63話 固い決意
達己は中卒だが、決してそのレベルの頭脳ではない。神童正之の弟なのだから。正行は小さな達己にいつも言い聞かせていた。
――達、人は飯さえ食うとけば生きてはいけるばってそいだけじゃ獣と何も変わらん。脳味噌にも飯食わせな。達、本ば読むんじゃ。小説でも歴史でも思想でも何でも読み漁るんじゃ。分からんことがあったら調べ捲れ。人に聞き回ってもええ。うちは水飲み百姓や。上の学校には行けんでも、本さえ読んどけばいつかは頭が切れるごとなるし未来も開ける。
「兄貴は空中戦に命を賭けて散っていった。舞台は違うとっても俺も兄貴と同じごつ死と隣り合わせの過酷な環境に身ぃ置いときたかったんや。怖いもの知らず命知らずが俺の強味やった筈なんに、女々しく生きようとする自分が見えたわ。そんときの俺にゃ美千子の存在ちゃ触らぬ神に祟りなしや」
美千子が、「達さんには夢とかなかったのぉ?」
「なかったな。食っちゃ寝起きちゃ喧嘩のその日暮らしや」
「俺は兄貴と同じように戦闘機乗りになったみたく命のやり取りのスリルにまるで薬中のごつ恍惚感ば覚えよった」
「ただ喧嘩に明け暮れても暇があったらそこらじゅうの本は読み漁りよった」
「達さんの趣味って喧嘩と読書だったん?」と美千子。
「そうなるかいな」と達己が頭を掻く。
「美千子さんとの話続けて」と由起。
「ああ」とグラスを煽った達己は、「世の中は不思議や。逃げれば追い掛けられる。ここが俺の運命の分かれ道やったんやな。喧嘩にゃ負けなしで若輩の癖に偉そうにふん反り返っとった俺やが、意思の固さじゃあいつの足下にも及ばんやったかもしれん。こうって決めたら意地でも引かん。一週間くらい経って、どうやって調べたんか根城のキャバレー探し当てて訪ねて来たんや。俺に礼ば言いたいっち言うけんやべーなーちゃ思うたばってこれが最後のつもりで会うてやったんじゃ」
「助けて貰うた礼ば言うたあと俺ににこっと微笑みかけて言うんや」
「何て?」と皆が身を乗り出す。
達己ば聞き取り難い小さな声で、「決めたげな」
由起が口を尖らせて、「もう達さん美千子さんが言ったように言って」
「私は達己さんに決めました好きですやったかいな」と達己は気恥ずかしそうにハイライトに火を点ける。
「俺は面食らったわ」
「で、でも凄い!私にはそんな勇気ない」
美千子が睫毛を伏せる。
「物騒な街にか弱い女の子一人。会いたい一心で探し当てた美千子さん。勇気を振り絞って達さんに告白したんだよね?」と明美。
達己はふ〜っと煙草の煙を吐き出して、「そうやな」と簡潔に答える。
「で達さんどうしたん?」
達己はさも当然のように、「受けれる訳ねぇよ」
明美に、「どうして?」と詰め寄られた達己が、「何か俺明美に責められようみてぇなんやけど」と俊夫に助けを求める。
俊夫もマルボロに火を点けると、「達つぁん、このモードに入った明美はもう俺には止めらんねぇよ」
達己はちょっとムキになって、「明美考えてみてくれや。俺は一家ば構えとったんや。小娘に告白されて純なガキじゃあるまいしはい分かりましたちゃ応えられる訳ねぇ。悪ぃこつは言わんけん俺のこつは忘れてくれちその場は逃げたわ」
由起が、「美千子さんかわいそう」と感情移入する。
「達さん聞いていい?」と明美がにっこり微笑む。
明美の笑みに何か嫌な予感がした達己だったが、「何や?」
「達さんは女性に告白されたん初めてやったん?」
「さっきも言うた通り俺は女には不自由しとらんち思うとった。好きちゃ何回も言われたばってみんな俺と同じ荒んだ空気吸うとる女ばっかりや。恋愛感情ちゃどげなものか俺には全く分かっとらんやった」
俊夫が、「達つぁんの気持ち分かるわ」
「確かに…俊も達さんには及ばないもののやんちゃし捲りやったけんね」
明美の矛先が向いて、「すまねぇ」と俊夫は申し訳なさそうに縮こまる。
「達さんの話から推察したら美千子さんそのくらいで諦める訳ないよね。事実達さんは美千子さんに捕まったんやから」と美脚を組んだ明美はメンソール煙草を取り出した。
「俺が由起に捕まったごと」と軽口を叩いた徹を由起がキッと睨むと、「もしかして徹は私では不満なん?」
「もう、由起はいつも悪い方に取るんよね。満足しとんに決まっとるやん」と口を尖らせる。
「よろしい」と由起。
場が笑いに包まれる。
達己が続ける。
「俺は振り返らんやったばってん背中越しに美千子の決意は聞いたぜよ」
「聞かせて」と由起。
「私絶対諦めん、やったかいな」と頭を掻いて達己が照れる。
「達つぁん青春っすね。俺も言うて貰いてぇな」としみじみ漏らす徹に、「徹には無理ね」と由起があっさりダメ出しする。
