると?」
美穂ちゃんは口を尖らせて、「お母さんの言い方まるで私が当然賭けに負けるみたいやない」
「違うと?」
美穂ちゃんは澄ました顔で、「違うよ」
「私には100%の確信があんの」
「どんな?」
「私この夏不思議な人と親密な関係になったん」
浩二が、「美穂!」と素早く反応する。
「もうお父さん誤解せんで。親密って言ったってそんな意味やないけんね。なんてったってその人はもう50過ぎとるんやから」
「そ、そうか。それは有り得んな」と浩二は椅子に座り直した。
「その人は未来から来た人なん。やからプロ野球の試合結果なんか簡単に分かっちゃう。今年の甲子園の全試合の勝敗とスコアも完璧に当てとんよ」
「嘘!」と浩二と奈津子の声がハモった。
「やから、私がお父さんとの賭けに負ける筈ないん」と美穂ちゃんは言い切る。
浩二と奈津子は、「そんなことある訳ないよ」と笑い飛ばす。
「信じんやろうからお父さんと賭けしたん」
奈津子は、「浩ちゃん、今度美穂ちゃんの奢りで美味しいもの食べに行けるよ」
「良いねぇ」と顎を撫でる浩二。
「もう」と美穂ちゃんは膨れっ面。
奈津子も、「この賭けに私も乗ったぁ。もし美穂ちゃんが勝ったら私と浩ちゃんで1万円づつ美穂ちゃんに払うよ」
美穂ちゃんは嬉しそうに、「やったぁ!儲かっちゃったぁ」
「実は私金欠病やったん」と舌を出す。
「おかしな子」と奈津子が呆れる。
「でも美穂…」と浩二。
「未来から来たんならその人公営ギャンブルの結果も分かるやろうからこの世界で大金持ちになれるんと違うか ?」
「うん」と当然のごとく美穂ちゃんが頷く。
「でもその人そんなことせんでも大金持ちの人格者だよ」
浩二は、「もしかして有名人か?」
「うん」
「例えば美穂が久留米競輪の当り券その人に教えて貰えば金欠病なんか直ぐ解決出来て金持ちになれるじゃん」と浩二。
美穂ちゃんは真顔になって、「その人ね、お父さんとお母さんが私のことを思ってくれてるくらいに私のことを大切に思ってくれてんの。やから私のためにならないことは絶対せんって」
「なんか美穂のすぐ近くにおる人のこと言うとる気がするんやが…」と浩二が首を傾げる。
「美穂教えてくれよ。そん人が未来から来たかどうかは別にして無性に知りたいわ」
美穂ちゃんは睫毛を伏せて、「駄目なん。その人の正体がバレたら私の前から居なくなっちゃうけん」
バレる筈がないし、居なくなる訳がない。美穂ちゃんのように俺の超能力を目の当たりにしたら話は別だが、現実世界だと信じて生きているB界の人間はそんな奇想天外な話絶対に信じない。もし、両親が自分のようにこの世界が俺の夢の世界だと知ったときの驚天動地の精神的ショックを考えた、美穂ちゃんの優しさからでた言葉だ。
「美穂ちゃんの身近な人かなぁ…」と奈津子は腕を組む。
「分かったぁ。お兄ちゃん!」
美穂ちゃんは瞬間どきっとしたが、「な訳ないよね。お兄ちゃんは私たち家族の誇り大作家木村大悟先生やから」
「だよ!」と美穂ちゃんはほっと胸を撫で下ろす。
…余計なこと喋り過ぎちゃった。反省!…
俺は温泉以外の他人の家の風呂は落ち着かない。もう幽霊屋敷になってしまった実家の風呂も同様だが、この家の風呂は妙に落ち着く。まるでA界の自宅の風呂並みだ。脱衣場には腰掛けてパンツを穿けるように椅子が用意されていた。この心遣いが居心地良い。
「いやぁ良い朝風呂やったわ」と俺はリビングのドアを開けた。
「おじさんお早う」と美穂ちゃん。
開口一番、「お兄ちゃんは未来から来たの?」と真顔の奈津子。
『お母さん結構しつこい』とは美穂ちゃん。
俺は平然と、「美穂ちゃんが喋ったん。ああ、確かに俺は2014年の未来から来たんよ」
奈津子は、「な訳ないじゃん。お兄ちゃんのお調子者ぉ!べーだ」
「なん信じねぇんか?」
「そんな与太話信じる訳ないじゃん。お兄ちゃんは私が産まれたときから私だけのたった1人の大切なお兄ちゃんやもん」
「そうか」と俺は苦笑い。