「何でなん?」とむすっとした徹に、「達さんはあの天下の美女の美千子さんを遠ざけようとしたんよ。私が告白したとき嬉しそうに二つ返事でOKしたじゃん。徹に私を振る勇気なんてあったぁ?」
「由起凄ぇ自信。ほいでも俺に由起ば振る度胸なんてねぇよ」とわざとらしくしゅんとなる。
由起はしてやったとばかり、「ほらみてん」と得意顔だ。
達己はにやっとして、「俺にも由起ちゃん振る勇気なんてねぇよ」
由起は、「もう達さんしれっと口が上手い。本当に佐世保に居たときと同じ達さんなん」と冗談っぽく疑いの眼差しを向ける。
「あと聞かせて」と明美。
「俺は根城のキャバレーにも顔出さんで雲隠れしたわ。どうやっても会えんち分かったら美千子も諦めるやろうち思うてよ」
「数ヶ月経って俺のもとに山崎がやって来て美千子に会ってやってくれち懇願するんや」
「美っちゃん、将を射らんと欲すればまず馬を射よっちゅう諺知っとるや?」と達己。
美千子は右手の人差し指を顎に当てて、「将が達さんで馬が山崎さん?」
「当たりや。さすが西南英専!」
「美千子の奴俺が居らんて聞かされても聞かされても戻って来るんじゃねぇかっち何時間も佇んどったらしいわ。あれだけの美少女や。界隈の噂になってちょっかい出すもんもひっきりなしやったごたるな。そんたびに狂犬山崎がぼこぼこにしよったごたる。美千子どげな怖い目に遭おうが来るんば止めんっちゃ。ほんでとうとう山崎が美千子に根負けした格好や。あいつが折れたっちことは俺が組織ば抜けるっちことば認めたっちことや。組織のことは全部山崎の肩に掛かってくるっちことば覚悟したってことや」
俊夫が怪訝な顔で、「達つぁんちょっと待ってくれよ」
「何や俊?」
「達つぁんは組長のごたるもんやったんやろ。金も力も自由自在やったんやろ。俺が一時期厄介になっとった久留米誠心会の安藤会長が簡単にその座ば下のもんに譲るちゃ考えられん。山崎組長なもう達さんが居らんごつなるんが分かっとるごたるやん」
「ああ、当時の俺にゃ暴れた経過が重要で結果としての名誉欲や権力欲は微塵もなかったわ。やけん組じゃ客人扱いにせぇち山崎に厳命した。肥った狼は狼じゃねぇ。豚や」
「達さんの言うことが本心やったらそげな聖人日本中探しても居らんよ」と俊はあんぐりと口を開ける。
明美も、「それが達さんなら私たち凄い人と付き合ってることになるよ」と俊夫と顔を見合せる。
由起が、「徹にできるぅ?」
徹は真顔で、「できねぇ!」
「山崎は年上の癖に俺の分身のごたるもんやった。俺の性格なんて知り抜いとるよ。俺は不器用や。美千子を取るちいうことは綺麗さっぱり稼業から足ば洗うことになるっちね」
「ある意味山崎組長も凄いよね」と俊夫が感心する。
「美千子に促されてまっとうな人生ば手に入れた訳やが世の中上手くできとるわ。それまでの行いの報いか俺はそれから数年で美千子ば失うこつになった」
達己の性格として、感情を交えることなく淡々と話が続く。それだけに、聞く美千子は涙を禁じ得ない。
――達さん顔には出さんけど心で美千子さんのために泣いてるんだよね。達さんの胸に強烈な記憶を刻み込んで亡くなった美千子さん。名前は同じでも私は代わりになりえるんかな?でも私はどうしようもなく達さんが好き!これだけは美千子さんにも負けてないつもりだよ。
「達さんにとっては辛い記憶なんやろうけど美千子さんはどうして亡くなったのぉ?」と問い掛ける由起の表情は柔和で語調は優しい。
「あいつ、やくざな俺より度胸あんくせに身体が弱いでやんの」と飄々とした喋り出しだ。
「知り合って三年で真知子が生まれた。あいつ体調が優れんことが多かったんやがどうしても二人目は男の子が欲しいちいうんが口癖やった」
「康太ば妊娠したときの美千子の喜びようちゃなかったぜ。医者にゃはっきり言われとったわ。子供は命と引き換えっちよ。あいつにとっちゃてめぇの命なんか二の次よ。俺は釈然とせんやったがのぅ」
由起が、「達さん勿論止めたんよね?」
「何回かはな。でもあいつの意思は岩より固ぇ。無駄やで」と達己は腕を広げた。
「あいつ康太産むんに全く躊躇せんやった。康太が男の子やったこつば神に感謝するごつ一週間後に死んだ」
由起が、「こんな過酷な運命やったんに神様に感謝するの?」
「ああ、少なくともあいつはそういう女だよ」
「美千子さん!」と美千子が呟いたあと、みんな言葉を失って場がしんと静まり返る。
「美千子の話は終わりじゃ」
「何か!何か!みんな湿っぽいでよ」と盛り上げる達己。
「でも…」と由起。
「あいつの意思は岩より固かったばってそれ以上に明るかったんが俺の救いや」




